加藤氏(清正家)
桔梗/蛇の目
(称藤原北家道長流) |
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加藤氏といえば、藤原利仁加藤景廉の流れを称する家が多いが、清正の加藤氏は藤原北家道長流と称している。
藤原権中納言忠家の次男で美濃守に補任された正家が美濃に赴任、のちに加藤庄に住し、加藤を名乗ったのが
始めという。新井白石の『藩翰譜』も一説にいうとして、
「御堂殿の御裔の中納言忠家の次男正家の十代の後、二郎清方が子因幡守清信、尾州犬山に住し、斎藤道三に属す、
織田殿と戦いし時討死す。其の子弾正清忠、同国愛知郡中村に住し、三十八歳にして死す。三歳の幼子あり、
虎之助と云ふ、これ清正なり。母は秀吉の母と従姉妹なり」と記されている。とはいうが、
道長の後裔云々ということは、よくある家系伝説の類で、藤原北家につながる系図を作り上げたものだろう。。
清正の父という清忠は、合戦で城を失い傷を負ったことから武士を捨て、遠縁にあたる尾張中村の刀鍛冶のところに
身を寄せた。やがて、鍛冶となった清忠は妻を娶り、二人の間に生まれたのが虎之助、のちの清正であった。
清正の母は伊都といい、豊臣秀吉の母とは従姉妹の関係にあった。あるいは、清正が生まれたとき、加藤家の隣には
秀吉の家があったともいう。それらの真偽は分からないが、加藤清正の家と豊臣秀吉の家とはいささかの縁があった
ことだけは間違いないようだ。
清正の大出世
父清忠が早死したころ、豊臣(当時は羽柴)秀吉は織田信長のもとでひとかどの武将に出世していた。
清正の母伊都は、五歳の虎之助をつれて近江長浜城の秀吉のもとを訪れ仕官をさせた。親類縁者の少ない
秀吉は快く虎之助を迎え入れると、福島市松(のちの政則)らとともに長浜で養育してくれた。やがて、
十五歳で元服すると秀吉から百七十石を与えられ、大名へと続く道を歩きはじめた。
天正三年、秀吉が中国攻略の対象として播磨に出陣すると虎之助も従軍、因幡鳥取城攻めに参加した。
天正十年(1582)、備中国冠山城攻めで一番槍を振るう手柄を立てた。同年六月、
明智光秀の謀反によって織田信長が本能寺の変で殺害された。
備中高松城をめぐって毛利氏と対峙していた秀吉は姫路に取って返すと、山崎の合戦で光秀を滅ぼし、織田家中における発言力を
増した。翌年、ライバル柴田勝家を近江国賤ケ岳で倒した秀吉が一躍信長の後継者に躍り出た。
山崎の合戦、賤ケ岳の戦いに虎之助も出陣、とくに賤ケ岳の戦いでは一番槍を振るって、柴田方の鉄砲頭
戸波隼人を討ち取る功をあげた。戦後、福島政則・加藤嘉明・片桐且元らとともに「賤ケ岳七本槍」の一人に数えられ、
近江・河内・山城などにあわせて三千石を与えられた。
その後、小牧・長久手の合戦、九州征伐に出陣、十六年には佐々成政改易のあとをうけて肥後半国二十五万石を
与えられ大大名に出世した。さらに小田原の陣、文禄の朝鮮出兵など、清正は休む間もなく戦場に身を置いた。
秀吉子飼いの武将では清正は正則と並ぶ勇将であったが、同じく長浜時代からの同輩である石田三成とは
そりが合わなかった。とくに、朝鮮の陣における清正の行動を三成が秀吉に讒言(一概にそうともいえないが)して、
謹慎処分を受けてのちは三成と敵対するようになった。秀吉政権にとって、武断派の清正と文官派の三成とが
対立関係になったことは、のちの豊臣家滅亡の予兆となるものであった。
秀吉が没したのち、徳川家康と石田三成が対立関係になると、清正は福島正則らとともに家康に加担して三成と
対した。清正が家康方となったのは三成憎しもあったが、秀吉の正室北政所が家康を支持していたことも大きかった。
かくして、慶長五年(1600)、関が原の合戦が勃発した。清正は領国肥後にあって、肥後南半国を領する小西行長、
筑後柳川の立花宗茂ら西軍方の居城を攻め、戦後、肥後一国五十二万石の国持ち大名となったのである。
………
写真:熊本城前の加藤清正像
加藤家の浮沈
清正は居城としてすでに熊本城を築いていたが、肥後国主になると天守閣、石垣などの工事を本格化した。熊本は
隈本と書かれていたが、慶長十二年(1607)、熊本城完成のとき熊本に改められたという。そもそも
熊本城は、南北朝のころに菊池氏の一族出田氏が城を築いたのがはじめといい、その後、鹿子木氏、菊池氏、城氏ら
が拠り、秀吉から肥後一国を与えられた佐々成政も居城とした。
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天守閣、櫓、石垣、濠などなど、それぞれ一級品の見事さだ。城址の一角には清正を祀る加藤神社が
鎮座している。その神紋が「桔梗」と「蛇の目」であったことは言うまでもないだろう。
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城は茶臼山と呼ばれる小山の東方に本丸を置き、西方へ二の丸、三の丸を設けた梯郭式の縄張りである。その規模はまことに
壮大で、とくに石垣の見事なことは壮観である。とくに大小の天守台が連立す天守台の石垣は、見ていて飽きのこない
素晴らしさだ。明治のはじめに起こった西南戦争のとき、熊本城に拠った官軍を薩摩軍が猛攻撃を加えたが、
ついに落とせず薩摩軍敗退の要因となった。2008年の春、御殿の再建工事が成り、さらに見事な姿を見せている。
さて、関が原の合戦において徳川方に味方した清正であったが、秀吉の遺児秀頼の前途を憂い、その
生き残りのために腐心した。しかし、大坂の陣を前にした慶長十六年(1611)、病のために熊本で世を去った。清正の
あとは嫡男の忠広が継ぎ、肥後五十四万石も無事安堵された。ところが、大坂の陣では重臣らが
豊臣方に内通したとの風説が流れ、さらに家中を二分する御家騒動が起こるなどして加藤氏の前途は多難であった。
そして、寛永九年(1632)、徳川忠長事件への加担、武家諸法度の違反などを理由に除封、出羽庄内へ
配流処分となった。幕府は丸岡一万石を与えたが、それも忠広の死後除封され、大名としての加藤家は終焉を迎えた。
肥後加藤家の悲運の背景には、加藤家自体の問題もさることながら、幕府の外様を排除せんとする意志も
少なからず働いていたように思われる。
【主な参考資料:豊臣一族のすべて・戦国武将総覧・日本城郭体系 など】
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