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河原田氏
●三つ巴
●藤原氏秀郷流  
 


 河原田氏は、藤原秀郷の後裔小山氏の分かれという。初代の盛光は小山政光の五男で、下野国河原田に住して河原田氏を称したという。盛光は源頼朝の奥州征伐に功があり、会津伊南地方を与えられ駒寄城を築き本拠とした。以後、鎌倉時代から戦国時代に至るまでの河原田氏の動静は詳しく分かっていない。
 とはいえ、河原田氏の出自に関しては諸説があり、系図も諸本伝わってそれぞれ異同が少なくない。たとえば、盛光は小山政光の嫡男朝政の子とするものがあり、一方で、小山政光の子結城朝光の子とするものもある。さらには、結城朝光の子白戸朝村の子長広を祖とする説もある。頼朝の奥州征伐に出陣したということであれば、小山政光の五男という説に分がありそうだが、河原田氏の出自に関する正確なところは分からない。
 会津では、河原田氏と葦名・長沼・山内の四家を、とくに「会津四家」と称した。

河原田氏の出自、諸説

 伊南河原田氏の系図は諸本伝わっているが、初代は盛光としているものが多い。これは、『四家合全』に記された河原田氏系図に依った結果と思われる。一方、結城氏から出ていることは同じだが、盛光・秀光の名がまったく見えない『会津四家合考』に記された「河原田家譜」があり、初代は長広で天正の盛次まで続いている。同系図の八代にあたる兼村は、応永二十三年(1416)の上杉禅秀の乱に際して鎌倉公方足利持氏に属して戦った記述がみられ、同族の結城氏・長沼氏らと同じ行動をとったことになっている。各種ある河原田氏系図のなかで、禅秀の乱における動向を記したのは四家合考の系図のみである。
 河原田長広は結城系図にも見え、それによれば長広は朝光の子で網戸十郎朝村の子として記され、その弟の朝綱に河原田とある。しかし、この朝綱は網戸氏の祖であり、子孫は結城氏の守護代などをつとめ会津伊南地方との関係は見出せない。さらに、長沼氏系図のなかにも河原田氏を見い出すことができる。長沼氏三代宗泰の兄弟宗員が皆川氏の祖となったが、その子宗義に河原田五郎とあり、五郎が河原田氏の祖とも考えられる。
 他方、延元元年(1336)の『朴沢文書』に長沼河原田弥四郎なる人物がみえている。長沼河原田氏とは長沼の河原田氏であることを示し、河原田氏が長沼氏の一族であったことをうかがわせている。そして弥四郎は、建武三年(1336)八月、足利尊氏が建武新政府に背いたとき尊氏側に味方したため、陸奥国衙より南山内の所領を没収されたことが知られる。この南山内とは、河原田盛光が源頼朝から与えられという伊南郷のことであろう。
 ついで、『角館河原田系図』によれば、永享十二年(1440)の結城合戦に、河原田兼村が結城氏朝に与して討死したため、その子の成村が陸奥国伊南の別荘に移ったとあり、河原田氏の伊南移住の時期をうかがわせるものとなっている。さらに、『角館河原田系図』には、永正六年(1509)に尹朝・朝和父子は訴訟のため上洛し、将軍足利義尹(義稙)に謁した。このとき将軍にその労をねぎらわれて「尹」の一字と石見権守を賜り、朝和は靭負尉を授けられた。
 当時、幕府は内部抗争に揺れていて、永正八年、義尹は細川政賢・三好之長らと戦い、一時丹波に逃れた。勢いを盛り返した義尹は、政賢・之長勢を山城国船岡山に破り京都を回復した。尹朝・朝和父子はこの戦いに義尹軍に属して戦い、ともに討死したと伝えている。

