望月氏
九曜/七曜/下り藤
(滋野氏族)
|
|
望月氏は、古代から中世にかけて信濃国望月地方を本拠に、佐久郡のうち千曲川西部一帯を支配した豪族である。その出自は滋野氏の後裔を称しているが、おそらく信濃十六牧の筆頭望月之牧の牧監であったものの子孫と考えられる。とはいえ、『滋野系図』によれば、滋野貞雄の後裔という為道の子則重(則広ともいう)が信濃佐久郡望月邑に住んで望月太郎を称したことに始まると伝える。ちなみに、則重の嫡子重道の流れは海野を称し、その後裔に真田氏が出た。二男は直家でその子道直は祢津小二郎を称して、祢津氏の祖となった。三男が望月三郎重俊で、曾孫の国親は治承四年(1180)、木曽義仲挙兵に際して子の重隆とともに従軍した。
当時における望月氏の勢力は一族の海野・祢津氏を圧倒していた。そして、全佐久と小県郡に勢力をおよぼし、軍備・経済ともに絶頂期であった。義仲が挙兵に際して滋野一族、ことに望月氏に信頼が厚かったのは、雄族望月氏を味方にする効果はもちろんのこと、望月氏が有する望月の牧の馬にあったと考えられている。当時、望月氏は常時千五百頭の良馬を飼育放牧していたといわれており、当然これら放牧に従事する望月氏支配下の農民も数多くいた。望月氏の有する良馬とその配下の動員力、これが義仲にとって最大の魅力であり、望月氏を丁重に迎え入れた最大の理由であった。
かくして、義仲は機動部隊を率いて北陸路より平家軍を討って、京都に攻め上り、旭将軍義仲と恐れられる存在になったのである。この義仲の成功の背後には望月氏を中心とした滋野一族の力が大きく発揮されたことはいうまでもない。しかし、義仲の政治力では都を治めることはかなわず、元暦元年(1184)、範頼・義経の連合軍と近江の粟津において戦い、敗れた義仲は戦死した。三十一歳であったという。
武士の世における望月氏
『吾妻鏡』の建久四年(1196)四月の条に、将軍源頼朝が下野国那須野、信濃国三原等に狩倉、弓馬に達した狩猟の輩二十二人が選ばれたとある。そのなかに望月太郎重義、藤沢次郎清親の二人があり、武蔵国入間野における狩で藤沢は百発百中、まれにみる弓の名人であると将軍より賞言を賜っている。これをみると、義仲の敗死後望月一党は鎌倉に召し出され、鎌倉の家人となって出仕し、本領安堵を全うしたようだ。
重義の子重隆は、寿永三年(1183)義仲から鎌倉へ送られた人質義高に随従してともに鎌倉にあった。このとき、海野小太郎幸氏も同行した。その後、木曽義仲が没落、平氏も滅亡したのちに望月氏は鎌倉幕府の御家人となった。
文治四年(1188)、重隆は奥州藤原征伐に望月党を率いて出陣、建久五年(1194)、安田義定・義資父子が幕府反したとき、命によりこれを討っている。さらに、建保元年(1213)の和田の乱に際しても望月一党を率いて和田軍と戦い、重隆の孫盛重は和田義氏の子次郎太郎義光を討つ功を上げた。その功により信州和田を恩賞として賜っている。
重隆は、相当傑出した人物であったようで、保元物語、吾妻鏡、平家物語、源平盛衰記、承久記、相良文書など、当時の望月氏関係者のうち、もっとも多く記録に残されている。そして、重隆は鶴岡八幡宮弓初めの射手に選ばれ、弓の上手として武名を挙げるなど、鎌倉時代草創期にあって望月氏を代表する人物として活躍した。重隆の没後も、望月氏は鎌倉御家人として続き、弓の名手を多く輩出している。
南朝方に与して戦う
やがて時代は、鎌倉幕府の滅亡を迎える。望月氏は、鎌倉幕府滅亡後、北条高時の遺児時行が起こした「中先代の乱」に、諏訪氏らとともに北条方に与した。このとき、滋野党の海野・祢津氏らも望月氏に同調した。しかし、結果は信濃守護小笠原貞宗の討伐にあい、佐久の政治的、軍事的中心であった望月城は小笠原勢の攻撃にさらされた。時の城主望月重信はよく防戦に力めたが、衆寡敵せず大敗し身をもって逃れた。これによって、望月城は破壊されたが、間もなく重信は同城を回復し望月城主として勢力を維持した。
その後、信濃では新田、足利、および北条の残党が三つに組んで争うこと約一年、後醍醐天皇が吉野に移ってからは、北条残党は新田方に合流した。延元元年(1336)の頃からは南北朝の対立に移行し、佐久・小県の滋野党望月・海野・祢津・矢島氏らは南朝方となり、北朝方の大井、屋代氏らとの間で合戦が続いた。このように、望月氏ら滋野一党は、南北朝の内乱期に終始南朝方に尽くしたため、次第に衰微を余儀なくされていった。その結果、南北朝時代末より、室町初期にかけての約四十年間、望月氏ら滋野一党の動向は遥として不明となるのである。
