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正木氏
三つ引両
(桓武平氏三浦氏流)


 正木氏の祖は、相州三浦氏という。すなわち、北条早雲に攻められた三浦道寸とその子義意が滅亡に際して、一子を船で逃し、これが安房の正木郷で成長し正木氏を名乗った時綱(通綱とも)だとされている。しかし、この説は年代的に無理があるようだ。
 一方、『集成正木家譜』では時綱を義意より三代前の三浦介時高の実子としており、「大多喜町史」「東金市史」などはこの説をとっている。三浦介時高は長く実子に恵まれなかったため上杉氏から義同(道寸)を養子に迎えていた。ところが晩年に至って実子弥次郎が生まれ、実子可愛さのあまり義同を疎外するようになった。これを怨んだ義同は、明応三年(1464)時高を急襲して討ち取ってしまった。幼少の弥次郎は船で安房国に逃れて、里見成義に庇護を求めたのである。
 成義の庇護を受けた弥次郎は長じて正木大膳亮時綱と名乗り、成義の娘を娶って里見氏の一族に連なった。そして、長狭郡山之城を本拠として安房正木氏の始祖になったとする。こちらの方が説としてうなずけるところがある。とはいえ、これも年代的につじつまを合わせたというだけで、結局のところ房総正木氏の祖は不明であるとするのが妥当なようだ。
 ちなみに、時綱は永正五年(1508)の鶴谷八幡宮棟札に国衙奉行としてその名がみえ、里見義通に属してその有力武将となり、長狭郡山之城に割拠していたことは紛れもない史実である。時綱には時茂・時忠など五人の子があったようで、女子は里見義堯に嫁ぎ、長子の時茂は里見氏に忠節を尽して「槍の大膳」の異名をとる剛勇の武者となった。

正木氏の立場と台頭

 いずれにしても、時綱を祖として安房の地に勢力を築いた正木氏は、安房国生え抜きの氏族ではなかった。正木氏の祖が、安房の正木郷で育ったとしても、のちに正木氏が仕えた里見氏と同じように安房国人層の抗争の間で勢力を拡大し、土豪・地侍らを掌握して地歩を築きあげたことは確かな事実である。
 正木氏が勢力を築いた地域は、安房の東部、とくに加茂川流域に開けた鴨川平野を中心とする長狭郡であった。この地は、鎌倉時代以来の豪族東条氏が地盤としていたが、東条氏は早くに衰え、その間隙に入った正木氏が、鴨川平野を一望に見下ろす嶺岡山の中腹に、山之城を築きこの地を支配したのである。やがて、正木氏と同じように他国から安房に入部した里見氏が勢力を拡大するにつれ、その麾下に入ったが、それは「臣従」というより「同盟」という関係であったようだ。のちの天文二年(1533)に起こった里見義豊のクーデターを記した『快元僧都記』をみても、正木大膳大夫は里見氏と同等のごとく記されている。
 このようなことから、正木氏は単なる里見氏の家臣として見られがちだが、実際のところは、安房国東部から東上総を領国としてもち、独自の家臣団を配下に従えた、独立性の強い戦国武士団であったとみなされる。  このように、正木氏は自立的性格を有しながら里見氏の麾下に属し、有力武将の一人でもあった。また、正木氏の場合、里見義弘の三男義俊、里見頼義(義頼とも)の子忠勝らが正木氏を名乗っている。さらに、頼義のもう一人の男子が正木時綱の嗣子時忠の養子となり、憲時を名乗っているのである。このように、正木氏は里見氏から一族的あつかいを受けていたことでもその立場が理解できる。
 永正十五年(1518)、里見義通が死去したが子義豊が幼少であったため、義通の弟実堯が後見となって国政をみていた。しかし、義豊が成人したのちも実堯は義豊に政権を渡さなかったため、これを怨んだ義豊は、天文二年(1533)実堯を稲村城に攻めて殺害した。この時、時綱(通綱とするものもある)とその子息たちは稲村城にいて、このクーデターに巻き込まれて、時綱と嫡子の弥次郎は討死し、時茂と時忠がかろうじて山之城に逃げ帰った。
 これに対して実堯の子義堯、通綱の子時茂らは後北条氏を頼んで、義豊を攻めた。義堯・時茂勢は妙本寺付近の合戦で義豊軍を破り、敗れた義豊は田城に撤退したが義堯・時茂勢は攻勢の手をゆるめず滝田城も攻略した。義豊は真里谷城の武田信保を頼って上総に落ち延び、上総の援兵を得て稲村城襲撃のために平久里街道を南下してきた。義堯・時茂勢はこれを滝田城下の犬掛で迎え撃ち、両軍大合戦となったが義堯・時茂勢が勝利し、敗走する義豊を討ち取った。この結果、里見氏の嫡流は途絶え、里見家は義堯が相続した。

