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稲葉氏
●折敷に三文字
●伊予河野氏の一族  
 


 稲葉氏は河野通直の四男通貞に始まると伝える。河野氏では通直を名乗る者が四人おり、二人目の通直こと刑部大輔を父とする。
 通貞は六歳のときに伊予国安国寺に入って出家したが、「性質勇悍」にして常に剣術を学んだ。のちに還俗して父兄の怒りを買い、名を塩塵と改めて諸国を遊歴した。その勇名を聞いた美濃の守護土岐成頼に招かれたが、重臣らに軽んじられて他国に行こうとした。一日、伊奈波社に祈誓していわく、「神明の庇護をもって我を当国の小領主となさしめば、稲葉を持って氏とせん」と。参籠七日にして夢に佳瑞あり、これより河野を改めて稲葉を称した。伊奈波ではなく稲葉なのは神を敬した故であろう。
 もっとも『濃陽諸士伝記』の「稲葉氏のこと」では、通貞が康暦の頃(1379〜80)、伊予国で細川常久と戦って敗れ、美濃に落ちて稲葉氏を称したとしている。いずれにしても、河野氏の一族ではあろうが、美濃に住した確かなことは不詳である。通貞は池田郡の白髭城に住し、三千貫文の地を与えられ、のち軍功を挙げて一郡六千貫文の地を領した。しかし、白髭の現在地を確定することはできない。一説に、通貞とその家督を継ぐことになる通則は同郡寺山城に住んだともいう。この寺山城の地もまた確定できない。

稲葉氏の出自考察

 美濃の稲葉氏について、美濃の稲葉山(金華山)ちなんで発祥したとする説がある。それによれば、鎌倉幕府の重臣であった二階堂行政が稲葉山にはじめて城を築き、のちに娘婿であった佐藤伊賀守朝光に城を譲った。
 朝光が伊賀守だったことから、子光宗らは伊賀氏を称した。光宗は承久三年(1221)の承久の乱に際して、弟の朝行・光重、伊予の河野通信らとともに上皇方につき敗戦を喫した。戦後、光宗兄弟、通信らは配流され、もうひとりの弟光資が残り稲葉三郎左衛門尉と名乗って稲葉山城主となった。これが、美濃稲葉氏のはじめだというのである。その後、光資の子光房が河野氏から分流した林氏の養子となったか、あるいは、河野通弘、または通兼が猶子となって稲葉の名跡を継ぎ稲葉を名乗った。
 すなわち『土岐累代記』の中の「林七郎右衛門由来ノ事」に「林駿河守通村ノ先祖ハ飛州高山ノ神主八千石ノ領主 林左近太夫通実ト云う人ノ末孫ナリ 通実子ナクシテ 稲葉左衛門佐光房当国ヘ蟄居ナリシヲ養子トシテ家ヲユツリ林左衛門佐通房ト名乗セ其身ハ隠居セラレケル」、さらに「寛正二年塩塵美濃ニ来リ土岐成頼ニ謁シ 明応ノ頃稲葉伊賀守光兼ガ遺蹟ヲ継テ稲葉七郎通兼ト名乗ルト…」とみえ、光房と光兼の違いや、美濃稲葉氏の祖とされる塩塵を通兼と同人視するなどの混乱があるものの、稲葉氏が河野姓越智氏と藤原氏の合体、または吸収合併のあった事をうかがわせている。
 他方、『続群書類従』の「系図部集」によれば、「稲葉伊予守光之は藤成卿四代の孫、鎮守府将軍秀郷の後胤なり、家紋稲抜穂、又巴。予州の稲葉、濃州の林とに紛れ、此比、稲葉家盛なるに依て、藤原の稲葉、林、越智に紛るる者有に依て、此に験す…」。ついで、「果たして稲葉氏が越智氏なるや否や、又越智氏とするも系の出づる処につきて詳らかならざるものあり…」とあり、美濃稲葉氏が越智氏と藤原氏に紛れて出自を明確にできないと記している。
 加えて、稲葉一鉄・氏家卜全と並んで「美濃三人衆」と称された安藤伊賀守守就の一族で、近世土佐藩の重臣となった山内伊賀氏に伝わる系図によれば、守就の曾祖父伊賀太郎左衛門光就の弟光兼が稲葉七郎を名乗り、その子に塩塵が記されている。これによれば、美濃稲葉氏は伊賀氏の分かれということになる。美濃稲葉氏の出自は、果たして、いずれに結び付けられるのだろうか。

