|
香川氏
●巴九曜
●桓武平氏良茂流
『見聞諸家紋』に「右京大夫勝元被官 香河五郎次郎和景」の紋として収録されている。香川氏と並んで「越後長尾 」と記され、香川氏と長尾氏が同じ紋であったことが知られる。
|
|
香川氏は室町幕府管領細川京兆家に仕え、細川氏の守護領国である讃岐の守護代をつとめた。細川氏被官としての香川氏が最初に確認されるのは、明徳三年(1392)八月の相国寺慶讃供養に際して、香河五郎頼景が頼元に随った「郎党二十三騎」の一人として『相国寺供養記』に記されているものである。
ちなみに讃岐の守護代は二分されていて、東部を安富氏、香川氏は西部の守護代をつとめた。香川氏は多度津城(のちに天霧山城)を居城に勢力を拡大し、応仁の乱当時、香川肥前守元明は東軍の総帥細川勝元の股肱として、安富盛長・香西元資・奈良元安と並んで細川京兆家の四天王と称された。
香川氏の讃岐入部
香川氏は桓武平氏といい、後三年の役に活躍した鎌倉権五郎景政の後裔が相模国高座郡香川邑を領し香川氏を称したことに始まる。権五郎景政の子孫は鎌倉に住して、鎌倉党を称して大庭・梶原・長尾・香川氏らが分かれ出た。香川三郎経景は承久の乱に際して幕府方として活躍、その功によって安芸・讃岐などに所領を賜り、景光の系が安芸に、景光の弟景則の系が讃岐に移住して子孫が広まったという。
しかし、『全讃史』によれば、讃岐の香川氏は鎌倉権五郎景政の末孫香川兵部少輔景房が、細川頼之に従って讃岐に下り、貞治元年(1362)、白峰合戦に活躍して多度津に封を受けた。そして、多度津に城を築いて讃岐に土着したことに始まるという。また『西讃府志』には、鎌倉権五郎景政の後裔香川刑部少輔景則が、細川氏に従い西讃に下り封をえ、応永のころ託間氏が絶えたのちにその名跡を継ぎ、多度・三野・豊田の三郡を賜り、城を多度津に築いて本拠にしたと記されている。託間氏は、南北朝時代のはじめ細川定禅の挙兵に参加し、その後、細川頼春に従って伊予の南朝軍と戦ったことが知られる讃州武士だが、その詳しい事歴は不明である。
南北朝の争乱期に讃岐守護となった細川氏は、讃岐を支配するにあたって直臣である香川氏・安富氏らを起用した。讃岐に入部した香川氏は、細川氏を後ろ楯に頭角をあらわして応永七年(1400)ごろに西讃の守護代となった。そのとき、西讃の旧族であった託間氏の名跡を継いだものであろう。
細川京兆家の四天王と称される香川・安富・奈良氏はいずれも讃岐の武士ではなく、細川氏の直臣として讃岐に入部して、次第に勢力を蓄えていった武士団であった。ちなみに、『西讃府志』に安富氏は、応安のころ(1368〜74)讃岐に入部したとあり、香川氏も安富氏と同時期に讃岐に配されたものとみられる。
難解を極める香川氏の系譜
香川氏の系譜については、さまざまな説がなされており、前述の『全讃史』『西讃府志』が掲載する系図も異同が多い。史料などに見える香川氏は、帯刀左衛門尉、民部大輔、兵部大輔、備中守、彦五郎、五郎次郎などがあり、それぞれの関係は必ずしも明確にはできない。
讃岐氏の嫡流は代々五郎次郎を仮名としていたようで、室町時代の中期に成立した『見聞諸家紋』にも「右京大夫勝元被官香川五郎次郎和景」とあり、和景は細川四天王の一人肥前守元明と同一人物とするものもある。和景のあと五郎次郎満景、五郎次郎某などが史料にあらわれ、いずれも香川氏の嫡流の人物とみられる。満景は細川政元の養子をめぐる内訌で、細川澄之を擁する香西元長らが政元を暗殺したとき、元長に味方して細川澄元と戦って討死した。五郎次郎某は満景のあとを継いだと思われる元景であろうとみられている。
他方、香川信濃守、香川肥前守元明、兵部少輔元光、刑部大夫景則らの香川氏の人物が史料に散見する。これらの香川氏は庶流と思われ、それぞれの系譜関係および事蹟は判然としない。
讃岐守護細川氏は幕府管領として在京が常態であり、細川氏の被官である香川氏、安富氏、香西氏らも在京することが多かった。たとえば、香西氏は在京の上香西氏と下香西氏に分かれていた。香川氏の場合、嫡流は讃岐に居住することが多く、一族が京都にあって細川氏の政務などを手伝っていた。このことから、讃岐と在京の香川氏が混在されて、香川氏の系譜を分かりにくいものにしたのであろう。