嘉吉元年(1441)春、南朝尹良親王の御子良王治良が祖父宗良親王ゆかりの信濃に入り、望月遠江守光経を頼って、日台の古館王城に入って自立し大将軍と号した。そして、高呂城主郷東寺盛寛を管領として兵を募った。その招きに、海野持幸、祢津貞高、桃井直広、羽川広常、矢沢有光、茂田井経景ら三百余騎が応じ王城を守護した。これに対し、守護小笠原氏らは、上方、関東の諸情勢が不穏なため、軍を動かすことができず傍観するしかなかった。良王は祖父の意志をついで、南朝勢力の回復に虎視眈々たるものがあったが、文安元年(1444)七月、良王治良将軍は業半ばにして没し、信濃の南朝勢力復活の夢は頓挫したのである。この間一貫して武家方に抵抗を続けた光経は文明三年(1471)八十歳で没した。 生涯を南朝に捧げながらついに報われることの薄かった我が身を振り返り、その胸中は充たされないものではなかっただろうか。
光経のあと、望月氏は盛世−盛経−光盛−光重と続いた。その間、兵火で失われた諸社寺の復興に尽くしたことが、神社仏閣に残された当時の棟札からうかがえる。
信濃の戦国時代
その後、応仁・文明の乱を経過して十五世紀末になると日本全国は内乱状態に陥り、群雄が割拠して互いに領土を争う戦国時代になった。信濃も例外ではなく、最大の勢力を誇った守護小笠原氏は相続争いから分裂し一族間で抗争を繰り返し、戦国大名への道を閉ざされ、信濃は地域勢力が分立状態にあった。一方、信濃の隣国甲斐では、武田信虎が出て一族間の相克、国人の台頭を押え、国内統一を実現して戦国大名への道を大きく踏み出していた。
そして、信虎はその鋭峰を強力な統一勢力のいない信濃へと向けたのである。天文五年(1536)、信虎は大軍を率いて佐久に侵攻してきた。武田晴信(のちの信玄)十六歳の初陣で、晴信が海の口城主平賀玄心を討ちとったのはこのときの合戦である。武田軍の信濃侵攻に対して、天文八年、望月盛昌は村上義清に従って甲州に攻め入ったが、若神子の戦いで敗れて佐久に逃げ返っている。翌年九月、武田軍はまた佐久に来攻してきた。この時代の佐久の雄族は望月氏、ついで大井氏などがいたが、昔日の威力は失われつつあり弱体化の道をたどっていた。当然、自己勢力の伸展もなく、佐久は武田氏と村上氏の勢力拡張の渦に巻き込まれ、両雄の草刈り場となっていった。
天文十年、父信虎を追放して晴信が武田の家督を継ぐと、武田氏の信濃侵攻は本格化した。翌年には、諏訪を攻めて諏訪頼重を滅ぼし、諏訪を中・南信進出の拠点とした。
天文十二年(1543)武田晴信は佐久・伊那方面への作戦を展開し、九月、大軍を率いて佐久に侵攻、諸城を次々に降して望月城に殺到してきた。望月一族は、ここを存亡の瀬戸際として奮戦したがかなわず、ついに武田の軍門に降り城を開いた。『高白斎記』に、天文十二年九月二十日、「望月一族為生害」と記されているが、盛昌は多くの部下の命を救うため武田の軍門に降り、信玄も盛昌を寛容な態度で迎えたらしい。同十四年(1545)四月、信玄は小諸城にあって岩尾城代海野幸隆を使者として、望月遠江守盛時を召して太刀・馬を賜った。このころ盛時は六ヶ城の主将として武威を高めていた。このように、勢力を盛り返しつつある望月氏が武田氏に降ったことにより、佐久の諸将もまた、武田氏に降り自己の安堵をはかった。
かくして、佐久の諸城は武田氏の手中に入り、武田氏の幕下となったのである。天文十九年、小笠原長時が没落し、さらに天文二十二年には、信濃の雄村上義清が武田氏に敗れて越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って落ちていった。
武田氏麾下の望月氏
信濃国において、武田氏の侵攻に最後まで頑強に抵抗していた村上氏が頼ってきたことで、長尾景虎(以下謙信と表記)は武田氏の勢力と真っ向から対立することになった。そして、謙信と信玄との間で前後五回にわたって「川中島の戦い」が繰り広げられることになる。なかでも、最も激戦であったといわれるのが、永禄四年(1561)の戦いであった。武田軍団を率いる信玄は、八月、甲府を出陣し川中島に着陣した。望月盛時も望月城を発し、途中武田軍に合流して川中島に向かった。
