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中条氏
●一文字/丸に一つ引
●武蔵七党の内横山党  
・『見聞諸家紋』には、中条氏の家紋として「一文字」と「丸に竪一つ引両」が収録されている。  


 古代末期から中世のはじめ、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団である武蔵七党が知られる。武蔵七党の武士たちは弓馬に通じて、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称された。七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。
 横山党の場合、小野篁の子孫で武蔵守となった小野孝泰が武蔵国に下向土着し、その子義孝が武蔵国南多摩郡横山を本拠として横山を称したことに始まるという。海老名・本間・糟谷らの諸氏が分出し、十二世紀のはじめには同族が上野から相模にまでひろがった。源師時の日記である『長秋記』には、横山党は二十数名の同族を擁する武士団であったと記されている。

中条氏の登場

 横山義孝の孫成任は北埼玉郡成田を領有して成田大夫を称し、嫡男の成田太郎成綱は保元元年(1156)の保元の乱に際しては源義朝に従って大炊御門口の戦いで奮戦した。つづく平治元年(1159)、平治の乱に敗れた義朝が殺害されたのち、伊豆に流された頼朝に対して変わらぬ態度で接したという。
 治承四年(1180)、頼朝が旗揚げをすると、成綱は一族とともに馳せ参じ、安達盛長とともに頼朝の側近として活躍した。成綱の弟成尋は中条義勝房法橋を称し、甥の盛綱とともに武蔵国北埼玉郡中条保に住していたが、兄成綱とともに頼朝の旗揚げに加わり石橋山の合戦で奮戦した。
 成綱の死後、盛綱がその所領を相続し、兄義成のあとを受けて京都に駐在した。ところが承久三年(1221)五月、承久の乱が起ると盛綱は上皇方に属して幕府に討たれてしまった。その結果、盛綱の所領は従兄弟にあたる成尋の子家長に与えられた。家長は父の成尋とともに頼朝の旗揚げに参加してのち、源平合戦、奥州合戦などに出陣して多くの戦功をあげ、すでに幕府御家人として知られた人物であった。
 ところで、家長の叔母は宇都宮宗綱に嫁いで八田知家を生んだ女性で、頼朝の乳母の一人としても知られる近衛局であった。八田知家は成田成綱らと同様に、流人として伊豆で不遇をかこっていたころの頼朝に忠勤を励み頼朝から厚い信頼をえた。家長は父成尋が僧であったことから八田知家の猶子となり、本姓藤原氏を称して中条藤次家長を名乗った。そのようなことがあってか、家長はややもすれば不遜な挙動が多かったという。そのため、ついには頼朝から出仕を停められ、知家に預けられて蟄居の身となった。
 その後、みずからの行いを悔悟した家長は、建久六年(1195)の頼朝上洛の随兵に召され、幕府からの信頼を回復した。さらに、幕府の推挙を受けて左衛門尉に任じられ、承久の乱には大江広元とともに鎌倉の留守を勤め、盛綱死後に所領を賜って尾張守護・三河高橋庄地頭に補せられたのである。
 嘉禄元年(1225)に評定衆が定められると、三浦義村らとともに評定衆に登用され、「御成敗式目(貞永式目)」制定時には評定衆十一人のひとりとして連署している。また、尾張国守護職に任じられ、守護職は南北朝時代のはじめまで中条氏が世襲した。ちなみに、中条は「なかじょう」ではなく「ちゅうじょう」と読む。