ところで、さきの『見聞諸家紋』に見える香川和景の家紋は「巴九曜」と記されている。「巴九曜」は越後の戦国大名長尾氏の家紋と同じもので、香川氏と長尾氏とはともに権五郎景政の後裔で近い一族であった。そのことを、家紋は明確に伝えているといえよう。
深まる乱世
香川氏は一貫して細川氏のもとにあって西讃の守護代を世襲し、讃岐十三郡のうち六郡を支配下におき勢力を伸長した。さらに、一族を各地の代官に任じて、所領を拡大していった。
応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると、香川五郎次郎(和景か)は安富左京亮らとともに兵を率いて上洛、勝元に従って西軍と戦った。『南海通記』には、香川肥前守元明は香西元資、安富盛長らと兵卒五万を指揮して八方に戦ったとあり、安富民部は相国寺の戦いで奮戦、討死している。讃岐勢が東軍の領袖である細川勝元を支え、その中核戦力として活躍したことがうかがわれる。
応仁の乱ははじめ東軍が優勢であったが、西軍に加担する山口の大内政弘が大軍を率いて上洛してくると、戦況は東軍の劣勢へと傾いていった。勝元は西軍諸将の後方撹乱をはかり、戦況は次第に膠着状態となっていた。文明五年(1473)、西軍の中心人物山名宗全が死去し、ついで細川勝元も死去した。その後も抗争は続いたが、文明九年、大内政弘が帰国したことで西軍は壊滅し、さしもの大乱も終結した。しかし、応仁の乱の余波は全国に拡大し、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していった。
ところで、香川氏の嫡流五郎次郎は応仁の乱に上洛してのち、永正八年まで在京していた。その間、一族が又守護代として西讃岐の支配にあたっていた。細川勝元が死去したのち、あとを継いだ政元は畠山氏と対立し、明応二年(1493)にクーデターを起して将軍義稙を追放した。幕府の実権を掌握した政元は、やがて一種の魔法である飯綱の術に凝って女性を傍に寄せなかった。そのため実子がなく、澄之・高国・澄元の三人を養子にした。これが原因となって家臣団が分裂し、永正四年(1507)、政元は澄之を擁する香西元長らに暗殺されてしまった。このとき、香川満景は元長に加担して、その後の内乱で戦死したことは先述した。
以後、細川氏は血を血で洗う内訌のすえ、澄之が政元のあとを継いだ。しかし、細川高国・同政賢、三好之長らの支援を得た澄元が澄之を倒して細川京兆家の家督を継いだ。この内訌に乗じたのが周防の大内義興で、義興は庇護していた前将軍義稙を奉じて上洛、敗れた細川澄元は近江に逃れ、義稙は高国の支持を得て将軍に返り咲いた。上洛に際して義興は讃岐の諸将にはたらきかけて味方に誘い、三好氏と対抗する香川氏、安富氏、香西氏らは大内氏に属した。以後、讃岐は大内方と三好方に分かれて、小競り合いが繰り返されるようになった。
・天霧城祉、古写真。
独立した勢力に成長
京から讃岐に帰った香川氏(元景か)は、守護細川氏の勢力後退を好機として、戦国大名への道を歩み出した。表面上は細川氏に属して守護代職としての地位を保っていたが、その中身はすでに自立した領主へ変化しつつあった。
永正十五年(1518)、将軍義稙を奉じていた大内義興が帰国したことで、細川氏の乱が再燃した。香川元景は、はじめ澄元方に属し、のちに高国方に属して戦った。その後、澄元が死去し、あとを継いだ子の晴元が勢力を拡大し、大内義興も没すると、晴元の麾下に属するようになった。このように、香川氏は両細川氏の乱を巧みに泳いで、着々と勢力を拡大していったのである。
享禄四年(1531)、晴元は宿敵高国を敗死させ幕府の実権を握った。しかし、同じ晴元方であった河内守護畠山氏の被官木沢長政と三好元長の間に対立が生じた。これに三好氏の分裂が加わり、晴元は最大の支援者であった元長との間に亀裂を生じさせてしまうのである。そして、晴元は元長と対立する三好政長と結び元長を敗死させた。
元長の子長慶は、さきに晴元に討たれた高国の養子氏綱を擁し、晴元・政長らと対立し、天文二十年(1551)、晴元を破り近江に追い落とすと、義輝を将軍に迎えて幕府の実権を掌握した。この戦乱で晴元方についた香川之景は、讃岐国内で三好方の勢力が強まるなか、隣国の河野氏らの支援を得て三好氏に従わなかった。
