ヘッダイメージ



伊勢氏
対い蝶
(桓武平氏維衝流)


 桓武平氏、維衝の後裔といわれる。室町幕府に仕えて一族繁栄したが、鎌倉時代以前の事歴は詳らかではない。元徳二年(1330)の文書に、足利氏が守護であった上総国の守護代として伊勢九郎の名が見える。一方家伝では、貞継は足利尊氏の父貞氏の烏帽子子であったため、尊氏の養育にあたったとされていることから、足利氏の近臣であったものと推定される。

室町将軍側近として勢力拡大

 康暦元年(1379)斯波義将が管領となると、貞継は政所執事に任じられた。以来、足利義政元服のときに二階堂忠行が一時執事となった他は、伊勢氏が代々政所執事を努めた。
 貞継は足利譜代の臣として、尊氏・義詮・義満三代に仕えた。ことに義満が貞継邸の産所で誕生したことから義満の信任を得、康暦元年の政変を機に政所執事に登用され、以後の政所執事職伊勢氏世襲の基盤を固めた。
 享徳三年(1454)に家督を継いだ貞親は、将軍義政を撫育したことから、義政の絶大な信任を得、専恣を極め。政所政治といわれるほどの権勢を高めた。また将軍後嗣問題にも関与し、継嗣子なき義政が弟義視を将軍職後継者と擬すると、貞親は虚言をかまえて義視殺害を企てた。暗殺に失敗した貞親は伊勢に隠れたが、義政の寵は依然として衰えず、かれを召還してふたたび政務をとらせた。ために義政・義視兄弟の不和対立を一層深刻なものにしたという。老齢により官を辞してからは、室町幕府の将来を慮ばかり、その子貞宗の教訓のために、政治の心得、将軍家への心づかいなどを書き遺した晩年の著述は「伊勢貞親教訓」として知られている。
 貞親の後を継いだ貞宗は、義政の子義尚の養育にあたり、義尚が将軍となるとその補佐役として地位を高めた。義尚が父義政との不和から遁世しようとしたとき、これを諌止したり、父貞親の専横を諌めて幽居を命ぜられたことすらあった堅実派の人であった。当時の人は、式目を正し、応仁・文明の大乱を収め、京都の回復をもたらした政治家として賛辞を惜しまなかったという。

伊勢礼法を確立

 人材とぼしき当時の幕府にあって、本来の職掌である政所執事職のほか、訴訟をはじめ種々の問題に関与した。異例の山城国守護職兼帯もこれを裏付けるものだろう。また諸芸にたくみで、小笠原持長に射芸を学び、三条西実隆らと親交して詩文に長じ、和歌・連歌をよくしている。さらに将軍側近としての立場から、武家殿中の諸礼式、儀杖・兵杖の故実にも精通し、みずから鞍も作った。『伊勢兵庫頭貞宗記』『貞宗聞書』などの著述のほか、多くの故実書を書写相伝し、伊勢流故実の大成者でもあった。
 貞宗の子貞陸は、延徳二年父のあとを受けて将軍義稙に仕え、明応七年その職を辞するまで政所執事にあった。その間山城国一揆後の混乱収拾の大任をおびて、山城国の守護にも任じられている。また、将軍側近としての振る舞いの必要に迫られた大内義興の諮問に応じていることも見逃せない。
 戦国大名後北条氏の祖である伊勢宗端の系譜について、母は伊勢貞国の女あるいは伊勢貞国の次男、伊勢貞藤の次男などの説が伝えられているが、いずれも確証はない。江戸幕臣で故実家として知られた伊勢氏は後裔と伝えられる。

●後北条氏の家紋─考察


■参考略系図
関東地方最大の戦国大名となった北条氏の出自は、これまで諸説がなされていた。しかし、最近の研究により伊勢氏から分かれ出たとする説が、ほぼ定着した感がある。しかし、「その原点は?」となるとまだまだ異説があるようだ。




バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋


戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏


人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com