長野氏
三つ引両
(藤原南家流工藤氏族) |
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長野氏は、曽我兄弟に殺された工藤祐経の三男祐長が、伊勢平氏残党討伐のため、長野の地頭職となり、安濃・奄芸二郡を給わり、その子祐政が長野に来住して長野氏を名乗ったのがはじまりとされる。
祐政の長男の祐藤は文永十一年(1274)に長野城を築き居城とした。祐藤の長男の祐房は家督を継ぎ、次男の祐高は雲林院家を、三男の祐宗は細野家を興して、長野家の分家としてそれぞれ長野氏発展の一翼を担った。
中世の争乱と長野氏
南北朝時代には、伊勢国司北畠氏が南朝方の中核となって活躍しているなか、祐房は、足利尊氏に仕え、安濃・奄芸両郡を長野工藤の同族連合の国人で固め、時には一族が分かれて南北両朝にくみして戦ったこともあったが、おおむね北朝方について行動した。
応仁の乱およびそれに続く文明の乱中、北畠氏も長野氏も下剋上の風潮のなかで、自己の勢力の保持・拡張のため、戦いと同盟、政略結婚など、複雑な対応を迫られている。長野氏は、この間を利用して美濃の時成頼や斎藤利国らと結んで、北伊勢に進出して桑名にまで至った。
長野経藤のとき、次男の藤忠が中尾家、四男の藤照が川北家を継いで、長野氏は安濃・奄芸二郡を基盤として中伊勢の有力国人に成長した。南北朝合体後の応永二十一年(1414)、伊勢国司北畠満雅が小倉宮を奉じて挙兵した際には、長野満藤は幕府に従って土岐持益・仁木満長とともに北畠氏を攻めてこれを倒した。正長元年(1428)、ふたたび北畠満雅が小倉宮を奉じて挙兵、この時も長野氏は幕府側に属して、仁木持長・一色義貫らとともに岩田山の合戦に参陣、北畠満雅を敗死させている。この功によって将軍足利義教から一志郡を賜っている。その後も長野氏は北畠国司家と抗争をつづけるが、永享九年(1437)、将軍足利義教の命により細川成之に従って大和多武峰に出陣、翌年、長野満藤は草生大和・中尾民部・雲林院らの一族を率いて世保持頼を三輪に攻めて、これを討ち取った。
文正元年(1466)、将軍足利義政夫妻の神宮参詣の時は長野氏も伊賀柏原、守護一色氏を安濃津に迎えるが、北畠氏も独立化しようとする在地勢力を抑えるため幕府と結び付き、伊賀の平尾に将軍を迎えた。翌年、応仁の乱の乱が起こると、守護の一色義直に従って山名持豊の西軍に属し、細川方の東軍に従った国司北畠氏と戦った。細川勝元は伊勢方面の東軍強化のために、足利義教に殺された世保持頼の子政康を伊勢に侵入させ、一時東軍が有利となった。よころがその後、政康は西軍に荷担し、北方から美濃の土岐成頼の軍が侵入したうえ、文明三年(1471)に教具が没し、その跡を継いだ子の政郷が西軍に加わわったことから西軍が有利となった。
長野氏は自己の勢力の保持・拡張のため、美濃の土岐成頼・斎藤利国らとむすんで北伊勢に進出。北畠政郷は長野氏を討つため攻め込んできたが、長野氏はこれを撃退した。
長野氏と戦国時代
長野氏十五代を継いだ藤定は南伊勢に勢力をひろげようと、兵五千を率いて北畠氏と垂水鷺山で戦った。勝敗はつかずに互いに南北に退いた。以後も、長野氏は北畠氏と中伊勢で攻防、あるいは共闘が続いた。天文十三年(1542)、長野氏は北畠氏・関氏らとともに美濃の土岐氏・越前の朝倉氏らとむすんで、近江の六角氏を助けて京極氏を攻めている。
天文十六年(1545)から十八年(1547)にかけて北畠晴具は長野氏を抑えようと襲撃、戸木と七栗の間の葉野で戦い激戦となって、長野方の大将分部与三衛門が戦死するなど、一志郡内で両氏の攻防が続いた。その後永禄元年講和の議が整い、藤定に嗣なきをもって北畠具教の二男具藤を長野氏の養嗣とし、長年の両氏の抗争に終止符を打ったが、長野氏は北畠氏の幕下に入ったといえよう。
永禄十一年、中伊勢に侵攻した織田信長に対して和戦両論に分かれたが、結局、織田信長の弟信包を長野氏の嗣とすることを申し入れた。信包は長野城を出て、安濃津・上野に本拠を置き、長野一族は織田氏の幕下に入った。
中世を通じて中伊勢地方に根を張り、有力国人として活躍した長野氏も、北畠氏との抗争の間、同族連合の古い形のままで戦国大名として成長しえず、織田氏に屈したのであった。
その後、長野氏は信長の北畠征伐に参加して、阿波.大河内城攻めに従軍したが、大河内城は信長の三男信雄を養子とすることで和睦、具藤は天正四年(1576)田丸城で信雄の手によって北畠一族十三人とともに殺され、長野工藤氏の嫡流は滅亡した。
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