中条氏の発展

 幕府に重きをなした家長は、嘉禎二年(1236)に七十二歳で死去した。家長のあとは、嫡男の出羽次郎家平が継ぎ、将軍頼経の信任をえて左衛門尉、検非違使、従五位下出羽守に任じられた。家平のあとは、弟の出羽三郎光家、出羽四郎光宗が相継ぎ、ついで、家平の子弥藤次頼平が継いだという。
 とはいうが、家長後の中条氏の系譜は少なからぬ混乱を見せ、『尊卑分脉』の系図によれば、家長の子に時泰が記され、家平は時泰の子となっている。そして、家平の子に時家、ついで孫が頼平とある。『吾妻鏡』には、時家は越後五郎と記され、別本の中条系図によれば、頼平は時平の弟とされている。いずれにしろ、年代からみて時平と頼平は兄弟とみるのが自然なようだ。
 さて、弥藤次頼平は出羽守に任じられて評定衆を勤めた。文永十一年(1274)、三河高橋庄にある猿投神社に深見郷の内を寄進した文書が伝えられ、建長のころ(1250年代)、尾張守護であったといわれている。中条氏はのちに三河高橋庄と深い関係を結ぶが、そのはじめは頼平のころであったと推察される。
 頼平には三人の男子があり、長男の宗長(長宗・長家)は伊豆守となり、二男の景長が出羽守、三男の秀長は備前守となっている。景家を宗長の子とする系図もあるが、宗長の死後、景長が中条氏の家督を継いだことがそのように伝えられたものであろう。
 景長は『尊卑分脉』などによれば足利氏に仕えて、延慶二年(1309)、三河代官となり賀茂郡挙母郷に居住したという。そして、鎌倉幕府最後の評定衆となり、豪勇の将として聞こえ、元弘・建武の争乱に際しては足利尊氏に属して活躍した。景長は挙母城(金谷城)を拠点として、尊氏麾下の高氏とともに三河の南朝勢力と戦った。さらに子の時長とともに尾張に移り、尾張の南朝方と戦ったが、土岐氏が尾張守護に任じられると三河高橋郷に戻ったという。
 一方、『豊田市史』によれば、足利尊氏に属した景長は、建武二年(1335)の矢作川合戦において新田義貞と戦い負傷した。その結果、戦場に出られぬ身体となり、中条氏惣領職および高橋荘地頭職を弟の秀長に譲ったという。秀長は元弘の戦い以来の功と、家長以後の代々が尾張守護職であった実績などから尾張守護職に補任された。さらに尊氏の推挙によって備前守に任じられ、興国六年(1345)の天竜寺供養のときには随兵の一人として参列した中条備前守は秀長である。

幕府内に地歩を築く

 その後、尾張守護職を辞した秀長は上洛して尊氏の側近となり、直義にも仕えるなど幕府内にも重きをなした。観応の擾乱が起ると、尊氏に属して直義方に対峙し、よく激動の時代を生き抜いた。かくして、中条氏は秀長を惣領として、景長の嫡男長秀、その子秀孝らもそれぞれ足利将軍家に仕えて、中条一門は室町幕府内における地位を築き上げたのである。
 観応の擾乱が終熄したのち、秀長は出家して元威と号し、高橋荘地頭職を甥長秀の子秀孝に譲り、みずからは高橋荘北方の伊保郷を領して将軍義詮に仕えた。そして、貞治四年(1365)ころから康暦二年(1380)まで伊賀守護職に在任した。その間、義満が将軍となった応安元年(1368)から評定衆をつとめ、同五年に甥長秀に評定衆を継がせている。
 秀長は兄景長のあとを継いでのち、足利将軍家に仕えてよく一門の繁栄をもたらし、中条氏中興の祖といわれた。まことに秀長は文武両道に秀でた人物であったようで、猿投神社に残された文書は秀長のものが最も多く、また如意寺、長興寺などを建立するなど、神仏に対する崇敬の念も篤かった。
 至徳四年(1384)、秀長が没したのち甥の長秀が中条氏の本宗となった。長秀は天竜寺供養に参列するなど、秀長在世中から幕府に出仕して知られた存在であった。延文三年(1358)には、叔父長秀から中条氏の惣領職を譲られ、将軍義詮、義満に仕えて幕府の要職を勤めた。先述のように応安五年からは評定衆もつとめ、家伝の剣法中条流を将軍義満に師範したと伝えられる。
 剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より伝えられた術といい、頼平の代に大成され平法あるいは中条流と呼ぶようになった。長秀は念流の妙味も加え、中条流中興の祖となった。その後、中条流は富田勢源に伝えられ、富田流と呼ばれるようになった。宮本武蔵と決闘して敗れた佐々木小次郎も中条流の流れをくむ剣士であった。
 さて、中条氏は鎌倉時代より出羽国に領地を有し、至徳四年(1384)に死去したとされる秀長は、甥の長秀らに所職を譲ったあと出羽国に下向したのだという。そして、応永三年(1396)の田村庄司の乱に際して、秀長は篠川・稲村の両御所に従って出陣したことが残された感状から知られる。また、河北の慈眼寺は秀長の開期と伝えられ、『慈眼寺記』によれば秀長は応永十二年(1405)に死去したという。これを信じれば、秀長は高齢の身で出羽に下り子をなしたことになる。そのままに信じることはできないが、秀長のあとを継いだ又九郎長国は、後小松天皇から駿河守任官の宣旨をいただいており、まったく否定することもできないようだ。
 秀長・長秀の二代は尾張・伊賀の守護職にも補任され、評定衆としても重きをなした。ところが、長秀のあとを継いだ秀孝以後、中条氏は守護職に任じられることもなく、秀孝に関する史料もほとんど伝わっていない。嫡流の秀孝が早世したことで、中条氏は幕府内における地位低下をきたしたようだ。
・掲載図:剣法中条流相伝系図

