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大河内氏
●三つ巴/割菱
●村上源氏北畠流  


 中世の伊勢国は、北八郡は工藤一家、関一党らを中核として北方諸侍が割拠し、南五郡は国司北畠家が支配していた。国司北畠家は多芸御所と称され、北畠親房を祖とする村上源氏である。
 後醍醐天皇が開いた建武の新政の恩賞沙汰は、何の手柄もない公家や寺社などに篤く武士たちは冷や飯を食わされるというように依怙贔屓が多く、武士たちは新政に不満を募らせていっった。新政に不満を抱いた武士たちは足利尊氏を頭領と仰ぐようになり、ついに建武二年(1335)、中先代の乱をきっかけとして尊氏は新政に叛旗を翻した。討伐軍を破って京都に入った尊氏は、北畠顕家らの攻勢に敗れて九州に奔り、頽勢を立て直すとふたたび京都を征圧した。ここに建武の新政はもろくも崩壊し、後醍醐天皇は吉野に走り、尊氏は光明天皇をかついで足利幕府を開いた。ここに、日本は南北朝内乱の時代となったのである。
 後醍醐天皇を支えて南朝の中心人物となったのが北畠親房で、嫡子の顕家は奥州に下って奥州南朝勢力の中心となり、建武三年(1336)には京都を制した足利尊氏と戦い尊氏を九州へ走らせる活躍を示した。しかし、延元二年(1337)、勢力を盛り返して京都を回復した足利尊氏と再び戦い、摂津石津の戦いに敗れて戦死した。顕家は新政の将来を案じて後醍醐天皇を諌めたが、聞き入れられないままに戦場に屍をさらしたのであった。  顕家戦死のあとは、弟の顕信が陸奥に下って南朝勢力の回復につとめた。一方、伊勢には三男の顕能が下り、伊勢国司として合戦に明け暮れ、雲出川以南を抑え一志郡の多芸に本拠を構えたのであった。この顕能を初代として伊勢北畠氏は戦乱の世を生き抜き、戦国時代に至ったのである。そして、北畠氏は飛騨の姉小路氏、土佐の一条氏とならんで「三国司」と称された。

大河内氏の発祥

 南北朝の内乱は、明徳三年(1392)、将軍足利義満の尽力によって合一された。このとき、顕能の子顕泰は北朝の後小松天皇を奉じ、伊勢の南五郡と大和の宇陀郡の合わせて六郡の安堵を受けたのであった。当時の北畠氏の勢力を『勢州軍記』は、「侍九千人うち、馬上千五百騎、小人六千、あわせて一万五千の大将である」と記している。軍記物語の誇張があるとはいえ、立派な大大名である。
 かくして、南北朝の合一はなったが、足利幕府は両統迭立の約束を守らなかった。応永十九年(1412)、後小松天皇は皇位を皇子の称光天皇に譲り、合一のときの約束であった南朝小倉宮を無視したのである。これに憤激した北畠満雅は、小倉宮の要請もあって挙兵の準備に着手した。この企てに関一族・萩野氏らが協力し、さらに関東公方足利持氏とも結んだ満雅は、応永二十一年白米城を拠点として兵を挙げた。
 幕府はただちに討伐軍を組織し、土岐氏・仁木氏・細川氏らを大将に命じ、これに伊勢の工藤一族も参加した。幕府軍に対して北畠勢はよく戦い、攻めあぐねた幕府は、南朝の後嗣の即位があることを誓約して和議が成立した。北畠満雅の挙兵に際して、弟の顕雅は大河内城に拠り兄満雅を助けて活躍した。この顕雅こそ、以後、中世を通じて北畠国司家の藩塀として進退する大河内氏の祖である。
 その後、正長元年(1428)に至って称光天皇が重病となった。称光天皇には皇嗣がなかったため、南朝方は今度こそ迭立の約束が守られるものと確信した。この情勢下、小倉宮が北畠満雅を頼って伊勢に出奔したのである。そして、称光天皇が崩御された。しかし、皇位は小倉宮には譲られず、北朝に連なる伏見宮から後花園天皇が践祚されたのであった。ここに、小倉宮擁立の夢を断たれた満雅は、ふたたび幕府に対して兵を挙げたのである。当時、幕府も将軍義持が死去したのちの後嗣問題があり、満雅にすれば絶好の機会でもあった。
 ほどなく将軍は足利義教が立ち、北畠氏追討の兵を発した。「正長の変」と呼ばれる争乱で、土岐氏を大将とする幕府軍は北畠満雅を攻撃し岩田川の戦いで北畠方は敗北、満雅は空しく戦死したのである。

