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岩松氏
●大中黒/五三桐
●清和源氏新田氏流
『岩松一族の系譜』によれば、岩松氏の家紋は「五三の桐」「十六 葉裏菊」とあり、五三の桐は朝廷から下賜されたものという。そして、「大中黒」の紋は旗指物に用いたと伝える。
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岩松氏は、新田義重の孫女と足利義康の孫義純との間に生まれた時兼が上野国新田荘岩松郷を本拠として岩松氏を名乗ったことに始まる。父系を清和源氏足利氏、母系を清和源氏新田氏に持つ岩松氏は、『尊卑分脈』によれば、清和源氏足利氏の一族とされるが、通常新田岩松氏と称される。
時兼には頼兼、氏兼、長義、経氏、経兼、朝兼、経国の七人の男子があり、それぞれ所領地を分割相続させ田中、村田、寺井、金井、田部井、薮塚、田島などの庶子家が分出した。そして、岩松氏を惣領とする岩松一族が誕生、新田庄内に勢力を扶植していったのである。しかし、岩松氏は岩松郷を本領とする土豪に過ぎず、鎌倉御家人として幕府に出仕するということはなかった。
岩松氏の台頭
寛元二年(1244)、新田一族の本宗で惣領の新田政義が、京都大番役での上京中に幕府に無断出家した罪で所領の一部と惣領権を没収された。そして、新田氏の惣領職は世良田義季・頼氏父子と岩松時兼に分けられ、両者が「半分惣領」として新田氏を率いることとなった。政義の軽挙妄動により、新田宗家の没落は決定的となり、一地方御家人に零落したのであった。
かくして、岩松氏は世良田氏とともに新田氏を代表する存在となった。やがて、文永九年(1272)に起った二月騒動で世良田頼氏が失脚したことで、岩松氏は鎌倉に出仕するようになり幕府の御家人役を務めるようになったのである。余談ながら、徳川氏は世良田頼氏の子孫を称している。
鎌倉時代末期、新田一族で宗家に近い大館氏の大館宗氏と用水争いを起こした岩松政経は、惣領の新田義貞の裁定に従わなかった。このことは、岩松氏が新田宗家に服従していなかったことを示している。政経の子が岩松経家で、元弘三年(1333)、新田義貞の鎌倉幕府打倒のための挙兵に参加して鎌倉攻略に功をあげた。
建武の新政が始まると、岩松経家は飛騨守に任ぜられ、北条氏の遺領伊勢笠間荘 以下十箇処の地頭職を賜った。その後、足利直義とともに関東経営に当たった。建武三年(1335)、中先代の乱が起ると岩松経家は渋川義季らと入間郡女影原で北条時行軍を迎撃したが敗れて戦死した。経家の戦死後、岩松一族は宮方と武家方とに内部分裂を起こし、岩松諸氏の多くは足利方に属して各地に戦った。
尊氏と弟の直義が争った「観応の擾乱」に際しては、頼宥が中国地方で尊氏方の侍大将として活躍し、伊予・備後両国の守護を歴任した。頼宥は先に戦死した経家の兄岩松禅師と目され、のちに直国を名乗ったとされている。そして、この直国が分裂した岩松一族を統一し、新田氏の没落とともに新田庄の支配権を掌握していったのである。
岩松氏の分裂
直国のあとは満国(経家の子泰家の子ともいう)が継ぎ、満国の妹は新田義宗の室となり容辻丸を生んだ。満国は容辻丸を寵愛し、実子の満氏が早世すると容辻丸を養子として家督を譲った。成長した容辻丸は岩松満純と名乗り、鎌倉府に出仕して治郎大輔に任じた。
応永二十三年(1416)、前管領上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に謀叛を起した。世に「禅秀の乱」と呼ばれる争乱で、禅秀の女を室に迎えていた満純は、甲斐の武田信満らとともに禅秀に加担した。乱は緒戦こそ禅秀方が優勢であったが、やがて幕府が持氏を支援して兵を出すと禅秀方の敗北となった。鎌倉から上野に奔った満純は残党を集めて再挙を計ったが敗れ、鎌倉竜ノ口において斬罪に処された。
