永原氏
五三の桐/二つ巴
(藤原姓)
・野洲郡史に記された永原氏
系図の記述に拠るが、実際
のところは不明。 |
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近江国の守護職は、鎌倉時代のはじめよし戦国時代末期にいたるまで佐々木氏が任じられた。佐々木氏宗家は、鎌倉時代後期に六角氏と京極氏に分かれたが守護職は概ね六角氏が補任された。両佐々木家からは多くの庶子家が分立したが、その一家に野洲郡永原から興った永原氏が知られる。
佐々木六角氏の居城であった観音寺城址研究の先覚である田中政三氏の著書『近江源氏』などによれば、永原氏は佐々木経方の四男家行の流れで、景長の代に野洲郡永原村に移り、その地名をとって永原氏を称した。のちに佐々木六角政頼の二男高賢が入嗣したことで、佐々木六角氏に重きをなすようになったと記されている。しかし、永原氏の佐々木氏分流説には、様々な疑問点が見えかくれする。
●永原氏の出自を探る
永原氏の出自に関して、『野洲郡史』では永原氏の後裔の家に伝わる文書をもとに藤原秀郷流説を紹介している。それによれば、藤原秀郷十二代の孫で源頼朝に敵対した滝口俊秀の三男瀬川俊行が近江国栗太郡に住し、その七代の孫に永原大炊助宗行が出た。この大炊助宗行は、将軍足利義満に仕えて明徳の乱に功があり、野洲郡のうちに十八郷を賜り永原氏の祖になったのだという。
とはいいながら、野洲郡史は秀郷流説に疑問を呈し、当時の政治情勢と郡内に伝わるという永原氏系図などから、永原氏は佐々木氏の後裔であろうという説を展開している。そして、秀郷流説と佐々木氏流説の接点をなす人物に佐々木政頼の子をあげている。すなわち、秀郷流大炊助宗行の曾孫にあたる越前守重行は佐々木政頼の子重賢を養子とし、一方の佐々木氏流永原氏行は佐々木政頼の子高賢を養子に迎えている。このことから、越前守重行と佐々木永原氏行を同一人物とし、重賢と高賢とを同一人物とし、両者の共通性を語っているのであるが牽強付会の感はぬぐえない。
室町時代後期の六角氏は内訌の連続によって分裂状態にあり、系図も錯綜して不明点が多い。そして、佐々木政頼の名は流布する佐々木六角氏系図には見いだせない。政頼を六角久頼の子で六角高頼の父と推定するものもあるが、その実在は疑問であるというしかない。
系図の詮索はともかくとして、永原氏が確かな史料上にあらわれるのは応永十六年(1409)の永原孫太郎入道と同彦太郎である。ついで、応永二十六年の菅原神社本殿造替の棟札に永原新左衛門入道正光があらわれる。そして、文明十六年(1484)に正光の子と思われる良堂正久の二十五年忌を永原吉重が営んでいる。相国寺の横川景三は良堂正久を「賜藤氏」と記し、永原吉重は「承大織冠直下孫」とみずからを称している。かててくわえて、吉重の子重泰(重秀)も藤原氏を称し、関東藤原氏の氏神である鹿島社を勧進していたことが知られる。
これらのことから、戦国時代、野洲永原城に拠った永原氏は藤原氏姓であったとみて、まず間違いないといえよう。永原氏の佐々木氏流説は、江戸時代はじめの「偽系図づくり名人沢田源内」が著した偽書『江源武鑑』や偽系図の影響をうけて創作(あるいは間違った史料を用いた結果の誤解)されたものというしかない。
●永原氏の台頭
さて、永原氏は六角氏重臣で近江守護代を務めた馬淵氏に仕えていた。馬淵氏は南北朝時代より蒲生郡・野洲郡の郡奉行に任じており、野洲郡の在地土豪である永原氏は必然的に馬淵氏の軍事指揮下におかれ、その被官として六角氏の領国体制に組み込まれていた。
大篠原にある牛頭天王社(大笹原神社)に残された中世の棟札をみると、応永二十一年(1414)のものは馬淵氏が主体となって造立されているが、文亀元年(1501)のものでは馬淵氏が神主であるものの永原氏が願主としてその経済的支援の中心となっている。加えて、文亀二年に行われた御上社の楼門の屋根葺き替えに際して、御上社は社領三上山の山林を売りに出したが、その多くは永原一族が買得している。