時茂、大多喜城主となる

 その後、時茂は大膳亮と称し弟時忠とともに義堯に従い、天文七年(1538)の第一次国府台合戦に参加し、そののち上総の真理谷武田氏の衰退に乗じて東上総へ侵入した。同十一年に上総勝浦城を落して時忠はここを居城とし、天文十三年頃に時茂は大多喜城を手に入れて居城とした。
 正木氏の新たな拠点となった大多喜城は、小田喜ともよばれ真理谷武田氏の一族が城主であった。関係史料によれば、永正期(150421)に真里谷武田信興の子信清が大多喜地方に入部して大多喜に城を築いた。信清のあとは直信・朝信と続いたという。その後、真里谷武田信保は永正十四年、足利義明を大将に迎えて小弓城主原氏を攻撃して、小弓城を奪い義明の居城とした。以後、義明は「小弓御所」と呼ばれ数さに一大勢力を築くことになる。
 その後の天文三年(1534)武田信保は小弓義明の勘気を蒙って憤死したことから信清が真里谷に帰って城代となった。信保のあとを継いだ信隆は公方義明を恨んで、北条氏綱に内応した。そして、異母弟の信応と対立するようになり、信隆は椎津城へ移った。天文五年、公方義明は椎津城を攻撃し城兵五百余人を討ち取り、信隆は西上総の峰上・造海の城へと逃れた。以後、後北条氏を後楯とする信隆と公方義明を後楯とする信応とは鋭く対立した。公方義明は里見義堯に命じて信応を支援させたことで、敗れた信隆は氏綱を頼って上総から去っていった。これが一つの原因となって国府台の合戦が起り、公方義明は敗れて滅亡した。この戦いに、氏綱の陣に加わって参戦した信隆は武田氏の惣領に復帰した。
 天文十二年、信隆と笹子城の信茂など武田庶子家との間に内紛がおこり、小田喜の武田朝信は北条氏康に救援を求めた。一方で信茂の叔父という信秋は里見義堯に助けを求めた。この内紛の結果については、不明だが、里見氏は正木時茂・時忠を派遣して朝信が支配する東上総を攻略させ、大多喜城には時茂が入部して城主となったのである。この間の事情に関しては、『里見代々記』『安房国誌』などに記述が見られるが、里見義弘が正木時茂をして朝信を攻めさ、武田方から大多喜城を奪い取ったことは疑いないことのようだ。

