ヘッダイメージ



河原田氏 ●ダイジェスト
三つ巴
(藤原氏秀郷流)


 長沼政宗や結城朝光の長兄である小山朝政を祖とするといわれる。しかし、実は祖父政光の五男とも、あるいは結城朝光の後裔長広の子との説もあって分明ではない。下野国河原田に住して河原田氏を称していたが、源頼朝の奥州征伐に功があり、河原田盛光が会津伊南地方を与えられ、駒寄城を築き本拠とした。以後の河原田氏の動静は詳しく分かっていない。会津では、河原田氏と葦名・長沼・山内の四家を、とくに「会津四家」と称した。
 戦国期に至って、葦氏名の当主に盛氏がなると、にわかに威勢が増し、天文12年(1543)盛氏は武力により河原田・山内両氏を制圧する。以後、河原田氏は葦名氏の影響下におかれた。しかし、山内氏が上杉氏などと関係をもっていたのとは違い、葦名氏以外の大名とは関係を持っていなかったようだ。また、河原田氏は山内氏と親しい関係を築いていたようで、それぞれ中丸城、駒寄城を本拠にしながら、伊南川・只見川に支城を配し、狼煙制度で結ばれていた。
 天正十五年、豊臣秀吉によって惣無事令(私戦禁止令)が発せられ、大名間の戦闘が禁止された。しかし、葦名家中が後嗣をめぐり伊達・佐竹派に分裂し、佐竹義重の子義広が跡継ぎとなると、天正十七年、伊達政宗は摺上原で葦名義広を破り、義広は黒川城を捨て常陸に逃亡し、葦名氏は滅亡する。政宗は会津に侵攻を開始し、黒川城に入城。長沼氏はほどなく政宗に従うが、河原田氏は伊達氏に服属することを拒み、山内氏とともに伊達氏の侵攻に備えた。
 伊達氏はまず、山内氏領に侵略し、中丸城は落城し、大塩城に入城した。河原田・山内両氏は上杉氏などの支援をえて伊達軍との合戦を続けた。この状況は秀吉の小田原征伐まで続き、政宗の秀吉服従により終結した。河原田氏は山内氏とともに葦名氏の旧臣として豊臣政権に認識され、領地の安堵はならなかった。以後、河原田氏は佐竹氏の家臣となり、戦国大名としての河原田氏は滅亡した。

←河原田氏へ


 

バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