この一連の戦乱のなかで三好長慶の弟義賢(実休)が、阿波守護細川持隆を謀殺して、阿波の支配者に成り上がっていた。香川氏が三好氏に対抗しているのを聞いた実休は、永禄元年、阿波・淡路の兵を率いて讃岐に攻め込んだ。対する之景は、香川氏一門、三野・財田・秋山氏らの兵をもって三好軍を迎かえ撃った。攻めあぐねた実休は、香西元政に和睦の交渉をたのみ、ついに之景は実休と和を結んだ。戦後、之景は国人衆の秋山氏に感状を与えており、すでに戦国大名とよべる存在に成長していたことが知られる。
長宗我部氏に従う
三好氏に属した之景は、畿内にも出兵し長慶の畿内平定戦に協力した。しかし、永禄五年(1562)三好義賢が和泉久米田の戦いで討死し、ついで永禄七年に長慶も病死すると、三好氏の勢力にも陰りが見えてきた。その一方で、尾張の織田信長が著しい台頭をみせ、永禄十一年(1568)、足利義昭を奉じて上洛、ここに時代は大きな変革のときを迎えた。
天正二年(1574)、香川之景は香西氏と結んで、三好長治と対立した。長治はただちに兵を出したが、大西氏、長尾氏らが香川氏に味方したため、ついになすところなく兵を撤退した。翌天正三年。香川氏に属していた金倉顕忠が、三好氏を後ろ楯として香川氏領を蚕食するようになった。香川之景は香西佳清に援助を頼み、顕忠を挟撃した。顕忠が恃んだ三好長治は動かず、ついに顕忠は之景らによって討ち取られてしまった。すでに三好氏は香川・香西連合軍に対抗する力を失っていたのである。
このころ織田信長は京都を支配下におき、天下人への道を邁進していた。天正四年、香川之景は信長に属することを願って許され、一字を賜り信景と改めた。翌天正五年(1577)、細川真之が長治討伐の兵を挙げ、長治は別宮浦で自刃して滅亡した。やがて、土佐の長宗我部元親が阿波に侵攻、さらに伊予・讃岐へも兵を進めた。三好氏のあとを継いでいた十河存保は、勝端城に拠って、讃岐の諸将に長宗我部氏への抗戦を呼びかけた。
元親は藤目城、財田城を攻め、存保は奈良氏、長尾氏らに防戦させたが、敗れてしまった。この間、信景は存保の呼びかけに応じず、翌七年、元親の降伏勧告に応じて長宗我部氏に降った。そして、男子のなかった信景は元親の二男親政(親和)を養子に迎え、香川氏の安泰をはかった。一族の民部少輔は長宗我部氏に対立し、毛利氏を頼って讃岐から退去している。
以後、信景は元親の四国統一戦に協力し、羽床氏を戦わずして降し、長宗我部軍に激しく抵抗した香西氏を和議をもって降伏させる功を立てている。天正十二年、元親は四国統一を果たしたが、翌年には豊臣秀吉の四国征伐を受けて敗れ、降伏、土佐一国を安堵されて豊臣大名に列した。香川信景・親和父子も天霧山を退去して土佐に退去した。ここに、讃岐の戦国大名として勇名を馳せた香川氏は讃岐から退去した。
讃岐香川氏の最期
天正十四年、豊臣秀吉は九州征伐の陣ぶれを行い、四国勢に豊後出兵を命じた。長宗我部元親、十河存保、香西・寒川・安富・三野・羽床、そして香川民部少輔らが出陣し、島津軍と戦って壊滅的敗北を喫した。長宗我部元親の嫡男信親をはじめ、十河存保、香川民部少輔、安富氏、羽床氏らはことごとく戦死をとげた。
もっとも将来を嘱望した信親を失った元親は往年の覇気を失い、二男の香川親和、三男の津野親忠をさしおいて末子の盛親を跡継ぎに決定した。これには、一族の吉良親実らが諌言を行ったが、元親はそれをいれなかったばかりか親実に自刃を命じた。失意の親和は食を絶って、ついに二十三歳の若さで死去してしまった。ここに、香川氏は名実ともに滅亡した。跡継ぎを失った信景は土佐で余生を寂しく送ったすえに死去したが、その没年も墓所も伝わっていない。・2005年5月11日
【参考資料:多度津町史/香川県史/善通寺市史 ほか】
お奨めサイト…●安芸香川氏の情報へ
■参考略系図
・香川氏の系譜に関して、●古樹紀之房間の樹童さまが●讃岐の香川氏の系譜において、詳細な考証をなされています。必見です!
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|