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上州長野氏
●檜 扇
●在原業平後裔?


 長野氏は古代から中世にかけての上野国の豪族で、上野国群馬郡長野郷を本拠とし長野氏を称したとされている。長野氏は在原業平の後裔を称しているが、その出自は明らかではなく、また来歴にも不明な部分が多い。
 『長年寺長野氏系図』の冒頭には、「在原在五中将業平五十代後胤、石上朝臣長野伊予守業尚」とあり、この業尚が明応元年(1492)長年寺を再建して開基となり、箕輪城を築いた長野氏の中興の祖である。同系図にあるように、長野氏は在原業平の子孫として在原を称したが、本姓は石上で、おそらく石上布留明神を氏神とする物部氏系の氏族と思われる。平安末期以来、長野氏は上野国長野郷を本拠地とし、浜川の御布呂の地にあった石上寺(布留明神)を氏神とした豪族であったようだ。
 戦国時代のものと推定される熊野那智大社の『実報院諸国旦那帳』に、「上野国まへはし殿名字ハなかのと御なのり候へとも、いその上氏也、箕輪殿・大こ殿」とあり、前橋(厩橋)氏は、名字が長野で姓は石上と記している。このことからも、厩橋氏を含む長野氏は戦国時代に在原・石上の二つの姓を持った一族であったことが知られる。在原氏と石上氏との関係は、物部氏の祭神、石上布留明神を祀った大和国石上の地が、同時に在原業平の居住地といわれ、石上寺・在原寺があったことから、長野氏は先祖を在原業平に結び付けて「業」を通字としたものと考えられる。
 長野(石上)氏という物部系一族がいつごろ西上野に定着したかは不明だが、『除目大成抄』の天喜二年(1054)に上野権介正六位石上朝臣兼親の名があり、この兼親が留住貴族として長野氏の祖になった可能性がある。また、鎌倉時代の『吾妻鑑』に長野氏は登場しないことから、長野氏は非御家人の在庁官人であったと考えられる。そして、鎌倉期から南北朝期にかけての長野氏の動向は遙として分からない。

歴史への登場

 長野氏が歴史に登場してくるのは、十五世紀前半の永享十年(1438)に起った永享の乱後の結城合戦(1440)においてである。長野氏は上野一揆の一員として、周防守・宮内少輔・左馬介の三名が参陣し、結城方武士の首をとる戦功をあげた。このころ長野氏は上野一揆として編成され、関東管領の任にある上野守護山内上杉氏の軍事力の一翼を構成していたようだ。
 ついで文明三年(1471)、将軍足利義政は「享徳の乱」において古河公方足利成氏攻めに戦功を顕わした味方の将士に大量の御内書を発給したが、長野左衛門尉は小幡右衛門尉とともに守護上杉顕定の注進に基づいて御内書を得ている。このころになると、長野氏が小幡氏と並び立つ上野国人層の有力者に成長していたことが知られる。
 文明九年の「長尾景春の乱」には、上野一揆の旗頭長野為兼が景春に味方して、武蔵針谷原の合戦で討死した。下って永正元年(1504)九月、山内上杉顕定が扇谷上杉朝良と争ったとき、今川氏親と伊勢長氏(のちの北条早雲)が朝良を支援して武蔵立河原で合戦した。この戦いに、上野一揆の長野孫六郎房兼は顕定方として出陣し討死しているが、この房兼は為兼の兄弟か子であろうと思われる。
 立河原の合戦は両軍死力を尽くした激戦で、当時、関東に廻遊していた連歌師宗長は、「数刻の合戦、敵(顕定)討負て本陣立川に退、其夜行方しらず、二千余討死討捨、生捕馬物の具充満」と記している。長野氏は為兼・房兼の相次ぐ討死後、一時勢力は衰退したようだ。

