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鹿島氏
●三つ巴
●桓武平氏大掾氏流
*源平姓氏・家紋400大事典(1984/12歴史読本臨時増刊所収:能坂利雄氏監修)による。


 鹿島氏は、鎮守府将軍平貞盛の甥維幹を祖とする常陸大掾七党の一流で、大掾繁幹の子吉田清幹の三男成幹が常陸国鹿島郡鹿島郷に土着して、鹿島の地頭となったことに始まる。成幹の子政幹は、はじめ宮本郷粟生に住み、のちに鹿島神宮の西方にある宮中の吉岡に城を築き、以後、戦国時代末期まで鹿島氏は吉岡城主として続いた。
 常陸大掾一族は平氏だが、清和源氏との関係が深く「前九年・後三年の役」には大掾致幹が、源頼義・源義家に属して出陣している。また、義家は致幹の娘を娶って女子をもうけ、義家の弟義光の長男義業は鹿島成幹の妹を室に迎えている。大掾一族は源氏と結びつくことで、開発領主としての地位を安泰させようとしたのであろう。
 治承四年(1180)の源頼朝の旗揚げに際して、政幹は子の宗幹に手勢一千騎を率いさせて参加せしめ、宗幹は弟弘幹とともに源義経に属して屋島の合戦で戦死した。養和元年(1181)、頼朝は鹿島神宮の神領中の非違を検断する鹿島総追捕使に政幹を任じ、平家追討戦における鹿島氏の勲功に報いている。以後、鹿島氏は鎌倉御家人に連なり、勢力を拡大していったのである。

南北朝の戦乱

 南北朝の内乱期、常陸国は南朝方・北朝方に分かれて戦いが繰り広げられた。常陸の南朝党としては小田・関・下妻・真壁・笠間の諸氏、対する北朝党は佐竹氏を中心として、途中から大掾氏が加わった。鹿島幹寛・幹重父子は、本家大掾氏とともに北朝方に属して、佐竹義篤に従って北畠親房が拠る神宮寺城の攻撃に参加し、さらに幹重は足利尊氏に従って正平七年(1352)の武蔵野合戦に出陣している。
 幹重は一連の功績により、正平二十三年、鹿島惣大行事職に補任された。このとき、総追捕使は大中臣氏の職となったが、鹿島氏の鹿島社における職掌に変りはなかった。以後、鹿島氏の代々が惣大行事職を世襲した。
 鹿島氏の場合、鎌倉期より鹿島郡内に広く一族が繁衍分布していた。徳宿・烟田・塙・亀谷田・菅谷・神谷戸らの鹿島氏庶子家、それからさらに分家した小領主たちが、個々の集落の開発を進め支配していたのである。そして、南北朝の争乱期には、たとえば烟田氏のように鹿島氏を惣領家と仰ぐ庶子家が鹿島氏の軍事力の一端をになっていた。
 戦国期において、これら郡内の庶子家が惣領家たる鹿島氏のもとに結集した場合、佐竹氏、江戸氏、小田氏らを脅かす大勢力となったことは疑いない。しかし、実際に惣領家と行動をともにしたのは、限られた庶子家ばかりであった。そこに、鹿島氏が戦国大名に成長するだけの素地を有しながら、あと一歩の飛躍ができなかった限界があったといえよう。