河原田氏の登場

 中世の会津の歴史を記した記録として『塔寺八幡宮長帳(以下、長帳)』が知られ、長帳は会津一円の出来事を毎年書き継いだもので、記事の信憑性も高いとされている。長帳の享徳二年(1453)の記述に、葦名氏を継いだばかりの盛詮に対して松本典厩と橋爪(芳賀ともいう)将監なる者が反抗し、盛詮はただちに両名を高田城に追い、さらに追撃して日光山に追い払った。その後、松本らは伊南河原田氏を頼って会津に潜入し、勢力を回復すると、やがて伊南川に沿って下ると耶麻郡浜崎の館に入った。これを、葦名氏一族の猪苗代氏が応援する情勢となった。
 窮した盛詮は白河結城直朝に援兵を依頼して、どうにか典厩を自害させることができ、猪苗代氏を追いやった。これを「典厩の乱」といい、長帳には「いなんのかはらだをお頼みあった」と、典厩が伊南に潜入したことを記している。このことから、当時、河原田氏が伊南郷一円に勢力を築き、逃亡の将松本典厩を受け入れる余裕を持つまでの存在であったことが知られる。
 会津が内乱で揺れているころ、関東でも永享の乱、結城合戦などの戦乱が相継ぎ、時代は乱世の様相をみせつつあった。そのような情勢下にあって河原田氏は、要害に囲まれた会津の奥地を領して、独立した国人領主としての勢力を保っていたのである。
 やがて、葦名氏が着実に勢力を拡大し、南奥の有力大名に成長した。戦国期の葦名盛舜は事実上の会津守護としての行動をみせ、葦名氏を戦国大名へと発展させた。盛舜のあと継いだ盛氏は会津統一を企図し、天文十二年(1543)、横田の山内氏を攻め、その勢いをもって只見川・伊波川を遡って河原田氏を攻めた。
 駒寄城では防ぎきれぬとみた河原田氏は、上流宮沢の奥に柵を構えて防戦したため、ついに葦名氏は河原田氏を降すことができなかった。河原田氏と葦名氏とが直接戦ったのは、この戦いしか史料に残っていないことから、以後、河原田氏は葦名氏の麾下に属したものと考えられる。そして、横田の山内氏が越後の上杉氏などと関係をもっていたのとは違い、葦名氏以外の大名とは関係を持っていなかったようだ。

葦名氏に属す

 葦名氏の麾下に属したとはいえ、河原田氏は伊南地方の領主としての自立性を失うことはなかったようだ。また、同じ会津の国人領主である伊北の山内氏と親しい関係を築いていたようで、それぞれ中丸城、駒寄城を本拠にしながら、伊南川・只見川に支城を配し狼煙制度で結ばれていた。
 天正六年(1578)耶麻郡野沢村大槻城主の大槻政通が反乱を起こした。「不風俗ゆえに」所領を削られたことが原因といい、古記録なども、一方的に大槻氏が悪いと記している。ところが、この「大槻の乱」に際して山内一族とともに河原田氏も一度は大槻氏に加担したのである。西方鴫城主の山内右近は大槻政通の娘婿であった関係から大槻の味方となり、山内一族を誘いその応援を得た。それに河原田氏も加わったのは、山内氏と姻戚関係にあったためであろう。
 大槻の乱は「不風俗のとがめ」という単純なものではなく、永年にわたる盛氏の外征による家臣、領民の窮乏があり、大槻氏を含む山内一族、河原田氏一族らの存立に関わる理由が背景にあったものと想像される。乱は葦名氏の攻勢によって山内右近が自害、大槻政通が討たれたことで終熄した。
 大槻氏の乱から二年経った天正八年(1580)六月、葦名氏の全盛時代を現出した盛氏が死去した。盛氏の嫡男盛興はすでに早世しており、そのあとは人質として黒川にあった二階堂盛隆が継いだ。しかし、盛氏によって覆い隠されていた葦名氏の矛盾が、その死によって顕在化し、葦名氏はたちまち凋落の色を濃くするのである。
 天正十二年(1584)、盛隆が家来に殺され、あとを継いだ子亀若丸も三歳で死に葦名氏の男系は絶えた。相次ぐ当主の交代は葦名家中の動揺を招き、亀王丸のあとを佐竹義重の二男義広が継ぐか、伊達政宗の弟竺丸が継ぐかで家臣団の意見は対立した。天正十五年(1587)、佐竹義重の次男義広が葦名氏当主に迎えられたことで家督争いも一段落したかにみえた。しかし、義広はまだ十三歳の少年であり、葦名氏家中は伊達派と佐竹派の対立が癒されていず、さらに伊達政宗による切り崩し策も進められていた。葦名氏の命運はまさに風前の灯火ともいえる状況に陥りつつあった。
 義広が葦名氏を継いだ年、豊臣秀吉によって惣無事令(私戦禁止令)が発せられ、大名間の戦闘が禁止された。葦名氏は秀吉に誼を通じて、虎視眈々と会津征服を狙う伊達政宗に対抗しようとした。  

