後北条氏
三つ鱗
(伊勢平氏流) |
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戦国時代を開いたといわれる伊勢新九郎長氏(北条早雲)を初代とする小田原北条氏は、鎌倉幕府の執権北条氏と区別して
「後北条氏」と称されることが多い。
古来、北条早雲といえば美濃の斎藤道三と並び称される下剋上大名の典型例とされ、その出自や経歴は伝説的な色合い
に彩られたものであった。早雲自身は自分の
出自については何も語っていない。ただ、永正三年(1506)の彼の書簡のなかで、「伊勢に在国して、関と称した云々」
とか、「伊勢平氏の関氏とも同族だった…」などと先祖についてふれているばかりだ。
早雲伝説のひとつとして、京都にいたころの長氏には素浪人の仲間がいた。荒木兵庫・田目権兵衛・山中才四郎・
荒川又次郎・大導寺太郎・有竹兵衛らである。一日、長氏はかれらを集めて結盟した。七人が相互に協力しあい、
うち一人が一国一城の主になったら、他の六人はその家老になると約束しあったのである。やがて長氏が出世すると、
約束通り、他の六人は長氏の家臣になったというものである。実話とは思われないが、
後北条氏のほぼ確実な史料である『小田原衆所領役帳』には、かれらの名が重臣として記されており興味深いものがある。
近年のすぐれた諸考察・研究により、早雲は室町幕府の政所執事を世襲した伊勢氏の一族で、
備中伊勢氏の出身であろうというのが定説となりつつある。そして、幕府重臣伊勢氏の一員として幕府申次衆をつとめ、
足利義澄の側近くに仕えていたことが明かにされている。早雲の前身(幕府官僚)を感じさせる傍証として、
『北野社家日記』などに申次衆として早雲と思われる人物の名がみえ、
伊豆出身とされていた重臣の笠原氏は備中時代から伊勢氏に属していたという研究成果も発表されている。さらに、早雲のはやい時期に家臣となった遠山氏は、室町幕府内で早雲と知り合ったようでもある。家財奉行などをつとめた大草氏なども幕府の同僚であったものが早雲に属したと思われる。
のちには奉公衆の大和氏なども北条氏幕下に加わっているのである。少なくとも早雲は、「どこの馬の骨とも判らない」
という素性の怪しい人物ではなかったことは間違いないようだ。
前置きが冗長になったが、早雲を祖とする後北条氏は「三つ鱗」を家紋としていた。そもそも三つ鱗は鎌倉幕府執権を
務めた北条氏の家紋であり、その由来については以下のような話がある。
むかし、北条時政が江の島弁財天の祠に二十一日間参籠して、子孫の繁栄を祈っていると、その満願の夜の明け方に、
緋の袴をはいた気高い女房が現われて、「汝は前世に六十六部の法華経を書写し、六十六ケ国に奉納した。その功徳に
よって汝の子孫は日本を支配し、栄華を誇ることになろう。しかし、もし非道なことがあれば、たちまち家は滅亡じゃ。
よくよく身を慎まねばならぬぞ」と告げて、たちまち二十丈もある大蛇となり、海中に姿を消した。そのあとに残った
三枚の鱗を時政は持ち帰って家の紋にしたという。
三つ鱗紋の「鱗」を魚鱗と解する人もいるが、正しくは「竜の鱗」なのである。
後北条氏が「三つ鱗」を家紋とするようになったのは、早雲のあとを継いだ氏綱の代からであるようだ。
早雲が礎を築いた後北条氏は関東制覇を目論むようになり、関東においては伊勢より重みのある北条名字に改め、
家紋も北条氏にならって「三つ鱗」を用いるようになったと考えられる。それでは、早雲時代の後北条氏(早雲は生涯を通じて北条を名乗っていない)は
どのような家紋を用いていたのだろうか、ということになる。室町時代に成立した家紋集である『見聞諸家紋』には、
伊勢氏の家紋として「対い揚羽蝶」が収録されている。
そして、近世大名として残った河内狭山藩主北条氏は
「三つ鱗」紋と併せて「対い揚羽蝶」紋を用いている。これらのことから、早雲も伊勢氏の一族として
「対い揚羽蝶」紋を用いていたとみて間違いないだろう。
………
●北条早雲画像に見える「三つ鱗」紋の軍旗。
おそらく氏綱時代のもので、早雲本人は「三つ鱗」紋の軍旗を
用いることはなかったと思われる。
後北条氏の軍旗は『北条五代記』によれば「五色段々」とみえ、氏康の馬印は「三つ鱗」紋を染め抜いたもので
あった。「五色段々」とは、黄・紺・赤・白・黒の五色に染め分けた「五色旗」で、天下に通じるものである。
氏康は領内に検地を行い、また税制を改革するなど民政面に手腕を発揮して戦国大名としての基礎を確固たるものにした。
軍事面でも天文十五年(1546)の河越夜戦で宿敵扇谷上杉朝定を敗死させ、山内上杉憲政を越後に追い、
関東から両上杉の勢力を一掃した。後北条氏が武蔵を確保し、さらに関八州の戦国大名へと飛躍したのは氏康の功績であった。
後北条氏の三つ鱗紋は氏康の代に関八州を席捲したが、子の氏政は豊臣秀吉の小田原攻めにあって小田原城を開城、没落した。
結局、北条名字と三つ鱗はふたたび滅び去ったのであった。
………
●『見聞諸家紋』にみえる伊勢氏の「対い揚羽蝶」
■後北条氏/
■伊勢氏
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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