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上州長野氏・ダイジェスト
檜 扇
(在原業平後裔?)


 古代から中世にかけての上野国の豪族。上野国群馬郡長野郷を本拠とし、長野氏を称す。出自は明らかではないが、古代の西上野地方に勢力を伸ばしていた石上氏の子孫という。『長野氏系図』によると、在原業平の子孫と伝え、「業」の字を通字としたとある。
 関東結城合戦では、関東管領・守護上杉氏に属している。また、長尾景春の乱には、上州一揆の旗頭として加わっている。長野氏は西上州を中心とする上州一揆の一員として、一揆結合の要として上杉氏の下であえ威力を伸ばしたのである。
 十六世紀初頭に尚業が箕輪城を築き、これを拠点に次第に勢力を拡大。尚業の二男方業は厩橋城を築いて東上野に進出、惣社・白井両長尾氏を圧迫していく。大永七年、憲業・方業兄弟は惣社長尾氏を攻めて屈服させている。
 憲業の子業政は、関東管領上杉憲政に仕え、憲政が北条氏康と戦い平井城から退去すると、管領再興を名分とし、北条・武田氏の侵攻に対抗するため西上野の武士たちを結集し、居城箕輪城にちなみ箕輪衆と称した。
 永禄三年から翌年にかけての越後上杉氏の関東出兵には、長野氏は箕輪衆、厩橋衆を率いて参陣した。『関東幕注紋』によると、箕輪衆は業政と同じく「檜扇」の紋を持つ南・小熊・浜川・羽田・八木原・須賀谷・和田など十人、長塩・漆原.倉賀野・羽尾など九人の十九人であった。業政は子女を小幡氏など西上野の城主に嫁がせ、西上野最大の軍団を形成した。
 業政は永禄四年に没し、その子業盛が十四歳で家督を継いだ。しかし、信玄の西上野侵攻は激しくなり、同年十一月小幡氏は武田氏に降り、箕輪城を中心とした一揆の一角が破られた。永禄七年倉賀野城、安中・松井田城が落城し、武田氏は本城の箕輪城近くまで寄せていた。
 永禄八年、信玄は、諏訪上社と佐久新海明神に願文を捧げ、箕輪城をはじめ総社・白井などの諸城攻略を祈り上州に出陣。翌九年九月、武田勢の攻撃によって業盛奮戦むなしくついには自害し箕輪城は落城、長野氏は滅亡した。


■参考略系図

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