大河内顕雅の忠誠

 満雅が戦死したことで北畠国司家は、にわかに存亡の淵に立たされた。満雅の遺児教具はまだ幼く、幕府軍の攻撃を受ければ北畠氏は滅亡するしかなかった。この北畠国司家の危機に際して、幕府軍との交渉にあたって北畠家を安泰に導き、幼い教具を補佐して国政にあたり、内外の難局に対処した功労者こそ大河内氏顕雅であった。いいかえれば、顕雅は最大の危機に直面した宗家北畠国司家を支え、戦国時代に至る北畠国司家の基礎を築きあげたのである。
 北畠国司家は、二代顕泰の兄にあたる顕俊を祖とする木造御所、多気郡田丸御所、飯高郡坂内御所、そして大河内御所であり、田丸御所・坂内御所・大河内御所の三家が一族三大将と称された。なかでも、大河内氏は家督を北畠宗家から迎えて譲ることを慣わしとし、一門中の頭領としての機能を有していた。
 他方、木造御所は北畠庶流の筆頭であったが、代々の当主は京都に出仕していて、先の応永・正長の変に際しても、幕府軍に属して宗家北畠国司家を攻撃した。幕府の思惑もあって、木造御所の官位は国司家をしのぐこともあり、国司家は木造御所の権を分かつことにつとめた。その結果として、大河内氏は一族の越権を抑え上下の秩序を立てる機能を持たされ、国司家の権威伸張の任を負ったのである。さらに、もし国司家に継嗣が絶えたときは、大河内から出て国司家を継ぐという特権も与えられていたのである。

大河内家の興亡

 顕雅のあとは国司家から親忠が迎えられ、左中将に任ぜられたというが、その事蹟は詳らかではない。親忠が病死したあとは、弟の親泰が大河内氏の家督を継いだ。親泰の兄デ国司材親は、永正年間(1504〜20)に一志郡星合に新たに城を築き、これを親泰に守らせた。親泰は勇将として知られ、兄を補佐して諸処の合戦に出陣し、矢野・星合・村松・伊澤・大淀を給わったと伝えられている。そして、大永六年(1526)大河内城に移り、式部大輔を称して国司家の政務にあたった。
 親泰のあとは慣例を破って次男の具良が家督を継承した。ちなみに親泰の長男具種は坂内御所を継いでいる。具良の代になると、世の中は戦国乱世のまっただ中にあり、伊勢も例外ではなかった。戦国時代、北伊勢には関一党が、中伊勢には工藤長野一族が、そして南伊勢には北畠氏がそれぞれ勢力を誇って、互いに戦いを繰り返していた。


北畠氏の史跡を訪ねる

・北畠氏が織田信長と激しい攻防戦を展開した大河内城址 /北畠一族金生氏が拠った波瀬城址の空掘跡【右端】

→ 大河内城址を歩く

 戦国時代の中期を過ぎるころ、尾張から出た織田信長がにわかに勢力を拡大し、永禄十年(1565)、伊勢に鉾先を向けてきたのである。北伊勢の諸将は織田信長に下り、永禄十二年には中伊勢の工藤長野一族が信長の配下に下った。この事態に際して、国司家北畠具教は大河内城を居城として、織田信長の伊勢侵略に当たったのである。これにより、大河内家は多気郡大淀に移った。かくして、織田信長と北畠具教との抗争が開始され、国司家の軍が北方に進軍し合戦をした事は数度であったという。
 やがて、北畠一族の有力者である木造具政・具康父子が謀反を起し、国司家はただちに木造を討伐したが、すぐに攻め落とす事は出来なかった。そこへ、信長が軍勢七万を率いて出陣してきた。信長軍は大河内城を囲み、四方から攻めたてたが、大河内城はよく織田軍の攻撃を防いだ。両者の戦いはその後も続き、ついに、信長の子を国司具房の養子にするという条件で和睦がなった。
 こうして伊勢一国は織田信長の配下となったが、北畠氏にしてみれば不本意な和睦であり、次第に信長との不和が顕在化していった。そして、ついに武田信玄と同心して、謀反の企てを起すに至ったのである。
 これを察知した信長は国司家を滅ぼすことに決し、天正四年十一月、国司北畠一族を誅殺した。このとき、大河内六代当主の教通も織田家からの討手を受けて殺害され、大河内家の嫡流は断絶したのであった。・2004年11月10日→6月20日

参考資料:大河内城・勢州軍記 ほか】  お奨めサイト…勢州軍記



■参考略系図


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