真壁氏
橘
(桓武平氏大掾氏族) |
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桓武平氏大掾氏の一族。大掾多気直幹の四男長幹が、常陸国真壁郡真壁郷に築城し真壁氏を称した。
平安末期に続発した治承・寿永の内乱を経て生まれたのが鎌倉幕府であった。この治承・寿永の内乱において、常陸国内の在地領主層は当初頼朝政権には積極的に関与していなかった。しかし、頼朝による佐竹氏の討伐や志田義広の反乱などの結果、やがて頼朝へ臣従を誓い幕府の御家人として編成されていった。
後醍醐天皇を中心にして正中・元弘の変が起こり、元弘三年(1333)鎌倉幕府は滅亡した。この時期の真壁氏の動向は具体的には不明であるが、真壁氏の系図をみると、智幹・満幹・親幹らの項に自害・討死などの注記があり、幕府と命運をともにした一族がいたことが推測される。建武新政が開始されたが、足利尊氏の離反などがあって、北朝と南朝に分裂し、いわゆる南北朝時代となった。
真壁氏は最初南朝方で活動していたようだが、のち北朝方の高師冬軍に降り足利尊氏のもとに参じた。しかし、一族内部での去従は一様ではなかったようである。康永三年(1344)、真壁高幹は尊氏より真壁郡内九郷の地頭職を安堵されている。
関東の争乱
応永二十三年(1416)の「上杉禅秀の乱」には鎌倉公方足利持氏方で戦っている。この乱以降、関東では小規模な反乱が相次いで起こり、のちに真壁氏は反鎌倉公方勢力として討伐を受けるようになった。
幕府と鎌倉公方家との対立が激化していくなか、幕府は東国内に親幕府方の育成を図っている。それは、鎌倉公方勢力牽制のために、京都から東国に打ち込まれた楔のような存在であった。佐竹山入・大掾・小栗・宇都宮・結城、そして真壁氏らで、これら諸氏は「京都扶持衆」と呼ばれ、その役割は鎌倉公方の動向を京都に報じたり、公方に対して反乱を起こすことなどであったようだ。それゆえに、諸氏は鎌倉公方からしばしば討伐を受けた。応永三十年には、「京都より御扶持の輩、大略滅亡」という事態になっている。とくに、大掾一族であった小栗氏は再々反乱を繰り返し、持氏から討伐を受けている。真壁氏もこの小栗氏の反乱に与したことで没落を余儀なくされ、所領没収の措置を受けるにいたっている。
やがて永享十年(1438)「永享の乱」が勃発し、足利持氏の滅亡で鎌倉府も終焉を迎えた。その後、持氏の遺児を擁した結城氏の反乱=結城合戦が起こり、東国はますます混迷を深めて行った。
のちに持氏の遺子永寿王丸(成氏)によって鎌倉府が再興された。ところが、上杉氏と鎌倉公方成氏との対立が起こり、鎌倉は上杉方に占拠され成氏は下総古河に移り、以後古河公方と称された。真壁氏をはじめ、北関東の国人層は古河公方との結びつきを強めていったようだ。東国の社会は、成氏と上杉氏が戦った「享徳の大乱」によって、旧来の社会秩序は大きく崩壊し確実に戦国時代に移行していった。この間、真壁氏の内部でも家督争いが起こっている。秀幹は応永三十年に戦死したと考えられ、子の慶幹もこのときの混乱で行方不明となった。
こうした状況のなか、秀幹の甥にあたる朝幹が家督継承に乗り出し、所領の回復に成功した、しかし、秀幹の子と名乗る氏幹が現れ、家臣団を二分する争いになった。結局朝幹方の勝利に終わったが、この事件により、真壁氏は領主制の再編成を迫られることになったようだ。つまり、惣領個人の意向のみでは家の運営が難しい時代になったのである。朝幹が晩年に残した置文は、その宛所が一族や宿老中となっていて、真壁氏を取り巻く事情の変化を伝えている。
戦国時代の真壁氏