満純のあとは直国の孫持国が継ぎ、満純の嫡子土用丸は世良田の長楽寺で剃髪し源慶と称し甲斐の武田方に走った。さらに、源慶は濃守護土岐持益のもとに隠れ、のち将軍足利義教に召されて上洛した。
禅秀の乱後、持氏は禅秀に加担した諸将を討伐、それは、京都御扶持衆と呼ばれる諸将にもおよんだ。この持氏の行動は幕府にとって看過できるものではなく、両者の対立は一触即発の状態となった。事態は管領上杉氏らの奔走によって、ひとまず和睦ということになった。しかし、持氏と幕府の関係はともすればぎくしゃくとしたものであった。そのような正長元年(1428)、将軍足利義持が死去した。義持の嫡男で五代将軍であった義量もすでに死去しており、義持の猶子であった持氏は将軍職を望んだ。ところが、くじ引きによって義持の弟で青蓮院門跡であった義教が将軍に選ばれた。これに失望した持氏は、以後、ことあるごとに義教と対立した。
そして、永享十年(1438)、義教と決定的対立となり、敗れた持氏は滅亡した。いわゆる永享の乱であり、義教のもとにあった源慶は還俗を許され、新田治郎大輔岩松太郎家純と名乗り、京勢として関東へ下向した。間もなく、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁した結城氏朝が挙兵すると、家純は幕府方の大将として活躍、岩松氏の家督となった。ここに、岩松氏は持国の「京兆家」と家純の「礼部家」*とに分裂したのである。
*京兆家と礼部家
礼部家とは官職治部大輔の唐名で、京兆家は官職右京大夫の唐名である。いわゆる水戸黄門の黄門が中納言の唐名と同様の呼称である。ちなみに、幕府管領細川氏も細川京兆家と呼ばれたが、代々が右京大夫を官途としたことにちなんだものである。
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関東大乱を生きる
永享の乱、結城合戦の結果、関東の政治は管領上杉氏が執りしきった。しかし、関東の諸将は上杉氏の勢力が拡大することを喜ばず、鎌倉公方を頂く鎌倉府の再興を幕府に願った。おりから、京では嘉吉の乱が起り、将軍義教が播磨守護赤松満祐に謀殺されるという一大事件が起った。幕府は関東の安泰を図るため、宝徳元年(1449)足利持氏の遺子永寿王丸を許して関東に下し、永寿王丸改め成氏を鎌倉公方とする鎌倉府が復活した。
新公方となった成氏は父や兄に味方して没落した結城氏、里見氏らを取り立てたため、それに反対する関東管領上杉憲忠と対立した。そして、享徳三年(1454)、成氏が憲忠を謀殺したことで、享徳の大乱が勃発した。幕府は管領上杉氏を支援して関東に兵を発したため、鎌倉を失った成氏は下総国古河へ逃れた。以後、成氏は古河公方と呼ばれることになる。一方、幕府は新たな鎌倉公方として、将軍義政の弟足利政知が関東に下したが、成氏の勢力が強く政知は伊豆の掘越に居を構え堀越公方と称された。
この関東を二分する争乱に際して、幕府寄りの岩松家純は上杉=堀越公方方に味方し、一方の持国は古河公方成氏に属した。やがて長禄二年(1458)、岩松家純の斡旋により岩松持国は上杉方に転じたが、寛正二年(1461)、ふたたび成氏方に帰属した。その後、岩松持国・成兼父子は岩松家純の謀略によって殺害され、家純によって岩松氏の統一がなった。
享徳の乱いおいて、岩松家純は上杉方として重きをなしたが、それを支えたのは横瀬氏であった。享徳三年(1455)、家純の代官として出陣した横瀬貞国(良順)は、武蔵国須賀合戦で成氏方と戦って討死した。貞国の子国繁も家純を支えて活躍したが、成氏側にあった岩松持国を説いて管領上杉側につかせたのは国繁の尽力によるものであった。
