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村上(因島)氏 村上水軍
●丸に上の字
●清和源氏頼信流
 


 瀬戸内水軍村上氏は清和源氏頼信流といわれている。しかし、その系譜などは不明な点が多く、史料も伝承や軍談・家系伝承的なものに傾きがちである。源頼義が前九年の役ののちに伊予守として赴任してきたとき、河野親経と甥の村上仲宗に命じて寺社の造営を行わせたとされる。このことから、すでに村上氏は今治の対岸、伊予大島(能島)に地盤を築いていたようだ。仲宗の子顕清のとき部将間の私闘事件に連座して、村上一族は信濃国更級郡村上郷など各地に配流された。
 顕清の子定国は「保元の乱」後、信濃から海賊衆の棟梁となって淡路、塩飽へと進出した。そして、「平治の乱」後に越智大島に上陸した。この定国を村上氏の祖とする説が一般的で、定国から七代の孫義弘までを前期村上氏の時代とされる。

因島村上氏

 村上義弘は南北朝の争乱に際して南朝方として活躍し、応永三年(1374)に卒した。義弘は男子がなかったため、信濃村上氏から師清が入り後期村上氏の祖になったとされる。師清には三人の男子があり、それぞれ三つの島に分立させた。すなわち長男義顕を能島、二男顕長を因島、三男顕忠を来島に配置した。ここに 同門意識による結合によって、後世に知られる能島村上、因島村上、来島村上の村上三家が生まれたのである。
 因島村上氏の初代顕長は又三郎吉豊ともいい、応永三十四年(1427)に播磨守護の赤松満祐が将軍家に叛いたとき、備後守護山名時熙に従って討伐軍に参加した。翌年、その功により備後国田島の地頭職を与えられている。顕長はのちに備中入道と称したが、永享六年(1434)、幕府から海の治安維持を命じられた備中入道は顕長であろう。
 つぎの吉資は備中守を称し、宝徳元年(1449)伊予守護河野教通の要請を受けて越智郡玉川の佐礼城攻めに加わり、享徳二年(1453)には幕府管領細川勝元の命により、伊予守護河野通春の護衛に任じている。一方、海上貿易にも従事し、六百石船の熊野丸をもって明国との海外貿易を行っていた。そして、寛正三年(1462)に幕府から因島の地頭職に任ぜられた。
 当時の因島村上氏の勢力は、一門衆二十二騎、外様衆二十八騎、家中給人二百六十四騎というもので、「因島村上氏五十八家衆」の総禄高は三万一千三百二十二貫で、江戸時代の石高に換算すると十五万石余に匹敵する。この話しはそのままに受け止めることはできないが、因島村上氏が相当の勢力であったことはうかがわれる。

毛利氏に属す

 因島村上氏の戦国時代における当主は新蔵人吉充で、妻は小早川水軍の提督浦兵部宗勝の女であった。因島村上氏は惣領家の能島村上氏が独立路線であったのに対して、毛利氏に近い立場にあった。因島村上氏が毛利氏と関わりをもつようになったのは、天文十三年(1544)のことであった。当時、安芸・備後に勢力を伸ばしつつあった大内義隆が、尼子方に転じた備後神辺城主山名理興を討伐するため、村上新蔵人尚吉に毛利氏へ協力をするように要請してきた。尚吉はそれに応じて、小早川水軍を率いる小早川隆景と提督浦宗勝の支配下に入ったのである。
 その後、大内義隆が重臣陶隆房(晴賢)の謀叛によって殺害され、大友氏から義長が大内氏の当主として迎えられた。この事態に毛利氏ははじめ陶氏に従っていたが、次第に自立を目指すようになり陶氏と対立するようになった。天文二十四年(弘治元年=1555)、「厳島合戦」が行われたが、戦いに先立って元就は能島村上武吉に協力を要請し、因島村上吉充のところにも毛利氏から出陣要請があった。吉充はただちに毛利氏に味方し、同じく毛利氏に味方した能島村上水軍とともに毛利方の勝利に貢献した。
 厳島の合戦に勝利した毛利氏は防長経略作戦を展開し、大内義長を討ちとり防長を支配下におく大大名となった。その間の吉充の活躍に対して、毛利氏は備後向島一帯の領有を許している。ついで、大友氏との戦いが開始されると、因島村上氏は浦宗勝に従って門司城攻防戦に活躍、大友軍を撃退した。
 天正四年(1576)、織田信長と対立する毛利氏は、織田軍の兵糧攻めに苦しめられる石山本願寺に兵糧米を搬入する作戦を展開した。毛利水軍は能島村上元吉、浦宗勝が指揮して、織田水軍との間で「木津川口海戦」が行われた。この作戦に因島村上吉充も参加し、得意の火矢戦法で織田水軍を壊滅させ、兵糧米を本願寺に運び込むことに成功した。

戦国時代の終焉

 その後、毛利水軍は「第二次木津川合戦」で信長水軍の鉄甲船に大敗北を喫し、本願寺と信長の間に和睦が成立した。天正十年六月には信長が「本能寺の変」で横死、にわかに羽柴秀吉が台頭してきた。毛利氏は秀吉と対峙していたが、信長の死後、秀吉と和睦してその天下統一事業を支援した。この時代の急変のなかで、村上水軍三家の惣領ともいうべき能島村上氏は秀吉から目の仇とされて勢力を失墜していき、代わって来島村上通総が秀吉の知遇を得て勢力を拡大させた。
 子のなかった村上吉充は弟亮康の子景隆を養子に迎えたが、景隆は秀吉の九州征伐に従軍して病没したためその弟の吉亮を後嗣に迎えた。天正十六年「海賊禁止令」が発せられ、因島村上氏は海上特権をすべて奪われた。このとき、能島村上氏は秀吉の横槍を受けて、瀬戸内海から追放されてしまった。しかし、因島村上氏は小早川隆景に属して因島・向島を領有していたため、その後も勢力を維持していた。
 慶長五年(1600)、「関ヶ原の戦い」が起こり、毛利輝元は西軍に味方した。因島村上氏は伊予松前城攻撃を命じられ、能島村上元吉とともに出陣した。このとき、因島村上吉亮は病死していて、弟の吉忠が名代となり、能島村上元吉の指揮下に入った。戦いは毛利方が優勢であったが、敵の謀略によって能島村上元吉、因島村上吉忠ともに戦死してしまった。関ヶ原の戦いは西軍の敗北となり、毛利氏は長門と周防の二国以外の領地はすべて没収処分となった。
 ここに至って因島村上氏は、備後から退去せざるをえず、毛利氏に従って長門に移住していった。その後、因島村上氏は吉亮の子元充が継いだが、領地は削減、家臣たちは四散したことから領地を返上して因島に帰り、そこで死去した。元充のあとは吉忠の子吉国が継ぎ、毛利氏の船手組番頭となり、代々世襲して明治維新に至った。・2004年11月05日

■ 能島村上氏の情報にリンク

【参考資料:海の戦国史/日本の名族(五巻・中部編)など】



■参考略系図


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