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熊谷氏
●寓生に鳩/寓生の丸
●桓武平氏貞盛流北条氏族
 


 熊谷氏は、桓武平氏北条直方の後裔を称し、直貞がはじめて武蔵国大里郡熊谷を領して熊谷を称したことに始まる。
 一説に、熊谷氏は宣化天皇を祖とする丹治姓・私市氏の後裔ともいい、直季の時に熊谷氏を名乗ったのだという。それによれば、直季は源頼義に従い「前九年の役」で鎮守府軍監として功をあげ、武蔵国熊谷に三千余町を賜り武州目代として私市氏より分家し、熊谷にちなんで熊谷氏を称したとある。丹治姓熊谷氏は直季のあと、直広・直孝と続いたが直孝は子に恵まれなかったため、平家一門の直貞(定)を養子に迎えた。以後、熊谷氏は平姓を称するようになった。

■異説熊谷氏系図
 直貞の長子と思われる直正は近江国浅井郡塩津郷に住んで、近江熊谷氏の惣領として豪族化した。この直正の弟が一の谷の合戦で平敦盛を討った次郎直実である。直実は石橋山の合戦では源頼朝を攻めたが、のち源頼朝に従い平家追討に功をたて本領を安堵された。
 しかし、建久三年(1192)一族の久下直光との所領争いに敗れて家督を嫡子直家に譲り、法然上人に帰依して出家した。出家後の直実は蓮生房を名乗り、東海道藤枝宿に熊谷山蓮生寺を建立。熊谷郷に帰った後は草庵を建て念仏三昧の生活を送り、承元元年(1207)上品上生を予告し往生したと伝える。
 直家は頼朝の奥州征伐に功があり、陸奥国本吉郡に所領を賜わり、その子直宗は下向して赤岩館に住して奥州熊谷氏の祖となった。一方、熊谷氏の本貫の地である武蔵の熊谷郷に住んだ直国は、「承久の乱(1221)」の時に戦死し、その功により子の直時は新たに安芸国安北郡三入庄の地頭職を与えられた。直時の子孫は法然が直実に授けた「迎接蔓茶羅」を携えて、元冦のあった弘安以後(十三世紀後半)三入庄に下向し、大林伊勢ヶ坪城に拠った。

乱世の始まり

 元弘三年(1333)五月、北条高時の自殺により鎌倉幕府は滅び、後醍醐天皇は翌年に年号を建武とあらためて建武の新政を開いた。しかし、新政は恩賞が不公平だったために武士の不平不満を招いた。さらに、争乱が収まっていないのを後目に大内裏の造営計画を建てて、その費用を諸国の地頭に割り当てるという失政を行った。武士や農民の負担は増加し、不満は高まり、新政を見限った多くの武士は足利尊氏に期待を寄せるようになった。
 建武二年(1335)、東国で中先代の乱が勃発し、鎌倉が反乱軍によって陥落した。尊氏は天皇の許しを得ないまま東国に下り、乱を制圧、そのまま鎌倉に居坐った。以後、天皇の帰還命令も無視し、ついには新政に反旗を翻したのである。天皇は新田義貞を大将として討伐軍を下したが、尊氏と弟の直義はこれを箱根竹の下で破り、そのまま京都に攻め上った。
 これに対して奥州の北畠顕家が鎌倉をおとし、京都に攻め上り尊氏兄弟の軍と激しく戦い、ついに敗れた尊氏は九州に逃げ落ちた。そして、九州宮方の中心勢力である菊池氏の大軍と多々良浜で戦い、これを破ると九州、四国各地方の武士を従えて上洛軍を発した。尊氏は軍船で瀬戸内海を進み、弟の直義は陸路を進んで京都に攻めのぼった。宮方は、新田義貞が摂津和田岬に、楠木正成が摂津湊川にそれぞれ陣を布いて足利軍を迎え撃ったが、正成は戦死、義貞は京都に逃げ帰るという散々な敗北となった。京を制圧した尊氏は、後醍醐天皇を花山院におしこめると、光明天皇を位につけ足利幕府を開いた。
 その後、後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野に遷り吉野朝廷を開いた。これを南朝といい、尊氏のたてた京都の朝廷を北朝といい、以後、約六十年間に渡って二つの朝廷が相争う南北朝時代となったのである。

