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神戸氏
揚羽蝶
(桓武平氏関氏流)


 伊勢国河曲郡神戸郷を発祥地とする神戸氏は、桓武平氏といわれ、関氏の一族である。すなわち関左馬亮実治の長子盛澄が神戸郷に住んで、はじめて神戸氏を称したという。盛澄の子実重は応永三十年(1423)、国司北畠満雅の命により神戸龍光寺の普請奉行となったことが知られる。ちなみに、同寺は神戸家代々の菩提寺となった。

勢力の拡大に努める

 実重の子為盛は北畠氏の女を室に迎えたが、男子が生まれなかったため、北畠材親の子を養子に迎え家督を譲った。これが、下総守具盛で家を継いだはじめは神戸一族との間に確執があったがよく家中を治め、北勢方面の各家と婚姻を結び神戸氏の勢力拡大に努めた。この具盛の代に沢城から神戸に居城を移したと伝えられている。
 具盛のあとを継いだ長盛は、北伊勢の有力者赤堀氏等と結んで北勢から近江東部に進出し、ついには、関氏との間に不和を生じ関盛雄と戦っている。長盛の代になると、宗家である関氏と並ぶ勢力に成長し、自立の道を歩み出したことがうかがわれる。
 天文二十一年(1552)、長盛が死去したことで家督を継承した利盛は、若年より武名が高かった。弘治三年(1557)、神戸氏と同盟関係にある柿城主の佐脇氏が近江の佐々木六角承禎(義賢)の軍に囲まれた。利盛は佐脇氏を支援するため、一千余騎を率いて出陣した。ところが、利盛出陣の留守を守る神戸氏六奉行の一人である岸岡城主佐藤中務丞父子が近江勢に通じて謀反を起し、神戸城は略奪されてしまったのである。急を聞いて利盛はただちに兵を返したが、神戸城の奪還はならなかった。
 万事窮したところへ、岸岡城を守る佐藤氏の家臣古市与助が利盛を岸岡城に招きいれたことで、とりあえず利盛は一息つくことができた。利盛は神戸城奪還の策を練り、母方の長野氏の援軍を得て神戸城を包囲攻撃して近江勢を撃退、城を逃れて十宮村に潜んだ佐藤父子も誅殺し、事件を落着させた。しかし、利盛は永録二年五月、わずか二十三歳の若さで世を去った。
 利盛が早世したため、土師福善寺住職にあった弟の友盛(具盛)が還俗して神戸氏を継いだ。ほどなく浜田城が長野勢に囲まれる「浜田合戦」が起り、友盛は赤堀氏に味方して軍を派遣し、安濃浦より押し寄せた長野勢五千余人を迎え撃った。ついで、友盛の与力である茂福城主朝倉盈豊が羽津城主田原国虎に攻められると、友盛は軍勢二千騎を率いて応援に駆け付けている。

神戸氏の終焉

 神戸氏に大変動があったのは、この友盛のときである。織田信長が北伊勢に兵を進めたことが直接の引き金であった。
 永録十年(1567)八月、信長軍は楠城主を先導として神戸氏の出城高岡城に攻め寄せてきた。城将山路弾正はよく防ぎ、一方の信長も美濃の不穏ため兵を引き上げていった。翌年二月、信長は四万の軍勢を率いて再び伊勢に進攻してきた。信長軍の破竹の進撃ぶりをみた友盛は抗しかねると判断し、信長の子三七丸(信孝)を養子に迎えることを条件に講和という形で降服に踏み切った。信孝を養子に迎えた具盛は隠居する形をとって、神戸という家名の存続をはかったのである。
 翌永録十一年、信長に抵抗を続けていた長野氏が信長の弟信包を養子として和睦、関友盛の姉がその夫人となった。この年信長は足利義昭を迎え、観音寺城の六角承禎を攻撃し。承禎は観音寺城を捨てて戦わずに甲賀山中に逃れた。このとき、六角氏の重臣蒲生賢秀が信長に抵抗姿勢を示したが、賢秀の義弟にあたる友盛は蒲生家の滅ぶことを惜しみ講和に奔走した。
 元亀二年(1571)具盛は信長のために近江日野城に幽閉されてしまい、事実上の隠居となった。その後、天正十年(1582)に信孝から神戸城の留守を命じられているが、のちに安濃津で死んだことで神戸氏は絶家となった。


■参考略系図


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