摺上原の合戦

 天正十六年、猪苗代盛国と盛胤父子の間で内訌があり、葦名氏が伊達氏と対峙している安積郡で去従が注目されていた片平・大内の両氏が伊達政宗の軍門に降った。葦名氏は内憂外患にさらされつう、次第に崩壊のときを迎えようとしていた。
 天正十七年になると政宗は積極的に兵を動かし、安積郡を平らげると、反伊達連合軍が攻撃する郡山城に向かうと見せかけて、道を会津の方にとった。そして、伊達氏に内応した猪苗代盛国の居城である猪苗代城に入った。この報に接した義広は、郡山城から夜を徹して黒川城に兵を返した。そして、兵に休息を与える間もなく、猪苗代湖北方に広がる摺上原に出撃したのである。
 彼我の兵力は、伊達軍二万三千に、葦名軍は一万六千であった。しかも、猪苗代城で休息をとった伊達軍とは違い、葦名軍には郡山から駆け戻ってきた疲労が残っていた。かくして、六月五日の未明、決戦の火ぶたは切られた。緒戦は葦名軍の先鋒富田将監の奮戦で伊達軍を押したが、そのうち風向きが変り、葦名勢のなかに流言が流れ、ついに葦名方は総崩れとなった。
 このとき、盛次は北方の桧原口警固のために大塩村に出陣していた。六月五日、伊達勢が摺上原に寄せ来ると聞いて引き返すと、葦名軍はすでに敗勢にあった。盛次は兵をまとめて合戦の推移をうかがいながらためらっていると、伊達の陣より鐘の紋を染め抜いた旗指物をなびかせた片倉景綱が進み出てきた。盛次は軍を進めて片倉軍と合戦したが、葦名義広が敗走したため、兵をまとめて黒川の西にあたる中荒井にまで引き上げた。
 ところが、葦名義広は伊達勢が黒川を攻撃すると聞き、また家中では葦名譜代の宿老らの不穏な動きもあり、急遽城を捨てて実家佐竹氏のもとに逃亡するという異常事態となった。義広が黒川を落ちたとなると、盛次一人の力ではもうどうするすべもない。盛次は伊南に引き返すべく高田まで退ったが、心がおさまらず、政宗に使いを立てて一戦を挑んだ。しかし、政宗は盛次の義気を賞ではしたが一戦のことは取り合わなかった。盛次はやむなく伊南に帰っていった。

