ヘッダイメージ



鎌原氏
六文銭
(滋野氏流海野氏族)


 鎌原氏は滋野氏族で、真田氏と同族である。『吾妻城塁史』の記述によれば、清和天皇の子貞元親王の玄孫海野幸房が上州三原庄下屋に住して下屋氏の祖となった。その孫五学坊の弟に幸兼があり、鎌原に居を構えて鎌原氏の祖となったとある。
 幸兼の子重友、ついで友成と続き、宮内少輔幸重のとき、山内上杉氏に属したという。しかし、年代的には幸政の頃に上杉氏に属したようだ。いずれにしろ、鎌原氏は滋野氏流海野氏の一族として、古くから三原庄の地頭を勤めていたことは疑いない。

鎌原氏の登場

 鎌原氏が拠った三原庄は吾妻郡の西部にある嬬恋村・長野原町・草津町・六合村一帯の地で、三原郷と鎌原郷の二郷より成り立っていた。この二郷は平安時代前期に、海野氏の一族下屋将監幸房の子孫が開拓した土地で、南北朝時代の貞治元年(1361)の下屋氏の譲状によれば、その一族は芦生田・鎌原・下屋・赤羽根・名々越・西窪・万座らに分かれて、それぞれが村の開拓にあたっていたことが知られる。
 鎌倉時代の『吾妻鑑』の仁治二年(1241)の記事によれば、海野幸氏と武田光蓮とが上野国三原庄と信濃国長倉保との境界について争論し、幸氏が勝訴したことが記されている。この記事からも海野氏が鎌倉時代から三原庄と関係が深かったことがうかがわれる。
 その後、鎌原氏は着実に勢力を拡げ、室町時代のはじめごろになると三原庄の地頭となって、吾妻郡西部における第一の豪族に成長した。戦国時代に推移する文明ころ(1469〜86)、山内上杉顕定が上野平井城に入って、関東管領となるに及んでその支配下に属した。十五世紀、関東は永享の乱(1438)、享徳の乱(1454)、長尾景春の乱(1476)と戦乱が続き、長享元年(1467)には、山内上杉顕定と扇谷上杉定正との間で長享の乱が展開された。文字通り、戦いの連続で鎌原氏も山内上杉氏に従って戦いの日々に身を置いたものと思われる。
 乱世は新興勢力の台頭を促し、小田原を本拠とした後北条氏が勢力を拡大、十六世紀になると武蔵方面に進出してきた。そして、天文十五年(1546)、河越合戦が起り、山内上杉憲政・扇谷朝定・古河公方晴氏の連合軍が北条氏康に大敗を喫した。ここに、後北条氏は関東の覇者に躍り出たのであった。

武田氏麾下に属す

 上杉憲政は平井城に逃れたが、天文二十年(1551)、後北条氏の圧迫によって越後の長尾景虎を頼って落ちていった、かくして、枢軸を失った上野の地は乱れるようになり、小豪族は大豪族に併呑されるようになった。当時、吾妻地方における大勢力は岩櫃城主の斎藤氏で、斎藤氏は近隣諸郷を押領し、ついには三原庄も併呑しようとして鎌原氏と争うようになり、ついに鎌原宮内少輔は不本意ながら斎藤氏に従うようになった。
 一方、信濃を征圧した甲斐の武田信玄が、上野に勢力を及ぼすようになると、鎌原氏は信玄に属して斎藤氏の圧迫から逃れようとした。永禄三年(1560)、幸重・重澄父子は、真田幸隆を介して信州平原において信玄に謁見し、その麾下となることを得た。
 以後、鎌原氏は武田氏を後楯として斎藤憲広と抗争したが、斎藤方には同族の羽尾氏が味方するなど、鎌原氏は次第に劣勢に追い込まれていった。永禄五年(1562)、斎藤・羽尾氏らの攻撃を受けた幸重は、鎌原を引き払って一門ことごとく信州佐久郡へ退去した。鎌原氏を受け入れた信玄は、小県郡浦野領内に領地を宛行って武田氏に尽した功に報いた。信州に領地を与えられたとはいえ幸重は、鎌原回復の策謀を練り、ほどなく武田氏・真田氏の支援を得て本領と鎌原城を回復している。
 その後、真田氏に属した幸重は岩櫃の斎藤憲広に対抗した。永禄六年、真田・斎藤両軍の間で戦いが開始されたが、岩櫃城は難攻不落でついに両軍和睦となった。その後、真田幸隆は岩櫃城に調略の手を伸ばし、大野兄弟・斎藤則実らの内応を得ると、ふたたび岩櫃城を攻撃した。ここにさしもの堅塁岩櫃城も落城、城主憲広は越後の上杉謙信を頼って落ちていった。
 かくして、吾妻郡に勢力を振るった斎藤・羽尾氏らは一掃され、吾妻郡は真田幸隆が守護として治めるところとなった。鎌原宮内少輔は岩櫃城代に任ぜられ、真田幸隆の与力として武田信玄の上野侵攻戦に活躍した。元亀三年(1572)、信玄は念願であった上洛の軍を起したが、翌年、持病を悪化させて帰らぬ人となった。信玄の死後、勝頼が武田の家督となったが、天正三年(1575)、三河国長篠で織田・徳川連合軍との戦いに大敗を喫した。
 この戦いに吾妻郡の武士たちは真田信綱に属して出陣したが、信綱、その弟昌輝とともにその多くが戦死した。そのなかに、鎌原宮内少輔の嫡男筑前守もいた。

鎌原氏のその後

 長篠の合戦後、武田氏は次第に凋落の色を深め、天正十年(1582)、織田軍の甲斐進攻の前に滅亡した。さらに、同年六月、本能寺の変が起り、織田信長が横死した。この時代の激変に際して鎌原氏は、真田昌幸に属し、その有力部将として活動している。
 信長没後、その部将であった羽柴(豊臣)秀吉が、天下統一を押し進め、天正十八年(1590)、秀吉は小田原北条氏征伐の軍を起した。この陣に真田昌幸も参陣し、鎌原宮内少輔重春も加わり松井田城攻めに活躍した。七月、後北条氏は小田原城を開いて壊滅した。北条氏が没落したのちの関東には徳川家康が入部し、沼田には真田信幸が二万五千石をもって封ぜられた。鎌原氏は信玄以来の格別の家柄として、真田氏家中でも破格の待遇を受けた。
 重春の息子である重宗は大坂の陣に参戦し、重宗の息子重継は沼田真田氏で筆頭家老を務めた。ところが、天和元年(1681)に沼田真田氏が断絶したことで、鎌原氏は松代真田氏に出仕、子孫は松代藩士として続いた。・2007年05月29日

参考資料:吾妻郡城塁史 ほか】

●海野一族の家紋─考察


■参考略系図
 


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
そのすべての家紋画像をご覧ください!

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
名字と家紋にリンク

www.harimaya.com