中条氏の転変

 秀孝がいつごろ死去したのかは不明だが、そのあとは詮秀が継ぎ、ついで満秀が惣領となった。詮秀は義詮から、満秀は義満からそれぞれ一字を賜ったもので、中条氏の幕府内における地位が知られる。詮秀、満秀は将軍近習衆として活動したようだが、応永十九年(1412)、満秀は父詮秀に先立って死去してしまった。詮秀の父秀孝の早世、そして満秀の早世によって中条氏の地位は大きく後退を余儀なくされた。
 『尊卑分脉』には中条氏の系図がみえるが、満秀の代までしか記されていず、満秀後の中条氏の動向は不明なところが多い。とはいえ、中条左馬助持保、同右京亮持平、持家、刑部大輔満平らの名が史料にあらわれ、持保、持平、持家は将軍義持の一字を賜ったものと思われ、おそらく満秀の子とみられる。そして、満平は義満からの一字を与えられたものと思われ、満秀の弟かと想定されるが、それぞれ系譜上の位置づけは不詳である。
 永享二年(1430)、将軍義教の拝賀の供奉の一人として刑部大輔満平がみえ、満平は満秀の死後中条氏の惣領の地位にあったようだ。いささかの地位低下を招いていたとはいえ、中条氏は幕府内において一定の地位を維持していたのであった。ところが、永享四年、中条氏は義教の咎を受けて所領没収の処分を受けた。『満済准后日記』によれば、将軍義教の拝賀の供奉をした中条判官は、晴儀にふさわしくない衣装であったことを咎められて面目を失った。そして、高橋荘三十六郷年貢高三万六千貫は、三河守護一色持信と東条吉良義尚に分与され、尾張海東郡は尾張守護斯波義淳に与えられた。
 さらに、京の邸は侍所におさえられ、中条判官は高野山に逃れて遁世し、父の老入道は義教から上洛を命じられ、尾張まできたところで自害を命じられた。このとき、老入道とともにあった孫は一命をとりとめたが、中条氏は没落の運命となった。この事件は、将軍義教が富士遊覧に託して、東海地方の武士たちに幕府の権威を盛り上げようとしことの犠牲にされたものといわれる。
 やがて永享十二年に至って、将軍義教の御教書が中条左京亮のもとに届けられた。さらに、高橋荘も中条氏に返却されたようだ。当時、関東では永享の乱で自殺した関東公方足利持氏の遺児春王丸・安王丸が下総結城城に籠って幕府に抵抗をしていた。いわゆる「結城合戦」で、中条判官は関東に出陣して、嘉吉元年の結城城攻防戦において、首九つをあげる戦功をあげた。この中条判官は持家とみられ、持家は義教から感状を下すという知らせを政所執事伊勢氏から受けている。中条氏に対する義教の勘気は解け、ふたたび幕府に出仕して軍役をつとめるようになったのである。