正木氏の勢力伸張

 大多喜城を本拠とした正木氏は、天文十三年(1544)以降、安房東部の長狭郡から東上総へ進出し、永禄期(1558〜69)には「正木分国」ともいうべき所領圏を形成し、大多喜をはじめ、勝浦・一宮・峰岡などに一族を配置するに至った。とくに時茂は里見氏を代表して上杉謙信らと交渉をもち、永禄四年(1561)の上杉謙信の小田原包囲陣にも参戦し、謙信と対面した。以後、下総・相模・武蔵に転戦して里見家幕下の最有力武将として内外にその名を轟かせた。 『妙本寺文書』にある北条氏康書状には、「正木を始め八州の弓取り」と書かしめるほどに「槍の大膳」時茂の豪勇は轟いていたのである。
 ところで、関東に出陣した謙信は、上杉氏の家臣団を再編・整備する必要から関東諸将の幕紋を記述した『関東幕注文』を作成した。そのなかの「安房国幕注文」に、安房・上総を代表するかたちで里見民部少輔(義堯)が記され、以下、正木大膳亮(時茂)・同十郎(時忠)・同大炊助(憲時)・同左京亮・同兵部少輔らの正木氏の名が続いている。そして、正木氏の幕紋はいずれも「三引両すそこ」とある。
 そして、幕注文には上総の酒井・山室氏、下総の高城氏らの領主が把握されている。ところが、国人として勢力をもつ土岐氏、武田氏の名は含まれていず、さらに、その他多くの城主の名も見えない。これは、里見・安房氏が安房・上総において勢力拡大するとともに、在地領主層の連合.再編が急速に進んだことを示している。そして、幕注文に把握された正木氏の人数の多さは、正木氏が里見氏と結んで安房・上総において小さいながらも戦国大名的存在に成長していたこともうかがわせる。
 永禄七年(1564)の第二次国府台の合戦には、里見義堯・義弘に従って参戦したが敗れた。弟の時忠も兄とともに国府台の戦いに参戦したが、その直後里見氏に謀叛し、五男邦時(のち頼忠)を人質として小田原へ送って後北条氏の配下に入った。そして、子息時通をして上総一宮城を攻略させてこれを乗っ取り、さらに北上して下総海上郡・香取郡に攻め入って諸城を攻略した。その後、再び里見氏に降伏したが、その時期は詳らかではない。

里見氏の内紛

 永禄十年(1567)、里見義弘は上総の三船山で後北条軍と対陣、正木時茂も参陣して里見氏の勝利に貢献した。後北条氏は三船山の戦いに敗れたことで上総制圧に挫折し、国府台の合戦後、後北条氏に制圧されていた上総の正木領は回復された。こうして、勢力を回復した時茂は元亀二年(1571)になると、下総に出兵して生実・千葉の両城を奪取し、さらに船橋に入り、北総地方に威勢を振った。
 時茂は男子が無かったため、弟弾正左衛門弘季の子憲時を養子に迎えたとされる。憲時は永禄年間に一宮城主となり、はやくから戦陣に臨み、また外交の任をつとめた。そして、時茂が老齢にあんったことで、家督を継いで大膳亮を名乗り大多喜城主となった。
 天正六年(1578)里見義弘が没した。義弘は子に恵まれなかったため弟の義頼を養子としていた。ところが実子梅王丸がうまれたため、義弘の死後、家督をめぐる内紛が起った。義弘は梅王丸に上総の所領を譲渡したため、義頼と不和になった。その関係の悪化は、義弘の死に際して義頼は焼香にも行かないというほどのものであった。
 義頼と梅王丸は敵味方に分かれて合戦となり、義頼は西上総に出兵じて梅王丸派の諸城を攻略した。この内紛に正木一族も二派に分かれて対立し、大多喜の憲時は梅王丸を擁立したようだ。天正八年、憲時は安房に侵攻して葛山城・金山城を奪取、さらに勝浦の正木頼忠が支配していた吉宇・興津城を占領した。  これに対して里見義頼もただちに出陣、金山城を攻略した。憲時は興津城に依って防戦につとめたが、ついに敗れて大多喜城へ退却していった。その後、義頼の攻勢によって家臣に殺害され、大多喜城兵は降服し里見氏の内訌は義頼の勝利に帰した。
 憲時の死によって大多喜の正木氏は断絶したが、義頼は庶子の弥九郎をもって正木氏の名跡を継がせた。弥九郎は義頼の二男で母は正木時茂の娘であった。大多喜正木氏の名跡を継いだ弥九郎は、大膳亮時堯を称して大多喜城主となった。この時堯は「時茂」とも称したといい、東上総の正木領と上総譜代とも称される「大多喜衆」を掌握して里見氏の藩塀となったのである。