このように十五世紀のはじめには馬淵氏の被官であった永原氏は、応仁の乱を経て戦国乱世に推移した十六世紀ごろになるとその勢力を強め、守護六角氏や幕府も無視できない存在に成長した。そして、馬淵氏から自立した勢力となり、幕府の権力闘争に六角氏とともに介入するようになるのである。応仁の乱後の乱世は幕府の権威を失墜させ、将軍は管領によって傀儡化されていた。いわゆる下剋上の嵐が吹き荒れ、永原氏も在地領主としてそのような時代を生きていたといえよう。
明応二年(1493)、細川政元のクーデターによって将軍足利義稙が失脚、義澄を将軍に擁立した政元が幕政を壟断した。ところが、政元は修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなかった。そのため、関白九条政基の子澄之と一族の阿波守護家の細川義春の子澄元を養子に迎えた。これが、家臣団の分裂をよび、永正三年(1506)、政元は澄之派の家臣によって暗殺されてしまった。以後、将軍家と管領細川家の内紛が続き、畿内では泥沼の抗争が繰り返されることになる。
この幕府内部の抗争に際して永原氏は、たくみに時勢を泳いで将軍家との関係を深め、みずからの政治的・軍事的地位を高めていった。その結果、永正十五年(1518)には永原重秀に対して幕府から所領・所識の安堵状が与えられている。かくして、永原氏は幕府からも認められる存在となった。
重隆の代になると六角定頼とともに幕府の内訌に介入し、大永七年(1527)、細川高国に逐われていた将軍義晴を助けて出兵、京への復帰を実現している。その後、重隆は定頼の麾下として行動するようになり、山科本願寺攻め、天文法華の乱に活躍、六角氏家中における立場を強化していった。
●近江の戦国時代
六角氏が京で活躍しているころ、江北の京極氏は内紛がつづき、被官であった浅井亮政が台頭していた。天文七年(1538)、定頼は江北に兵を進め亮政を美濃に奔らせた。この陣に永原重隆は進藤・後藤・平井・永田氏ら六角氏の重臣ともに、六角軍の一翼を担う一部将として出陣していた。一方、幕府の内訌は止むことなく、重隆は六角氏に従って軍政両面の活躍を示した。
かくして、野洲郡内の一土豪であった永原氏は良堂正久以来、重隆までの一世紀余の間に馬淵氏の被官から守護六角氏の重臣、さらに室町将軍とも関係を有する勢力に成長した。この永原氏の成り上がりの軌跡は、戦国時代を生きた在地領主を研究する材料として格好のものではないだろうか。
天文十九年、永原氏の勢力をおおいに広げた越前守重隆が死去、嫡男の重興があとを継いだ。将軍足利義輝は所領安堵状を重興に与えたが、それは京で奮戦をつづけた永原氏の忠節を賞するものでもあったようだ。重興は六角義男賢に仕え、所領の支配に意をはらい、弘治二年(1556)野洲川の梁漁権をめぐる争論を調停している。
六角氏は定頼の代においてその威勢は京畿に振るったが、義賢(入道承禎)の代になると次第に衰退の色を見せるようになった。さらに、江北では六角氏の下風にあった浅井長政が六角氏から離反、長政は肥田城主高野瀬氏ら六角氏との境目の勢力を調略するなど、六角氏への対立姿勢を明らかにした。対する義賢は永禄二年(1559)肥田城を水攻めしたが失敗、翌年、ふたたび肥田城を攻撃した。
六角軍は永原重虎・蒲生賢秀・進藤貞治らを先陣に二万五千を動員、対する浅井軍は一万一千という寡勢であった。しかし、結果は大軍に油断した六角勢の敗北に終わり、以後、六角氏は浅井氏に対して軍事的劣勢を強いられることになる。この敗戦をきっかけに義賢は実権を義治に譲って隠居、六角氏は勢力の挽回につとめることになった。ところが、永禄六年、義治は重臣後藤賢豊父子を謀殺するという愚行をおかした。この暴挙に怒った進藤・馬淵・平井氏ら六角重臣は、それぞれ観音寺城内の自邸に火をつけると知行地へひきあげた。永原氏も重臣らに同調し、行をともにした。
この観音寺騒動によって六角氏の領国体制は大きく揺らぎ、進藤氏らは浅井氏に通じて観音寺城を攻め、義賢・義治父子は甲賀に遁走した。永原氏も反六角氏の旗をあげたが、浅井氏からの援軍が討ち取られたため六角氏に降参した。永禄十年、「六角氏式目」の制定で家中の引き締めが図られたが、すでに六角氏の命運は尽きようとしていた。
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