永原氏は、近江の戦国大名であった佐々木六角政頼の二男高賢がその祖とされている。しかし、実際には、それより以前の景長が祖とされる。すなわち、佐々木経方の四男家行の流れで、古くから近江国佐々木庄に先住していた、沙々貴または狭々城などと称した古代豪族の流れを汲むものである。家行から代を重ねて景長に至って、野洲郡永原村に移り、その地名をとって永原氏を称したものと考えられている。 代々、佐々木氏に属して景長の子頼景は佐々木氏麾下にあって野洲郡の旗頭をつとめているのである。そして、その子氏行に子がなかったことから、佐々木六角氏から高賢を養子に迎え、以後、佐々木氏庶流となったのである。 永原氏の軌跡 永原氏一族に関する記録は多数あり、残された文書の量からも永原氏の勢力の大きさが推測される。 残された史料から、永原氏の全盛時代における発展は、注目すべきものがあったようで、明応年代には度々の合戦に功を立て、栗太郡、野洲郡、蒲生郡、甲賀郡の内において八十余郷を領し、一族は二十六家を数え、与力八人、総人数一万余に及んだと伝えられている。まさに、何万貫の所領を有した佐々木一族きっての大名であった。 そして、永原城を本拠として、野洲郡内に大篠原城、田中江城、市三宅城を有していた。そして、永原城の規模はその面積約五万二千五百Fで、四方に幅十mの濠をめぐらしたという雄大なものであった。また、同城は元亀元年、織田信長が越前の朝倉氏を攻めたとき、浅井長政に背かれて、朽木谷の間道を越えて京都に逃げ帰り、さらに京都から岐阜城に帰る途中、家臣の佐久間信盛の軍勢を増強して守らせ、自信この城に入ったが、岐阜への道筋がいまだ危険であったことから、十日間にわたって永原城にとどまったという歴史を秘めている。 佐々木氏家中で勢力を誇った永原氏であったが、佐々木宗家が衰微するとともに、新興の豊臣秀吉に仕え、さらに、秀吉の甥で養子となった秀次の与力大名となった。それが災いして、秀次が秀吉によって生害させられると、永原城主としての地位を失い中北村に陰棲した。 のち、大阪城の豊臣秀頼に仕えたが、元和元年、大阪城とともに豊臣氏が滅亡してしまったため、永原氏はふたたび中北村に閉居することとなった。こうして、永原氏は歴史の表舞台から去り、以後、豊臣氏に仕えたことを憚って福谷と称したこともあったが、のち旧姓永原に復して子孫は連綿したと伝える。 【参考資料:田中政三氏「近江源氏」ほか】 ■参考略系図 |