武田軍の旗本備えは、旗本組として飯部三郎兵衛、中陣左陣は典厩信繁、穴山殿、右陣内藤修理、諸角豊後、旗本脇備、左原隼人佐、逍遥軒信廉、右脇備太郎義信、その右望月殿、旗本後備跡部大炊助、浅利式部丞、これら旗本八千人、それに別働隊一万余人を併せて武田軍は一万八千余の陣容であった。その大軍のなかの本部隊、それも旗本隊陣容に望月隊の備えが形成されていることは、望月氏が信玄から重要視されていたことを示している。
戦闘は九月十日の朝、上杉軍の突撃で始まった。この上杉軍の突入は武田信玄が綿密に組み立てた作戦の裏をかいたもので、武田軍は受け身に立たされてしまった。望月隊は上杉軍の急襲に対して、槍を繰り出して突入していった。戦いは、両軍入り乱れての乱戦・混戦となった。乱戦のなかで、上杉軍の荒川伊豆守という荒武者が盛時めがけて打ちかかった。この危機は望月一族の郷東寺今国が防ぎ、ついに荒川を討ちとったが、その身も数ヵ所の傷を被り、それが原因となって今国は翌年に死去している。盛時は今国の奮戦により急場の難を避けたが、上杉軍の簗田外記と名乗る豪傑に槍をもって刺され戦死、享年五十八歳であった。
この合戦で、信玄の弟典厩信繁も戦死した。最終的には武田軍が上杉軍の攻撃をしのぎ、別働隊が加わったことで頽勢を盛り返した。上杉軍は越後に去っていたものの、武田軍に大きな痛手を残した合戦であった。戦死した盛時には男子がなく、その女子に信玄の弟で、川中島の合戦において盛時とともに戦死した典厩信繁の二男信雅を婿に迎えて望月氏を継がせた。
武田氏滅亡と望月氏の終焉
天正元年(元亀三年)四月、武田信玄は西上の途中、病を発して信州伊那郡駒場において死去した。享年五十二歳。武田の家督を継いだ勝頼は、天正三年(1575)、三河国長篠において織田・徳川連合軍と戦い大敗を喫して信玄以来の多くの武将を失った。以後、武田氏は衰退の一途をたどることとなる。
この長篠の合戦に望月信雅も出陣していた。信雅は義勝とも名乗り、旗本の前隊にあって織田方の鉄砲隊を除かんとしたがかえって傷を被り、ただただ平駆けに駆け破れと真っ先に進んだ。それに望月将監、小平左京亮、望月備前、常田次郎、篠沢伊賀らの諸士が続いたが、過半は鉄砲に討ちとられた。義勝はそれにも屈することなく敵陣に迫ったが、ついに鉄砲に撃ち抜かれ落馬し戦死を遂げた。ときに二十四歳の若武者であった。
義勝の跡は昌頼が継いだが、昌頼は信雅の子というよりも、他家から入って望月氏を継いだ人物と考えられる。しかし、どこの家から望月へ入ったのかよく分からないのである。とはいえ、望月一族あるいは武田一族から入った人物と思われる。
天正十年(1582)三月、武田氏討伐を決した織田信長は大軍を率いて大門峠より信州小県郡へ押し出してきた。望月昌頼は一族と協議して、城を去って真田昌幸、海野寛義、祢津吉時らと意を合わせて再戦せんと衆議一決して望月城を後にした。ところが同年六月、織田信長が本能寺の変で横死し時代が大きく動いた。その後、佐久へは相模の北条氏が進出し、佐久の諸将は北条氏の軍門に降ったが、望月氏はこれに対抗した。望月氏は、北条氏の攻撃をよく防ぎ、ついに北条方から保科正直が和睦の使者として来るにおよんで、双方の間に講和が成立した。以後、北条氏は小諸城の芦田信蕃を追い払い、根津・真田らを攻め降し、北条勢の先陣は川中島あたりまで遠征した。
天正十年九月、徳川家康が甲州より信濃に兵を発した。大久保忠世を大将として芦田・望月の両城を攻め、十月、芦田落城、北条氏も敗走した。こうして、徳川軍の軍勢は望月城に参集し、昼夜の別なく望月城を攻撃した。望月氏は一ケ月に渡って攻撃を防いだが、ついに敗れて総崩れとなり瓦壊した。
敗れた昌頼は、上田の真田氏を頼って落ちていったが、途中、土民の蜂起に阻まれ従者らが防いだものの戦いに利あらず、ついに昌頼は自刃して果てた。いまだ十八歳の若さであった。ここに、平安時代より信州佐久の地に勢力をふるった望月氏の嫡流は、十八代六百年の歴史を閉じて滅亡した。
……………
東京在住の望月三恵子さまより、「私は母の姓、望月を名乗っております。私は東京生まれで、東京育ちですが、母は、山梨県身延山の出身です。山梨県に現在でも多くいる望月姓の親戚は、皆、九曜星の紋を使用しています」と、メールをいただきました。
|
【参考資料:望月氏の歴史と誇り(長野県立図書館蔵書) ほか】
■参考略系図
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
|
|
|