伊達政宗に徹底抗戦

 葦名氏を滅ぼした政宗は会津に侵攻、黒川城に入城した。河原田氏と境を接する南山鴨山城主の長沼盛秀は政宗に降り、妻の兄にあたる山内氏勝は本城を追われて山間に苦戦を強いられ、会津盆地内はほとんど政宗に制圧された。この間、長沼盛秀から「葦名氏譜代の富田・平沢をはじめ、みな政宗殿に帰順なされた。そなたも味方になられてはいかが」とういう書状が届いた。それに対して、盛次は武士として二弓をひくことはできぬ、とにべもない返事を返している。硬骨漢盛次の面目躍如たるものといえよう。この返事に怒った盛秀は、ことの次第を政宗に報告するとともに盛次討伐の許しを得て河原田氏を攻めてきた。
 このように、河原田氏は伊達氏への服属を拒み、代々の居城駒寄城では伊達軍の攻撃を防げぬとして、新たに青柳に久川城を築くと立て籠った。八月、長沼盛秀が山内方の布沢城を攻略し、ついで、政宗の将原田宗時と協力して伊北簗取城・泉田城を陥落させた。泉田城の攻防戦には、河原田勢も応援したが力及ばなかった。ここにいたって、河原田盛次は会津において完全に孤立した。
 とはいえ、その背後には、伊達の勢力拡大を牽制する越後の上杉景勝、常陸の佐竹義宣があり、小田原後北条氏を攻めんとする豊臣秀吉らの存在があった。天正十七年九月、義宣は書状を送って、盛次の抗戦を激励している。その後も盛次は、只見水窪城に立て籠る山内氏勝を応援して政宗に抵抗を続けた。しかし、さすがの盛秀もこのままの状態で政宗に敵対していては、いずれ滅亡することは必至として、入道玄佐という者を伏見にのぼらせ、石田三成を通して豊臣秀吉に実状を上申した。
 翌年正月、太閤秀吉の返事が石田三成よりもたらされた。それには、弥生三月、相模の北条一族を討伐するために下向する。その次には政宗の惣無事令違反を糺されるとのことであるから、今しばらく城を堅固にして守りおるようにというものであった。秀吉からの書状を受取った盛秀は、勇気百倍たるものがあっただろう。しかし、家中には政宗に心を寄せる者も出てくるなど不穏の気配があった。そこで、盛秀は正体不審な者たちから人質をとり、それに嫡子伊勢王丸を添えて上杉景勝のもとに送って援兵を請いかろうじて城を守った。
 二月には、常陸に落ち伸びていた葦名義広から抗戦激励の書状が送られてきた。その内容は、越後上杉より大量の鉄砲を応援に送るといい、政宗からの降伏の勧めを拒絶したことに対して「無二の大忠」と賞賛したものであった。しかし、義広の置かれた状況をみれば、盛次にとっては空疎なものであったろう。盛次が頑強に抵抗しながら、もっとも期待していたのは秀吉であったと思われる。
 盛次は雪解けとともに伊南多々石を越え田島に打って出た。そして三月、河原田大膳盛勝を将とする軍と、これを迎え撃った長沼盛秀の軍とが大豆渡岩館付近で戦った。河原田勢は長沼盛秀に傷を負わせるほどに奮戦したが、大膳をはじめ多くの将兵を失い、頽勢を覆すことはできなかった。その後、簗取をはじめ和泉田・小林等の城が陥落し、河原田氏の命運も旦夕に迫っていた。

河原田氏の没落

 この頃、秀吉は小田原に陣を進め、小田原に参陣した政宗の罪を糺し、会津・仙道を収公した。ここに河原田氏の危機は去り、盛次は愁眉を開くことができた。そして、秀吉が会津に下向すると聞いて下野国宇都宮まで出向いたが、謁見することができず空しく帰り、日を経ずして病没したという。一説に、大豆渡岩館の戦いで受けた戦傷がもとで死去したのだともいう。
 別の言い伝えによれば、秀吉が宇都宮まで来たとき、盛次は河原田大膳を使者に送ったが、秀吉に会うことができず、それがのちの伊南没収につながったといわれている。こうして、「奥州仕置」の結果、河原田盛次は所領安堵を得ることができなかった。盛次は秀吉の援助を頼りとして、孤軍奮闘、政宗に頑強に抵抗したがそれは報いられることはなかった。ここに至って、鎌倉時代より奥会津にの領主として続いた河原田氏は、空しく没落したのである。
 その後、 盛次は伊南を去り上杉氏を頼ったが、天正十九年正月に病死したと伝えられている。盛次の子孫は、伊南に残る者と葦名氏のあとを追って常陸国に行き、さらに佐竹氏の秋田移封に従って角館に移り佐竹氏に仕えた者とに分かれた。・2006年3月29日

参考資料:福島県史/南郷村史 ほか】   →河原田氏ダイジェスト

■参考略系図


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