続く戦乱に呑まれる

 持家は七月まで関東にあって京に帰ったが、そのときには将軍義教はすでに死去していた。将軍専制体制を推進してきた義教は、播磨守護赤松満祐による嘉吉の乱において殺害されたのであった。ここにおいて幕府政治は大きく方向転換し、義教に勘気を受けていた人々はすべて赦免され、中条氏もまったく復活をとげることができた。以後、ふたたび中条氏の名が、将軍近習、奉公衆として史料にあらわれるようになる。
 『文安年中御番帳』『永享以来御番帳』などには、奉公衆の一員に中条与三郎の名がみえる。幕府奉公衆はになることは、守護不入の特権を保証され、幕府直轄領である幕府料所の代官に任命されることもあり、室町幕府体制において名誉なものであった。一方、『永享以来御番帳』に中条判官国与が御供衆にみえ、国与は当時における中条氏の惣領であったようだ。
 その後、関東公方足利成氏が幕府に敵対して関東管領上杉氏と対立し、ついには享徳の乱となった。幕府は管領上杉氏を支援するかたちで乱に介入し、国与は関東への出陣を命じられた。出陣にあたって国与は猿投神社に武勇の名誉を得るため祈祷を依頼しているが、その後の国与の動向は不明である。
丸に一つ引  応仁元年(1467)、京を中心として応仁の乱が起った。中条氏は将軍義政に近侍していたことは間違いないが、応仁の乱に中条氏がのように対したのかは分からない。応仁の乱をきっかけとして、にわかに勢力を伸ばしてきた松平氏との関係も史料からは知られない。乱後の長享元年(1487)、ときの中条氏の惣領政秀は将軍義尚に仕えて、近江六角氏攻めに供奉して近江に出陣した。政秀は評定衆の一員でもあり、『蔭涼軒目録』によれば、奉公衆のなかでは最大の所領を有していたことが知られる。一方、このころ成立したという『見聞諸家紋』には、中条氏の家紋として「一文字」と「丸に竪一つ引両」が収録されている。
 こうして、中条氏は失っていた地位を回復することができたようだが、すでに幕府体制は崩壊しつつあり、将軍の権威も下剋上にさらされつつあった。そのような明応二年(1493)十月、中条秀章は加茂郡伊保の三宅加賀守、寺部の鈴木日向守、八草の那須惣左衛門、碧海上野の阿部孫次郎らとともに、安祥城主松平親忠と井田野で戦い敗北を喫した*。中条氏の支配体制は確実に綻びをみせ、被官である三宅・鈴木氏らも自立の姿勢をみせるようになり、中条氏による高橋荘支配も有名無実化していった。
・家紋:丸に一つ引
天文二年(1533)、中条常隆が三宅・鈴木・那須・阿部氏らと連合して、松平清康と井田野で戦い敗れたというが、 この戦いが重複するかたちで伝えられたものであろうと思われる。

中条氏の滅亡

 十六世紀になると、中条氏の勢力後退はいよいよ激しくなり、ついには挙母城を保持するばかりの存在となった。さらに、政秀以後の系譜、歴代の名前も不明の状態となっている。
 中条氏は鎌倉時代以来、高橋荘を支配して鎌倉幕府の評定衆をつとめ、室町幕府では奉公衆として中央でも大きな権力を有した一族であった。三河国三宮にあたる猿投神社に奉納された多くの宝物や、中条氏文書からもその権勢のほどを伺い知ることができる。さらに、伊保の三宅氏、寺部の鈴木氏らを被官化するなど、三河において戦国大名に発展する可能性を有した国人領主であった。しかし、戦国乱世のなかでなすところなく勢力を失っていったのである。
 最後の挙母城主は中条出羽守常隆で、天文十八年(1549)、今川義元の勢力拡大に乗じた東条衆に攻められ領内の麦畑を薙ぎ捨てられたという。ついで、永禄元年(1558)、松平元康に攻められ、防戦につとめたがついに敗れ降参した。かくして、永禄四年、織田信長に攻められた常隆は一戦も交えることなく、挙母城を開いて御館村の森豊後守の屋敷に入ったと伝えられている。ここに、鎌倉時代以来、三河高橋庄を支配してきた中条氏は滅亡した。
 室町幕臣とは別に関東に残った中条氏は、小田原北条氏に仕え蒔田・大串などの地を領したという。天正十八年(1590)、北条氏が豊臣秀吉の小田原攻めにより滅亡した後は常陸に移り住んだと伝えられている。・2006年2月28日

参考資料:韮山の栞/豊田市史/猿渡町誌/武蔵武士 ほか】

■参考略系図


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