■ 光明天皇
後伏見天皇の皇子で北朝初代の光厳天皇の実弟。延元元年(1336)足利尊氏が楠木正成らを破って後醍醐天皇は延暦寺に逃れ、尊氏に擁されて光明天皇が践祚。兄の光厳上皇が院政を敷いた。正平三年(1348)光厳上皇の皇子興仁親王(崇光天皇)に譲位して院政を行うが、正平六年(1351)正平の一統で北朝が廃されると出家した。


南北朝の争乱(熊谷蓮覚の勤王)

 南北朝時代のはじめ、熊谷氏は本庄地頭直経、本庄一分地頭有直、新庄地頭直氏、そして、新庄一分地頭の直行の四家が分立していた。このように熊谷一族が分立したのは、承久の乱後、直時が三入庄の地頭に補任されたが、のちに弟の祐直が成長したことで所領の配分が問題になった。祐直は承久の乱で戦死した一族の直勝の跡を継ぎ、直時が三入庄の三分の二、祐直が三分の一を領するように幕府の裁決が出た。
 かくして三入庄は直時の本庄方と祐直の新庄方に分かれ、以後、本庄方は伊勢ケ坪城、新庄方は桐原之城に拠り、それぞれ庶子家を分立していったのである。幕府滅亡から建武の新政にかけての争乱においては、惣領の直経が一族を率いて幕府に忠勤を励み、ついで、宮方に転じて活躍した。
 南北朝の争乱に際して、安芸守護職の武田信武は、建武二年(1335)十二月、尊氏に呼応して銀山城下で挙兵した。これに従う武士は多く、毛利元春・吉川実経・須藤景成・吉川師平・周防親家・逸見有朝・熊谷有直の後家尼智阿花朝倉仏阿・波多野景氏・綿貫孫四郎など安芸の有力な武士が尊氏方についたのである。
 とはいえ、安芸の地頭衆の動きは単純なものではなく、たとえば毛利元春の父親衡は越後で南朝方として挙兵し、安摩庄、能美庄、開田庄などは後醍醐天皇に確保されており、国衙の田所氏の一族石井末忠、そして、熊谷氏の一族で三入庄新庄方地頭の熊谷直行(入道蓮覚)らが南朝方に属していた。
 南北朝時代の一特長として、武家の惣領制が崩壊を見せたことがあげられる。その兆候は、すでに鎌倉期よりみられていたが、兄弟、一族間の対立抗争が顕在化したのが南北朝時代であった。安芸国では熊谷氏をはじめ、庄原の山内首藤氏、高山城の小早川氏らにも同様な分裂が見られる。
 残された熊谷蓮覚の兄直勝の譲状には、公役はすべて惣領の沙汰とあり、これに対して蓮覚は不満を抱いたものと思われる。いずれにしろ、熊谷一族のなかでひとり宮方となった蓮覚は、子の直村、甥の直続や家人とともに矢野城に立て籠り、武田氏の東上を阻止しようとした。戦いは十二月二十三日から二十六日の四日間にわたり、矢野城攻撃軍の中には本家有直の後家代官が参加し、西尾首矢倉の激戦において活躍したことが知られる。
 蓮覚一党は四面楚歌のなか、攻め寄せる安芸足利党の大軍を迎えて、子直村、甥直続、家人らとともに奮戦、一族郎党ことごとく矢野城に露と消えたのであった。この蓮覚の行動は、南北朝時代における、地方武士のひとつの生きざまを見事に表したものといえよう。