打ち続く関東争乱

 永徳元年(1381)の下野小山義政の乱に、幹重は鎌倉公方足利氏満に従って北関東に転戦する。その子憲幹は、応永十四年(1407)に鹿島社領を押領して訴えられ所領を収公されたが、同二十二年には旧領を回復されている。翌二十三年に起こった「上杉禅秀の乱」では、鎌倉公方足利持氏方に属して近隣の禅秀方を制圧、禅秀余党の上総本一揆の挙兵に際しても佐竹義憲らと出陣してそれを制圧した。憲幹の子実幹のとき「享徳の大乱」が起こり、実幹は一族を率いて古河公方足利成氏に味方し上杉・佐竹両氏と戦った。
 常陸守護佐竹氏は十五世紀を通じて一族の反乱に悩まされ勢力を衰退させ、江戸氏が自立化行動を起こすようになっていた。勢力拡大を目指す江戸氏は、文明十八年(1486)、鹿島氏の一族である徳宿・烟田の両城を攻撃してきた。これに対して鹿島実幹は、徳宿・烟田の両城を支援するため香取勢とともに出陣したが、すでに両城ともに落城していた。しかし、江戸勢と戦闘を交え、両軍ともに多くの戦死者を出し、江戸勢は軍を引き揚げていった。
 その後、永正年中以来(1504〜)鹿島家は一族・支族の間で内訌が表面化し、ついには当主の廃立の問題で抗争に発展することになる。すなわち、鹿島左衛門尉親幹のあとを継いだ景幹が、永正九年(1512)下総米野井城を攻めて戦死したことが事の起こりであった。
 景幹には子が無く、弟の義幹が養子として家督を相続した。しあkし、いまだ幼少のため家臣に人望がないうえに、新規に召し抱えた浪人玉造常陸介(塚原卜伝の門人)が専横を振るって悪政を行ったため、家臣らが合議して不平を四宿老に訴えたの。これを容れた四宿老は江戸氏・大掾氏・島崎氏らと結んで義幹を廃して鹿島城から放逐した。代わって景幹の一女に、府中の大掾高幹の弟をめあわせて鹿島通幹を名乗らせ新しい領主と仰いだ。その実現には松本備前守と弟の右馬允政元の奔走が大きかったが、これは、主家鹿島氏に対する叛乱にほかならないものであった。
 居城を遂われた義幹は、大永四年(1524)、下総東庄の城に拠って雪辱の軍を催すと利根川から舟によって高天ケ原に上陸し、総勢七百をもって鹿島城に攻め入ろうとした。これに対して、鹿島城からも軍勢を繰り出して両軍激戦となった。松本備前守政信は、その前後の戦いに槍を合わすこと二十三度、高名の首百二十五、並の首七十六を取るという人間離れをした奮戦をした。この戦いに塚原卜伝も従軍していて、槍合わせ九度、高名の首二十一、並の首七つを取ったという。しかし、松本備前守は、この高天ケ原の合戦に戦死を遂げた。享年五十七歳、ちなみに卜伝は三十六歳の働き盛りであった。

鹿島神陰流

 松本備前守政信は初名は守勝、のちに尚勝と改めた。飯篠長威斎の門人で、鹿島神宮に祈願して源義経が奉納した秘書を手に入れてから鹿島神流を開創した。一に鹿島神陰流、俗に鹿島流ともいう。
 松本家は塚原卜伝の実家吉川氏とともに、鹿島神宮の神官であったともいうがそれを否定する説もある。いずれにしろ、吉川氏・小神野氏・額賀氏の三家とならんで常陸大掾鹿島家の四宿老の一家であった。政信は長享二年(1488)に上洛して将軍義尚に謁し、諱の一字を賜って名を尚勝と改めた。長享二年は尚勝二十一歳のときで、この年、師の長威斎が死去し、翌延徳元年に塚原卜伝が生まれている。
 剣法の流儀は京に発した京八流に対して、関東に古伝した剣法は関東七流、すなわち鹿島七流があった。鹿島七流は、鹿島神宮の神官七人の家伝であったともいわれるが、元来、一つの流れであったものが、神官七家に分かれて伝統され、さらに七家から世間へ流布したものと考えられる。
 仁徳天皇の時代、国摩大鹿島命の後裔、国摩真人が高天ケ原の西にある鬼ケ城に神壇を築いて祈った結果、神の啓示によって神妙剣と称する刀術を創業した。これが「鹿島の太刀」という刀法の始まりと伝えられる。そして、真人四十二代目に吉川左京覚賢という人があり、本姓名を卜部呼常といって鹿島神宮の神官であり、鹿島家の四宿老の一家であった。この覚賢の二男朝孝が塚原家へ養子にいった、のちの新右衛門高幹であり塚原卜伝である。
 卜伝は、実父覚賢から家伝の鹿島古流を学び、養父の塚原土佐守から飯篠長威斎の香取神道流を学び、さらに飯篠長威斎の門人松本備前守政信の創案した「一つの太刀」を学んだ。このように卜伝の極意といわれる「一つの太刀」は、元来、松本政信の創意があり、塚原卜伝に伝えられたものであった。政信は師の長威斎が考慮した兵法を、剣法の格式に案出し、陣鎌・薙刀・十文字などの術技はすべて松本政信が完成したものといわれている。
 このような松本政信が近隣の諸豪と結んで主家鹿島氏に叛乱を企てたのは、理由はどうあれ政信もまた下剋上の横行する戦国時代を生きる人物であったということだろう。