岩松氏を統一した家純は、文明元年(1469)、五十余年ぶりに本領の新田庄へ入部し、国繁をして同庄内の金山に城を築かせた。同四年、国繁は下野国足利庄の鑁阿寺に禁制を掲げた。そして、同八年、山内上杉顕定の執事長尾景信の死後、山内家家宰職をめぐって景信の子景春が顕定に叛した。その頃、武蔵国五十子陣に上杉勢とともに出陣していた岩松家純は、景春の攻撃を受けて金山城へ帰陣した。
下剋上に翻弄される
文明九年、管領上杉顕定は家純の子明純に下野国足利庄などを与えた。この地は家純が領有していたらしく、顕定に不信感を抱いた家純は明純を勘当すると古河公方成氏の陣に加わった。家純は一族被官を集めて、神水三ケ条を誓約させ、明純の勘当と壁書の執行者として国繁を指名した。これによって国繁の岩松家執事としての地位が確立した。
一方、勘当された明純は「西国行脚」に出ることになったが、山内顕定を頼って居城鉢形城に寄寓した。その後、京に上ったようで、文明十二、三年頃(1480〜81)、幕府の相伴衆に見えている。
やがて、明純の子尚純を金山城へ還住させる運動が横瀬国繁・成繁(景繁・業繁)父子によって進められた。これは、岩松家純が老齢でありながら、後継者たる明純は勘当の身であり、横瀬氏は家純の後継として尚純を家督に据えようと考えたのであった。そして、横瀬国繁の奔走で古河公方に対して尚純を家純の名代とすることが受け入れられ、尚純が岩松氏の家督を継承した。
家純が明応三年(1494)に死去すると、横瀬父子は明純と尚純父子の和解を実現するため、山内顕定の総社の陣で両者の対面を実現させた。しかし、明純は上杉氏のもとに去り、尚純を戴く横瀬氏による支配体制が成立した。ほどなく、横瀬体制に反発する明純・尚純父子を担ぐ一派と横瀬氏を盟主とする一派との抗争が起った。結果は横瀬方の勝利となり、尚純は佐野庄に蟄居し、尚純の子夜叉丸(のちの昌純)が家督に立てられた。しかし、すでに岩松氏の実権は横瀬氏が掌握しており、横瀬氏が事実上の新田荘の支配者に成り上がったのである。
永正年間(1504〜21)、古河公方政氏・高基父子の間に不和が生じ、横瀬景繁は高基に従い、上杉憲房の代官長尾景長から所領を与えられている。大永三年(1523)十二月、武蔵国埼西郡内の須賀合戦で、景繁は討死した。その後、横瀬氏の専横を憤った岩松昌純は、陰謀を企てて、横瀬泰繁に攻められて自害した。昌純の家督を継いだ氏純も、ますます横瀬氏の圧迫を強く受け、ついには自殺してしまった。
交代寄合格として近世へ
こうして、岩松氏は家臣横瀬氏の下剋上によって没落してしまった。一方、金山城主として覇権を確立した横瀬成繁(泰繁)は、天文五年(1536)御家中と百姓仕置の法度を定め、戦国大名としての道を歩みだすことになる。その後、岩松氏の活動は見られなくなるが、後裔の守純が徳川家康に召し出され、徳川旗本家として生き残ることになった。
家康は岩松氏に交代寄合の格式を与えたが、新田姓を名乗ることは許さず、その禄高も交代寄合としては最低レベルの二十石というもので、文字通り冷遇というべき扱いであった。これは、新田一族の世良田得川氏の子孫を自称する徳川氏にとって、新田氏の本宗を称する岩松氏の存在は目障りなだけであった結果と思われる。・2006年09月15日
【参考資料:太田市史/群馬県史/室町幕府守護職事典/古河公方足利氏の研究 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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