十五世紀後半になると東国の様相は、確実に戦国の色を濃くしていった。真壁氏は、近隣諸豪族である小田・江戸・結城・多賀谷・水谷氏、さらに佐竹氏ら諸勢力のはざまにあって領域の拡大は困難をきわめていた。むしろこれら諸豪族との合従連衡によって、地位と所領を維持することに精一杯といったところが実状であった。
文明十三年(1481)小田方として江戸通長と戦ったことが伝えられている。永正年間(1504〜20)になると、仕えてきた古河公方足利政氏と子の高基との争いに巻き込まれ、宗幹は高基側に与したが、政氏からの働きかけも激しく、両者の間で苦悩したことが推察される。
十六世紀なかばになると、真壁郡をはさんで対立していた結城氏と小田氏が抗争におよび、真壁氏は結城氏側に加担して、その勝利に貢献した。このとき、真壁氏が小田氏に与した場合、結城・水谷・多賀谷氏らの「結城洞中」の包囲にさらされるため、真壁氏としては結城氏に加担する以外に道はなかったともいえよう。
ところで、常陸国内では、南北朝以後守護となった佐竹氏内部で内紛が続き、佐竹氏は容易に国内に勢力伸長を図ることができなかった。しかし、佐竹義舜の力によって内紛を克服し、常陸国内統一への道を歩み始めた。以後、常陸国内の戦国史は佐竹氏を中心に展開していくことになる。
その後、相模の後北条氏、越後の上杉氏、下総の結城氏といった勢力の伸長にともなって、佐竹氏も中小の領主を糾合し、国内統一を実現するために乗り出してきた。真壁氏も隣郷の小田氏との対決を迫られて、佐竹氏との関係強化を図ることになるのである。
佐竹氏は義舜のあと、義篤・義昭・義重・義宣と代を重ね、戦国大名に成長していった。真壁氏と佐竹氏の関係が史料に現れるのは佐竹義昭の代で、永禄四年(1561)真壁久幹の子九郎は義の一字を与えられて「義幹」と名乗っている。このような行為は真壁氏が佐竹氏と主従関係を結んでいたことを推測させるが、その一方で嫡子には北条氏政から「氏」の字をもらって氏幹と名乗らせている。このことは、当時における真壁氏の厳しい政治的状況を如実に語って余りあるものといえよう。さらに、真壁氏は敵対関係にある小田氏と密約を交すなど自立的な道も模索していた。乱世のなか、生き残りのために懸命な真壁氏の姿をうかがわせている。
真壁氏の秋田移住
その後も、真壁氏は佐竹氏との結び付きを強め、同盟者でもある佐竹氏の麾下として活動している。とはいえ、天正十三年(1575)から続いた江戸氏と大掾氏との争いに際して、真壁氏幹は惣領家にあたる大掾清幹に加担した。このとき、佐竹氏は江戸重通を支援していたので、真壁氏と佐竹氏とは微妙な関係にあった。しかし、天正十八年(1590)、氏幹の弟義幹の子房幹が家督を継いだころには、真壁氏は佐竹氏の家臣としての地位が定まっていたようだ。
天正十八年(1590)、佐竹氏は常陸国内を統一し、同年、秀吉の小田原征伐に参陣して豊臣大名に承認された。戦国領主として自立化をめざしていた真壁氏ではあったが、佐竹氏の麾下として真壁・筑波両郡に知行を与えられた。ここに至って、真壁氏は名実ともに佐竹氏の家臣となった。文禄の役では、佐竹氏とともに肥前名護屋に出陣している。
豊臣秀吉の没後、徳川家康と石田三成との対立が表面化し、慶長五年(1600)九月、関ヶ原の合戦が勃発した。佐竹義宣はこの戦いに際し傍観していたことで、戦後、常陸国から出羽国への国替えを命じられた。
この国替えは減封を伴ったもので、転封にともなって家臣の整理が行われ、真壁氏も家臣の数を減らされ、数人の家臣をともなうのみで、大部分の者は真壁の地に留まらざるをえなかった。真壁氏は当主房幹と弟の重幹が出羽国へと移っていった。こうして、平安期以来約四百数十年にわたって続いてきた、真壁氏による真壁地方の支配は終焉を迎えたのである。
【参考資料:真壁町史/真壁氏と真壁城 ほか】
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