鹿島氏洞中

 その後、義幹の孫治時は佐竹氏に従い、鹿島城を回復、鹿島氏中興の祖となった。治時は永禄八年(1565)に土浦を領したが、翌九年には、武田通信と烟田氏の所領である三ヶ村を取り合い、治時の不手際で烟田忠幹は三ヶ村を失った。
 烟田氏は鹿島氏の一族であり、南北朝期より鹿島氏に従って勢力を維持してきた。戦国時代に至っても鹿島氏に従属して、その保護を受ける存在であった。治時は配下の領主である烟田忠幹の危機を救ってやるべき立場でありながら、忠幹に所領を失わせる結果をもたらした。これをきっかけとして烟田氏は、鹿島氏から自立する動きを見せるようになった。それに対して治時は烟田氏の所領を二分する位置にある鉾田に城を構え、三男義清を配して烟田氏に対する支配を強化しようとした。
 そのような鹿島氏の動きに対して烟田忠幹は、江戸氏に通じてみずからの領主としての地位を保全しようとした。その一方で忠幹は、鉾田城主の鹿島義清を招いて鹿島氏との関係も維持しようとしたが、鹿島氏と烟田氏の関係は不安定な状態となった。とはいえ、烟田氏はまったく鹿島氏から離れてしまったというわけでもなく、鹿島氏との関係を保ちつつ自己の所領を保つため自立した動きをとった。
 このような鹿島氏と烟田氏の関係は、戦国時代の東国豪族間にみられる権力編成である「洞」であったと思われる。「洞」とは、惣領制や一揆の伝統を受けたもので、地域的に結びつき、同じ家に属するという意識で結ばれた集団をいった。そして、佐竹氏や結城氏など伝統的豪族としての出自をもつ東国大名は、いずれも「洞」という権力編成を有していた。それは、国人領主にもみられ、上位の洞が下位の洞を包含するという重層的なものであった。『鹿島治乱記』には、「鹿島五郎左衛門景幹、法名仁山、永正九年壬申十月、総州米野井合戦討死、洞勢百余人打死也」とあり、鹿島氏も「洞」とよばれる権力編成原理をもっていたことは疑いない。
 「洞」構造は、宿老・近臣をはじめとした譜代家臣、親類中・一家、外様家臣、浪人によって編成されたが、それ以外に「洞中」と呼ばれる国人領主達が存在していた。そして、大名当主と国人領主たちとの関係は緩やかなもので、大名当主にすればいかに多くの勢力をみずからの「洞中」に取り込むことができるかが、戦国大名へ飛躍するための政治的課題であった。
 烟田氏は鹿島氏の「洞中」の一員であり、鹿島氏が鉾田に支城を築いたのは鹿島「洞中」の北端部の守りを強化し、烟田氏をみずからの「洞中」につなぎとめるためのものでもあった。とはいえ、烟田氏は烟田の領主として生き抜くために、ある程度自立した動きを取っていた。そのような動きが許されるのも「洞中」の一特徴であった。



・鹿島城祉(本丸遠望/本丸東側の堀跡)