山内上杉氏麾下として勢力を伸張

 ところで、長野氏は乙業の時代、長野郷浜川の館に居住していたという。そして、乙業の子業尚(一に尚業とも)は、関東管領上杉顕定の執事となり、双林寺の曇英慧応に帰依して下室田に長年寺を建立した。また、業尚は浜川から下室田に居を移し鷹留城を築いたと伝えられている。しかし、業尚に関しては系図以外にその存在を語る確実な史料はない。
 乙業・業尚父子と為兼・房兼とは、ほぼ同時代の人物であり、おそらく長野氏にはいくつかの流れがあり、管領山内上杉氏に仕える系、一揆の旗頭として山内上杉氏に属する系とがあったようだ。長野氏が山内上杉氏の執事の地位にあったとは思えないが、将軍足利義政から御内書を発給された長野左衛門尉は乙業か業尚であったと思われる。そして、為兼・房兼系長野氏が勢力を失墜したことで、乙業・業尚系が長野氏の主流となったのではないだろうか。
 系図上で業尚の次に記されるのが伊予守憲業(兼業・信業)で、永正九年(1512)に下室田の長年寺に対し壁書を定めている。それは、長年寺を「不入」の地として尊重し、重罪人でも寺内に入れば領主などの「成敗」が及ばないことなどを規定したものである。翌年四月には、榛名山の巌殿寺に願文を捧げ、大戸城を攻め落とすことを祈願している。憲業は大戸城に攻撃を仕掛け、長野氏の軍事的拡大を図ったようだが、大戸城を抜くことは出来なかったようだ。
 大永六年(1526)、憲業は箕輪城を築くと長子業氏に鷹留城を与え、箕輪城を拠点として西上州に勢力圏を拡大し、惣社長尾氏の勢力圏と境を接するまでになった。翌七年には、惣社長尾顕方が後北条方に通じたことを口実に、弟で厩橋城主の左衛門大夫方業(方斎)とともに惣社長尾氏を挟撃している。

長野氏の台頭

 この長野氏の台頭に対して、惣社長尾氏は白井長尾氏とともに越後の長尾為景と結ぶことで頽勢を克服しようとした。さらに、為景が山内上杉氏と和を結んだことで、両長尾氏は山内上杉家への復帰を為景を通じて図ろうとした。
 ちなみに、為景と山内上杉氏の和議を取り結んだのは、長野氏の菩提寺である長年寺の長老で、その会談は草津で行われている。その背景には、長野氏が何らかの形で働いたとみてまず間違いないだろう。そして、山内上杉家内部における主導権は、長尾氏に代わって長野氏が掌握するところとなっていったようだ。その後、憲業は箕輪城を次男の業政に譲ったのち、吾妻郡猿ケ京の古城を修築してそこに拠った。
 憲業の後は業政が継承し、業氏の室田鷹留城、厩橋長野氏を含めた三本柱を枢軸に、かつて上野一揆として同格であった武士たちを組織・編成して西上野の雄に成長した。そのような享禄元年(1528)、白井長尾景誠が家臣に殺害されるという事件が起った。景誠には男子が無かったため、後継ぎのことが問題となった。
 景誠は長野業政の姉が景英に嫁いで生んだ人物で、業政にとって甥にあたっていた。さらに、山内上杉氏の実力者でもある業政は白井長尾氏の家督相続に介入し、惣社長尾氏から景房を迎えて白井長尾氏を継がせた。その後、白井長尾景房は惣社長尾氏とともに山内上杉氏に復帰したが、両長尾氏の上杉氏帰参は長野業政が上杉氏を動かした結果と思われる。
 このように、長野業政は西上州の雄として、山内上杉氏家中の有力者に台頭したのである。一方、このころになると、小田原を拠点とする北条氏が相模から武蔵へと勢力を伸張していた。北条氏綱は扇谷上杉氏に攻勢をかけ、大永四年(1524)に江戸城s、ついで岩付城を攻略し、天文六年(1537)には河越城を攻め落とした。