万喜城の攻防戦

 上総・安房の戦国時代に名を残した武将に上総万喜城主の土岐頼春がいた。この土岐氏も、正木・里見氏と同じく、他国から来て上総に勢力を築いた。一説に、美濃守護土岐芸頼の流れともいわれる。初めは、里見氏と友好関係にあり、里見義弘の母は土岐為頼の娘でもあった。しかし、第二次国府台の合戦以後、土岐氏は里見氏と袂を分かち、対立・抗争するようになった。
 為頼の死後土岐氏を継いだ頼春は、近隣を侵略して、武名を高め、領地は十万石に充つといわれる万喜土岐氏の最盛期を現出した。土岐氏と里見氏は、連年攻防を繰り返したが、いずれも里見軍は土岐頼春のたくみな用兵に敗れ去った。
 天正十六(1588)年九月、大多喜城主正木頼忠と安房国丸城主山川豊前守、里見氏家臣団が、万喜城に押し寄せた。正木頼忠は自ら兵を率いて大手から、山川は海路搦手から攻めた。戦いは激戦であったが、頼春はよく防ぎ、里見勢には討死するものが続出し、正木頼忠はついに敗れて大多喜に退却している。
 翌十七年、秀吉は小田原後北条氏攻めを決意した。それに対し、後北条氏は麾下の諸将に小田原参陣を呼びかけた。これに応えた頼春は弟を陣代として派遣した。万喜城の兵力が減ったことを好機とした里見義康は、六月、安西遠江守・山川豊前守、そして正木頼忠らに命じて万喜城を攻撃したが、安西・山川の両軍は土岐軍に撃破され、その大敗を聞いた正木頼忠は戦わずして軍を引き返した。
 天正十八年(1590)正月には、正木時堯が土岐攻めに出陣し、戦いは苅谷原で展開されたが、この合戦にも頼春が勝利し、正木軍は大多喜へ逃れた。結局、里見勢は万喜城攻略を成功させることができなかった。逆に、万喜城攻めに固執したことで、小田原攻めに十分な兵を派遣することができなかった。このことが、のちに、里見氏の安房一国安堵という減封の要因ともなったのである。

正木氏のその後

 時茂の跡は里見頼義(義頼)の子とも、弟時忠の子ともいわれる憲時が継いだ。憲時は天正八年(1580)、義頼に背いて上総興津城を根拠地として房州に攻め入ったが、義頼軍の反撃にあって敗退し、翌年九月には大多喜城も落城して家臣に刺し殺されたという。憲時には相続者がなく、正木宗家である大膳亮の家が絶えることを惜しんだ義頼は二男弥九郎(時茂)をして家を継がせた。
 時茂は従来、時堯とされてきたが確実な文書に時堯の名の出ることは一度もなく、すべて「弥九郎時茂」である。慶長十一年(1606)の分限帳では、八千石の知行を有し、御一門衆として里見家臣団のなかでずばぬけて大きな知行を与えられていた。里見家改易後は忠義とともに倉吉に行き、忠義の死後は鳥取藩池田光政に預けられ、寛永九年に同地で没したという。一方、時忠の家は時通が跡を継いだ。時通は父とともに各地に転戦した。時通には子が無く、小田原北条氏のもとへ人質となっていた弟の頼忠が安房に帰って養子となった。そして、父時忠、兄時通が相次いで没してのちに家督を相続し勝浦城に住した。
 天正十八年(1590)、里見義康が豊臣秀吉から上総国を没収されて安房一国になったとき、安房に帰り入道して環斎と号した。慶長期には、長狭郡八色村・丸郡平磯村・加茂村のうちで千石の知行地を与えられた。  頼忠には数人の子があったが、人質として小田原にあった時、北条氏隆の娘との間に為春・於万兄妹をもうけた。この於万は徳川家康の側室となり、紀伊頼宣・水戸頼房を生んだ。そのため、兄為春は家康に召されて紀伊頼宣の家老となった。里見家改易後、頼忠は紀伊におもむき、為春の許で一生を終えたという。為春の家は、のちに三浦を称し、紀州藩の家老として幕末まで続いた。


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