繰り返される内訌

 治時が死去して、子供たちの代になると鹿島氏は三回もの内紛を引き起こし、その勢力をいよいよ衰退させていくことになる。
 永禄十二年(1569)三月、下総千葉氏の支援を受ける治時の二男氏幹と、江戸氏と結び付く三男の義清との対立が起こった。まず氏幹が千葉氏の支援で軍事行動を起こして攻勢に立ったが、義清方も負けてはおらず、この第一の内紛は同年十月に氏幹が家中の島前某に暗殺されることで決着がついた。
 ついで、天正七年(1579)正月、津賀氏が鹿島宮中で暗殺の企みがあるという噂を聞き、江戸氏を頼って遁走したことから第二の内紛が始まる。そしてこの内紛は鹿島義清暗殺へと進み、事態は反江戸氏親千葉氏の立場をとる義清弟の鹿島貞信・清秀兄弟側に有利に展開した。これに対して江戸氏方は、江戸重通みずからが出陣して鹿島城を攻め、鹿島城を奪い取っていた貞信・清秀兄弟を下総矢作に追い払った。かくして天正十年三月、鹿島通晴が江戸氏の支援を受けて、惣大行事職となり鹿島家当主となった。
 このように鹿島氏は内部の内紛に加えて、外部から江戸氏、さらに佐竹氏の圧力を受けるようになっていった。天正十二年の佐竹義重と北条氏直の下野沼尻の対陣に際して、鹿島氏は佐竹方として「二手、鉄砲百挺」の軍勢を率いて参陣している。このことは、小田原北条氏に対する常陸領主層の反後北条戦線への参加であり、佐竹氏への臣従を意味するものではなかった。鹿島氏は、内紛が続いたとはいえ自立した勢力を維持していたのである。
 天正十四年二月、後北条氏他国衆で矢作城主国分氏の支援を受けた貞信・清秀兄弟の反撃があり、第三の内紛が起こった。貞信・清秀兄弟は鹿島通晴を倒して鹿島に入り、同年十一月鹿島貞信が鹿島家当主となった。これをみて、江戸氏は烟田を攻め、額賀上野・石崎近江を調略し、二人をして鉾田城将であった田山市正を襲撃、殺害させ鉾田城を奪った。対して、鹿島貞信は鉾田城を攻めた。
 結局、この内紛も、千葉氏一族国分氏と江戸氏勢力のぶつかり合いが背景にあり、額賀上野が退散し石崎近江が鹿島方に寝返ったことで決着がついた。しかし、これらの内紛によって、鹿島氏は領国支配を確立することが出来ず、自ら戦国大名化への道を閉ざす結果となったのである。

鹿島氏の終焉

 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、佐竹義宣は常陸・下総・下野の諸将を連れて小田原に参陣した。七月、小田原北条氏が没落すると、つづく秀吉の「奥州仕置」に対して兵糧米の調達につとめ、秀吉から本領の安堵を受けた。
 義宣は秀吉から公認された常陸支配を実質化するため、小田原参陣を怠って秀吉から所領安堵を受けなかった江戸重通を攻撃し結城に追い落とした。ついで、江戸氏同様に小田原に参陣しなかった大掾氏を攻め滅ぼした。そして、平姓大掾氏一族が割拠する常南地方の制圧に乗り出したのである。
 鹿島・行方の大掾氏一族は「南方三十三館」と称されて、南北朝の争乱期より佐竹氏と行動をともにしてきた、いわば協力者たちであった。そして、常陸において佐竹氏の威勢があがるにつれて、佐竹氏に従属する傾向にあった。しかし、かれらが居住する常南は佐竹氏領の中心から遠く離れた地であり自立性も強かったため、佐竹氏としてはこれを除かないと常陸統一は成らないと考えたようだ。そして天正十九年二月、佐竹義宣は鹿島城主清秀をはじめとして、烟田・玉造・行方・手賀・島崎らの各氏を太田鶴来城の梅見に誘い、一気に謀殺してしまった。
 この報せを受けた鹿島城では、清秀の妻と三家老たちが、佐竹氏を迎撃するため合戦の準備を行った。佐竹氏は町田備中守を大将として常南討伐軍を発し、備中守は鉾田から逐次小城を攻め落としながら、鹿島城に殺到してきた。緒戦は地の理に明るく騎射にも優れた鹿島方が優勢であったが、佐竹軍は大砲を打ちかけたため、ついに鹿島城は落城し、平安後期より常南に勢力を振るった鹿島氏嫡流は滅亡した。
 鹿島城が落城したとき、清秀の一子伊勢寿丸は下総へ落ち延び大倉に住していた。その後、関ヶ原の合戦において石田三成に与した佐竹氏は、秋田に国替えとなり常陸から去っていった。ここに至って、鹿島氏の旧臣たちは徳川家康に鹿島家の再興を嘆願した。家康も伊勢寿丸に再興を許して旧の惣大行事職を継がせ、二百石を給し、旧城内に住まわせた。以後、鹿島氏は武家としてではなく、鹿島神宮の社人中で三要職の一として明治維新に至った。・2004年11月25日

●写真は、 常陸国の城と歴史 鹿島城さんのHPから転載させていただきました。

【参考資料:茨城県史/鹿島市史/石岡市史 ほか】

●大掾氏の家紋─考察

■参考略系図
 
  


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