西美濃三人衆に数えられる

 さて、稲葉通則は土岐成頼の孫頼芸に属した。大永五年(1525)、近江国より攻め入った浅井亮政との「牧田合戦」に、伯父通明ほか五人とともに討死した。通明の娘は、のちに明智光秀の片腕として名を馳せる斎藤利三の後妻として嫁いでいる。
 通則の末子良通は幼くして寺に入っていたが、牧田合戦に父兄が討死したことで、良通ひとりが残された。還俗した良通は頼芸に属して、天文二十一年(1552)、頼芸が斎藤道三に追放されると道三に仕えた。そして、氏家直元と安藤守就とともに「西美濃三人衆」と称される存在となった。
 良通は実妹を斎藤道三の室に出していたが、道三と嫡男義龍が戦ったときは義龍に属している。以後、斎藤義龍に家老として仕え、尾張織田氏の美濃侵攻に対した。やがて義龍が病死し、子の龍興が斎藤氏の家督となった。ところが、龍興は武将としての器量に恵まれないばかりか、佞臣が跋扈するようになった。良通は龍興の失政に対する諌言を提したが容れられず、永禄六年(1563)には織田信長に通じ、同十年龍興が信長に攻められて稲葉山城を退去するに及び、他の三人衆とともに信長に仕えた。
 元亀元年(1570)の姉川合戦では嫡子貞通とともに朝倉義景の大軍に対していた家康に加勢、さらに浅井長政が信長の本陣を衝くと兵を返して長政軍を敗走させた。信長は、戦功の第一に家康、次いで良通を挙げている。以後も、槙島の合戦、朝倉氏の討伐にも従軍し活躍した。
 のち、良通を讒する者があり、信長が良通を討とうとすることがあった。このとき、信長の茶亭に呼ばれた良通は、そこにかけられた「虚堂智愚」の墨跡の文字を高らかに読み、ことごとくその語意を解し、これに比して自ら罪なきを諷した。信長は壁を隔ててこれを聞いて歎息、「文武兼備の将なり」と。そして「汝、実に罪なし。我、過れり」と。こうして、君臣こころ解けて、信長てずから点茶を賜ったとある。
 天正七年(1579)、良通は貞通に政事を執らしめて、自らは大野郡の清水城に隠居し、一鉄と号した。貞通は本能寺の変後、秀吉に仕えて、滝川一益との合戦、九州征伐に従軍している。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦では最初西軍に属したが、決戦直前に東軍に転じると本戦に参加して武功を挙げた。戦後処置によって、加増を受け、美濃国郡上八幡四万石から豊後国臼杵五万石に加増移封された。以後、稲葉氏の嫡流は、臼杵藩主として封を襲ぎ、久通の代に明治維新を迎えた。

その後の稲葉氏

 ところで、良通の長男は重通であったが、庶出であったため別家を立て美濃清水 一万石を領した。重通には数人の男子があり、長男の利貞は外祖父牧村氏を継ぎ、家督は次男の通重が継いだ。ところが、慶長十二年(1607)、京都の祇園で遊興中に問題を起こし、幕命によって改易、流罪の処分を受け、配流先で病死した。
 三男の道通は長兄利貞の死後、その嫡男牛之助が幼少であったため、中継ぎとして牧村氏領二万三千石を継承した。道通は秀吉に仕えて伏見城築城に活躍、加増を受けるとともに豊臣姓を許されている。関が原の合戦には東軍に味方して活躍、戦後の論功行賞で加増を受け、伊勢田丸に転封されて四万七千石を領した。やがて、甥の牛之助が成長したにも関わらず、家督を実子紀通に譲ろうとした。それに牛之助が不満を抱くと、刺客を送って殺害してしまった。ほどなく、道通は病死したが、牛之助の呪いのためと噂されたという。家督を継いだ紀通は伊勢田丸から摂津中島、ついで丹波福知山へ移封されたが、その間、悪政を重ね領民を苦しめた。ついに、家族を紀通に殺された領民の訴えにより、幕府から謀反の嫌疑を受けるに至った。慶安元年(1648)、幕府は近隣諸藩に紀通追討を命じたが、その前に紀通は鉄砲自殺を図り、稲葉氏は改易となった。重通といい、道通・紀通父子といい、なんとも乱暴者が揃ったものだ。
 重通にはもう一人の男子、娘婿で養子に迎えた正成がいた。正成は秀吉の命で小早川秀秋の家老となり、関が原の合戦においては秀秋を東軍に寝返らせる功を立てた。しかし、秀秋が病死して小早川氏が断絶、改易されると浪人となった。重通の娘に先立たれた正成は重通の姪を後妻に迎えたが、後妻は明智光秀の重臣斎藤利三の娘お福で、のちに家光の乳母となり春日局とよばれて大奥に権勢を振るった女性である。お福が家光の乳母に召されたのち、正成も家康に召しだされ、慶長十二年(1607)、美濃国に一万石の領地を与えられて大名となった。
 正成は女房の内助の功で出世したといわれるが、関ヶ原の合戦はもとより、大坂の陣にも活躍しており、武人としてひとかどの人物であった。正成と春日局の間に生まれた正勝は幼いころから家光に小姓として仕え、家光が将軍職を継ぐや、順調に出世を重ね相模小田原藩八万五千石を領するまでになった。しかし、日ごろの激務がたたり、寛永十一年(1634)に病死した。以後、正成系稲葉氏は幕閣に重きをなし、正住の代に山城淀十万石に転封となり、明治維新に至った。

わずかに名残をとどめる淀城址


・京阪淀駅ホームから見る堀・天守台の石垣・稲葉正成を祀る稲葉神社・境内に「折敷に三文字」紋

・2004年09月27日→2008年09月22日

●河野氏の家紋─考察



■参考略系図


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