山内上杉氏の没落

 天文十四年(1545)、山内上杉憲政は後北条氏の台頭を押えるため扇谷上杉朝定と結び、古河公方晴氏にもよびかけて、後北条方の武蔵国河越城を攻撃した。その軍勢は一説に八万とも称される大軍であったが、翌十五年、北条氏康の夜襲によって連合軍は壊滅的敗北を喫した。
 この陣に長野業政も上杉方として参加し、業政の嫡男吉業は重傷を負い長野勢は箕輪城へ逃げ帰った。この敗戦で山内上杉憲政は武蔵国からいっさい手をひかざるをえなくなり、両上杉氏と古河公方の連合軍に潰滅的打撃を与えた北条氏康の勢力が関東一円を席巻するようになった。しかし、敗れたりとはいえ、白井・惣社の両長尾氏、長野氏を盟主とする和田・小幡らの上野勢、さらに太田・成田・深谷上杉らの武蔵勢は依然として山内方にあった。
 このとき憲政が家政を引き締めなおし、配下の諸将の結集をはかることに意を注げば体制の挽回も不可能ではなかっただろう。ところが憲政を取り巻く佞臣たちは、上杉家の威勢を示すため甲斐の武田信玄を討てば、氏康は自然に投降してくるという愚策を建言した。それを聞いた長野業政は「それは無名の戦いであり、御敵は氏康であり、武田を敵にして何の益があろうか」と、断固反対をした。しかし、憲政は佞臣たちの策をいれて、天文十五年(1546)、倉賀野・深谷・安中・和田・後閑・大胡ら二万騎の軍勢を催して碓氷峠に兵を進めた。これに対して、武田信玄は板垣信方、小山田信茂を将として上杉軍を迎撃し、激戦のすえ、戦いは上杉軍の大敗に終わった。
 憲政は後北条氏に加えて武田氏をも敵にまわす結果となり、山内家の衰退は一層深まったのである。かくして、山内氏を見限る被官が出てくるようになり、天文十八年、憲政は平子房長を通じて長尾景虎に救援を依頼した。一方の氏康は天文二十年、平井城に兵を進め神流川の合戦で上杉勢を破った。ここに至って、万策尽きた上杉憲政は長尾景虎を頼って関東から逃れ去った。氏康は平井城に北条長綱をいれ、ついで厩橋・沼田城を攻略していったが、業政は箕輪城に拠って後北条軍に屈しなかった。

箕輪衆の領袖、長野業政

 憲政が越後の長尾景虎を頼って平井城から退去すると、業政は管領再興を名分として後北条・武田氏の侵攻に対抗するため西上野の武士たちを結集し、居城箕輪城にちなみ「箕輪衆」と称した。
 業政には十二人の娘があり、小幡氏の二家、武蔵忍の成田氏、木部・浜川・大戸・和田・倉賀野・依田・羽尾・鷹留長野氏・厩橋長野氏にそれぞれ嫁し、この姻戚関係を通じて長野氏の勢力は著しく強化され西上野最大の軍団を形成した。そして、この勢力をもって業政は武田信玄の西上野侵攻の前に大きく立ちはだかったのである。
 業政を中心とした箕輪衆が勢力を拡大していったのは、姻戚関係もあっただろうが、上野守護山内上杉憲政の没落、山内上杉氏の家宰であった長尾氏が内部抗争で衰退し、新しい指導者が求られていたことが一因であった。すなわち、後北条氏や武田氏の勢力拡大に対する上野諸氏の存亡を賭けた政治的対応があった。そして、なによりも業政の武将しての器量が優れていたことが大きかった。
 箕輪衆の勢力を謙信が残した『関東幕注文』によってみてみると、長野業政を旗頭として十九名であり、それに同族の長野藤九郎を旗頭とする厩橋衆の四名を合わせると二十三名になる。これは、白井衆九名、惣社衆十七名とある両長尾氏に匹敵する人数であり、上野内での衆としては、新田(由良)衆につぐ大勢力であった。そして、箕輪衆は業政の箕輪城を中心に、その北方に八木原・長塩・漆原氏が、東方には須賀谷、南方には浜川・下田・和田・倉賀野氏が、碓氷谷・甘楽谷にかけては依田・高田・内山氏が・西方には大戸・羽尾氏らが割拠して、長野業政を旗頭とする一揆を構成していたのである。