安芸の国人、熊谷氏

 蓮覚一族の行動はあったものの、熊谷一族は惣領直経に率いられて、守護武田氏に属して各地を転戦した。そして、本庄方の直経をはじめ、新庄方の直氏・直平らは多くの感状と所領安堵、さらに新恩を受けた。その後、直経は幕府の権威を背景として、細分化されていた本庄方の所領を統合し、貞治四年(1365)、所領のすべてを嫡男の宗直に譲った。ここに三入本庄熊谷氏は惣領制による分割相続から、嫡子単独相続制を実現したのである。
 宗直は今川了俊が九州探題になると、了俊に属して九州に出陣した。永和五年(1379)代官熊谷直忍を九州に派遣して今川仲秋のもとで軍忠をはげませ、永徳元年(1381)には大内義弘から所領安堵を受け、至徳二年(1385)には了俊から三入庄などの安堵を受けている。そして、近隣の諸領主と対抗するため、本庄と新庄との間で一族一揆を結ぶなど、勢力の維持、拡大に努力した。
 熊谷氏は直経が築いた高松城を本拠として、安芸の有力国人に成長していったが、総じて武田氏の指揮下に属し、応永六年(1399)大内義弘が幕府に叛旗を翻した「応永の乱」にも、武田氏に従って幕府方として行動したようだ。その後も熊谷氏は武田氏に従って、中央の争乱に出陣している。永享十年(1438)の「大和永享の乱」には、武田信栄に従って幕府方として大和を転戦、寛正二年(1461)には堅直が武田信賢から河内出陣を催促されている。つづく応仁の乱には、武田氏との関係から細川勝元方として行動している。
 応仁の乱後も熊谷氏と武田氏の関係は変らず、明応八年(1499)、温科国親が武田元信から離反したとき、膳直はその討伐軍に加わり、戦後、元信から恩賞として温科氏の遺領を与えられている。この膳直の代に、鎌倉以来の有力一族であった新庄熊谷氏を滅ぼしている。膳直の子元直も武田氏に属し、永正三年(1506)、可部新庄分のうち山中知行分、安田知行分などを除いた諸領を武田元繁から与えられた。
   やがて、中国地方は大内義興の勢力が拡大し、武田氏もその麾下に属するようになった。義興は幕府内の抗争に敗れた将軍義材(のち義稙)を庇護し、永正四年、義材を奉じて上洛、将軍位に復帰させた。この義興の上洛軍には、尼子氏、武田氏、毛利氏、そして元直らが加わっていた。

戦国乱世に翻弄される

 その後、義興とともに上洛した厳島神主興親が病死したことで、神主職をめぐって相続争いが起り、それは国元にも飛び火した。義興は内訌を鎮圧するため武田元繁を帰国させたが、元繁は反大内の姿勢を明確にして大内方の諸城を攻撃した。一方、永正十三年、京都にあった尼子経久が帰国し、安芸・石見への侵攻を始めた。
 国元の事態の悪化に際して、義興は毛利興元、吉川元経らに命じて、武田方の有田城を攻略させた。以後、武田氏は毛利氏、吉川氏らと対峙を続けることになった。そして、熊谷元直、香川氏らへの支配強化をはかり、有田城奪還作戦を進めた。永正十四年(1517)、元繁は今田城に拠って有田城を激しく攻め立てた。これに対して猿掛城にいた毛利元就が救援にかけつけ、吉川氏らとともに武田軍と激戦を展開した。
 この戦いに熊谷元直も出陣、十月、有田中井手合戦において、武田元繁の先陣をつとめ毛利元就に対した。この合戦は毛利元就の初陣としても有名な戦いで、武田軍四千騎に対し毛利方一千騎という戦力差であった。圧倒的に優勢であった武田方だったが、元就の猛攻にあって熊谷元直はあえなく戦死し、主将の元繁も流れ矢にあたって有田川に転落、元就麾下の井上光政に討ちとられた。以後、武田氏の勢力は大きく衰退していった。
 元直の子信直は天文二年(1533)、元繁の嫡子光和に嫁した妹が破談になったことや、信直が光和の家臣山中氏の可部の所領を横領したことから光和と不和になり、光和の軍勢に本拠高松城を攻撃された。これを機会に信直は武田氏の麾下を脱し、毛利元就に属することになった。以後、熊谷氏は毛利氏の領国拡大のために軍忠をはげみ多くの所領をえた。天文十六年(1547)には、娘が元就の二男吉川元春に嫁し毛利氏と姻戚関係を結んだ。
 元春の岳父として、その扶助を依頼されてからの信直は、毛利氏の先鋒となり各地を転戦した。元就の晩年には、毛利氏の動向決定に参画するまでの地位を築き、『八箇国御時代分限帳』によれば、国衆としては最高の一万六千石の知行を与えられていた。かれのあとを継いだ嫡孫元直は毛利氏の重臣として活動するが、かれはまた毛利家中におけるキリシタンの中心人物でもあった。
 元直は毛利氏の防長移封後の慶長十年(1605)に、萩城築造の奉行でありながら工事を遅らせた責任を問われ一類とともに処断された。この事件の背景には、元直が毛利氏からのキリシタン改宗命令に応じなかったことがあったとみられている。元直のあとは孫の元貞が継ぎ、子孫は萩藩寄組として続いた。・2005年3月15日
・江戸時代の熊谷氏の紋「寓生の丸」

●熊谷氏の家紋─考察

■参考略系図
・『萩藩諸家系譜』 『安芸府中町史』 『広島大百科事典』などの熊谷系図を併せて作成。





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