桂 氏
二文字に三つ星
(毛利氏庶流) |
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桂氏は毛利氏の有力庶家で、宗家の執権職をつとめた坂氏の分かれである。毛利弘元・興元の代に執権職にあった坂広明の子広澄は、広明の嫡男でありながら家督を継がず桂村に住して姓を桂に改めた。
大永三年(1523)、毛利氏の家督にあった幸松丸が死去したことで、毛利氏家中は協議して毛利元就に家督相続を請うた。元就が毛利宗家を相続するにあたって、忠誠を誓った宿老十五人のうちの一人に広澄の嫡子元澄も加わっている。
ところが、翌四年、一族の坂広秀、渡辺勝らが尼子氏の重臣亀井秀綱らと謀って、元就を殺害し、元就の異母弟である相合元綱を当主に立てようとした。しかし、反逆は露見し、相合元綱は討たれ坂広秀は切腹、渡辺勝は殺害された。そして、坂広澄は一族の広秀らが誅殺されたことの責任を感じ、元就の制止を振り切って自刃した。広澄が自害したことで、すでに桂氏の家督を継いでいた元澄は、弟元忠ら一族郎党とともに居城桂中山城に立て籠った。これに対して元就は、使者を派遣して籠城を解くように諭したが元澄はそれを拒否したため、元就みずから説得にあたったため、ついに元澄は元就に心服した。
毛利氏の覇業を支える
天文二十年(1551)、中国の太守大内義隆が重臣の陶晴賢の謀叛によって殺害された。この事態に際して元就は、晴賢と協調路線をとることで勢力の拡大を図った。しかし、次第に陶晴賢は元就の存在を煙たいものとして、掣肘を加えるようになってきた。毛利氏と陶氏との間は、次第に険悪なものとなり、ついには対立関係にいたった。
天文二十三年(1554)五月、元澄は、毛利氏が陶晴賢と断交し厳島神社の神領であった安芸国佐西郡を占領すると、厳島神社神主家の本拠であった廿日市の桜尾城を預けられ、神領の管理・支配を担当した。そして、同年七月、元就・隆元父子より神領のうち、平良・宮内郷六百九十六貫、佐方七十五貫および廿日市町一円を宛行われた。
陶氏との対戦を決意した元就は、果敢な謀略戦を展開した。晴賢の腹心で勇将の名も高い江良房栄を謀略によって晴賢に札がさせ、さらに、桜尾城主の桂元澄を晴賢に内応させ、晴賢に対して厳島出陣を促した。こうして周到な調略によって、毛利軍を上回る陶軍をまんまと厳島に誘き出すことに成功したのである。弘治元年(1555)、おりからの暴風雨をついて毛利軍は出陣し、油断をしていた陶軍に襲いかかり、大将の陶晴賢をはじめ名のある武将を討ちとる大勝利を得た。この戦いによって、毛利元就は一躍中国地方の覇者となったのである。
翌年、元澄は厳島神社の造営修理を担当した大願寺の要請を受けて、厳島の町に造営人足を賦課した。ついで、永禄四年(1561)の大鳥居の造営では能美島からの柱用材搬出などを統轄するなど、桜尾城主として厳島を含む神領の管理に任じた。永禄末年、元就四男の穂田元清が桜尾城主として入城したことで、元澄は桜尾城主在番の任から解放された。その後も、毛利氏の重臣として行動し、永禄十二年、七十歳で死去した。元澄のあとは五男の広繁が継ぎ、桜尾城主元清を補佐した。
元澄の弟元忠は、兄元澄ほどの才覚はないが、毛利家中にもこれほどの人はいない正路の人と賞された。その人柄から、元就の側近に抜擢され、児玉就忠とともに元就の意を奉じて給地を打ち渡すなど奉行人をつとめた。天文十九年(1550)、元就の嫡男隆元の下に毛利氏全体の運営にあたる五奉行体制が確立すると、その一員に加わった。同二十三年頃、元就の被官衆への打ち渡しを任務する元就奉行人が形成されると、これにも参画した。また、元就と隆元のパイプ役を果たすなど、元亀三年(1572)まで、奉行の職にあった。元忠のあとは就宣が継ぎ、父と同様に奉行職を務めている。
江戸時代、桂氏は萩藩士として寄組に二家、大組に十二家など、一族おおいに繁栄した。幕末に活躍した桂小五郎は、大江氏流桂氏の後裔とされている。
【参考資料:戦国大名家臣団事典/毛利元就のすべて など】
■参考略系図
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