武田信玄との攻防

 信玄が上野侵攻を決意したのは、天文二十一年、関東管領上杉憲政が北条氏康に遂われ、越後の長尾景虎をたより、上杉姓と関東管領職を譲るという情報を得たときであった。関東管領職を譲られた景虎は当然、関東に兵を出し上野を支配下におくことは必定である。それは信玄にとって、越後と上野の両面から領国信濃・甲斐を脅かされることになる。このことが、信玄に上野侵攻を決意させたのである。しかし、信玄の上野侵攻に際して長野業政の存在が問題となった。
 業政は侍六百二十一騎、精兵一万を擁して箕輪城を守っていた。信玄は業政にまともに当たる愚を避けるため懐柔策を講じた。信玄は業政に書状を送り、武田の上野侵攻の先導役を努めてくれるよう依頼した。天文十五年、憲政が上州の諸将を率いて信玄に戦いを挑んだとき、一人業政のみは兵を出さず箕輪城から動かなかった。このことに成算を感じた信玄からの依頼であったが、業政はにべもなくその申し入れを断わった。
 懐柔に失敗した信玄は、武力による上野侵攻を決行することになる。弘治三年(1557)四月、信玄の嫡子義信を大将とする一万三千の武田軍は、余地峠をこえ上州に攻め込んだ。これを迎え撃った業政は、先陣を叩くと箕輪城に籠城し武田軍の矛先をかわした。翌永禄元年、信玄みずからが武田軍団を率いて上州に侵攻した。このとき、たまたま吾妻方面に出向いていた業政は、信玄の来攻を知るやただちに兵を帰し、夜営中の武田勢を急襲して散々に打ち破った。翌日には折りからの強風を利して武田勢の風上にまわると火を放った。武田軍は食糧を焼き、弾薬を爆発させるという有様になり、命からがら甲斐に逃げ帰った。
 やがて、憲政を庇護していた越後の長尾景虎(のち上杉謙信)が、永禄三年から翌年にかけて関東に出兵してくると、長野氏は箕輪衆、厩橋衆を率いてこれに参陣した。このとき謙信は「関東幕注文」を作成したが、そのなかに箕輪衆、厩橋衆も名をつらね、当時の長野氏の勢力のほどがうかがえる
 一方、度重なる敗戦に意地となった信玄は、永禄四年五月、二万の軍勢をもって鷹留城を攻撃し、さらに箕輪城へ攻め寄せた。しかし、箕輪城を抜くことはできず、またもや信玄は無残な敗退を味わわされた。しかし、信玄は長野方の戦術の変化に気付き、業政の死を直感したという。流石に信玄で、業政は永禄三年(永禄四年説もある)六月に病没していて、長野勢はそれを秘して武田軍を迎え撃っていたのであった。

箕輪城落城

 業政が没したのちは、子の業盛が十四歳で家督を継ぎ箕輪城主となった。永禄四年、武田軍の攻撃を撃退したものの、信玄の西上野侵攻はさらに激しくなり、同年十一月には小幡氏が武田氏に降り、箕輪城を中心とした一揆の一角が破れた。永禄七年になると倉賀野城、安中・松井田城が落城し、ついに、武田氏は長野氏の拠る箕輪城近くまで攻め寄せてきた。翌永禄八年、信玄は諏訪上社と佐久新海明神に願文を捧げ、箕輪城をはじめ総社・白井などの諸城攻略を祈り上州に出陣してきた。
 信玄の箕輪城攻撃はいよいよ最終段階に入った。信玄は力攻めのほかに、長野氏方に属する武士たちに恩賞をもって切り崩しを行っていた。かくして永禄九年(1566)、信玄による箕輪城攻撃が行われた。その様子は『箕輪軍記』には以下のように記されている。
 「信玄は、安中・松井田・箕輪の三城を同時に攻略した。松井田・安中の落城によって碓氷川から烏川の流域で甲州軍が進み、若田原で激戦が展開された。城方の青柳忠家は、二百人の手兵を率いて白岩で防戦したが敗れて退いた。追撃する武田方の軍兵は、箕輪城の城門近くまで寄せてきた。城兵は、城門を開いては打って出たが、その度に戦死者が多く出て城へ戻らず、城兵の数も少なくなってきた。城主長野業盛は、いよいよ最後の時が迫ったことを知り、持仏堂に入り、辞世の一首を書き残し、念仏を三遍唱えて自害した。家臣たちもその後を追って自害した」これが『箕輪軍記』にみえる箕輪城の最後の様子である。永禄九年(1566)九月二十七日のことであったという。
 こうして箕輪城は落城、長野氏は滅亡した。この箕輪城の落城は、武田信玄の上野支配を確実なものとした。翌永禄十年二月、信玄は内藤修理亮昌月を箕輪城に配置して上野の抑えとした。・2005年4月20日

参考資料:箕輪町史/群馬県史 ほか】
●ダイジェスト



■参考略系図
・「古代氏族系譜集成」「群馬県史」などから作成。  


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