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古市氏
●丸に楓*/菊に楓
●清原氏後裔?
*ご子孫の方から情報を頂戴した。中世大和国衆を知る史料として有名な『国民武士記』には、「菊に楓」と記されている。
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古市氏は大和国の国人で、『和州国民郷士記』には「古市家 清原氏 舎人親王末孫也」とある。また、東山内衆のひとり北氏の後裔が書き残した『北吉品聞書覚書』には、山辺郡都祁村大字小倉の在地武士と考えられる小倉氏の祖小倉王についての記述がある。それによれば、清原氏の祖夏野は古市に在地し、小倉氏とともに古市氏はその子孫であるとしている。しかし、いずれも近世前期の史料であり、その確証は得られていない。
中世の大和は興福寺別当が守護・国司として権勢を振るい、大衆、僧徒をもって一国の支配を行った。興福寺には大乗院門跡と一乗院門跡が並び立ち、別当は両門跡のうちより立つのが習いであった。やがて、荘官、名主層の有力者を僧徒に準じて衆徒とし、春日社領荘園内の荘官、名主を国民として権力基盤を強化したが、この衆徒・国民がのちに武士団に成長していくことになる。また鎌倉時代ごろより、衆徒のなかから二十人を選んで四年間本寺に在勤させたが、これをとくに官務衆徒または衆中といった。また、官務衆徒は太政官符により任命される別当・三綱の被官ということから、官符衆徒ともよばれた。
古市氏の登場
古市氏が起った古市の地は、現在の奈良市南方にあり、古くより大乗院門跡の支配する福島市があった。鎌倉時代後期の正安四年(1302)、福島市は大乗院近くに移されたため、元の福島市があった地は古市と呼ばれるようになった。とはいえ、古市の地が要衝であることは変わりなく、大乗院門跡は腹心の衆徒を古市に派遣して同地を支配させたようだ。おそらく、古市氏はその後裔にあたる者と思われる。
古市氏の名があらわれるのは、鎌倉時代末期にあたる正中二年(1325)の古市但馬公である。ついで、至徳三年(1386)の「摂津垂水牧牧務職文書写」に、筒井順賢とともに衆中沙汰衆の一人としてあらわれる「胤賢」である。この胤賢は但馬公の後裔と思われ、大乗院記録のうちの『御兵士引付』の室町初期の項にみえる「古市胤賢」とも同一人物と思われる。胤賢以後、古市氏の名が史料に散見するようになる。『大乗院日記目録』のなかに、断片的な古市氏の系図が収録(参考系図参照)されているが、その系図のはじめにみられるのは胤賢である。
大和武士は衆徒あるいは国民として興福寺に仕え、春日社若宮祭礼(おん祭)において流鏑馬を勤仕することを矜持としていた。やがて南北朝時代より、国民を中心として地域ごとに党を結合していったが、党結合は室町時代になると春日若宮祭礼における宮座組織ともなっていった。ちなみに六党とは、筒井氏を刀禰(盟主)とする乾(戌亥)党、越智氏を刀禰とする散在党、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする中川党、楢原氏を刀禰とする南党、さらに万歳・高田氏らが中心の平田党で、それぞれ刀禰を願主人として春日社若宮祭礼に流鏑馬を勤仕した。
南北朝時代末期の至徳元年(1384)の『中川流鏑馬日記』の願主人交名には、箸尾殿 万歳殿 高田殿 布施殿 楢原殿 越智殿 筒井殿 十市殿 柳生殿ら六十七人の名が記されている。しかし、古市氏は六党にも属さず、春日若宮祭礼に流鏑馬を勤仕するというこもなかった。言い換えれば、大和武士としては異端に属する存在であり、興福寺衆徒で大乗院の坊人という立場から身を起した新興の武士であった。古市氏が奇妙に浮いた印象を与えるのは、その出自がもたらすものであったといえよう。
室町時代の中ごろより、古市氏は惣領を中心として古市党を結成、勢力を拡大していった。その躍進を支えたのは、他の伝統的大和武士が伝来の領地に拠っていたことに対し、古市氏は商業に着目していたことがあげられる。すなわち、古市氏は京都と南都を結ぶ交通の要所を押さえ、馬借の支配・奈良の商人の被官化など他の大和国衆には見られない経済的な地盤を築きあげたのである。そのことは、大乗院経覚と親しかった国際商人楠葉西忍と交流をもっていたことからもうかがわれる。
・写真:おん祭の稚児流鏑馬。
大和の動乱
平安時代末期より、大乗院門跡と一乗院門跡は対立関係にあり、大乗院あるいは一乗院に仕える衆徒・国民らももその影響を受けざるをえなかった。鎌倉時代には武力抗争が起り、幕府の介入を許し、両門跡が配流されるという始末になった。結果、興福寺の権勢に翳りが見えるようになり、在地領主層の自立をうながすようになった。さらに、官務衆徒が興福寺内の実権を掌握するようになり、室町時代に至って、衆徒の代表的存在となったのが筒井・古市氏らであった。ちなみに、国民の代表的な存在が越智・箸尾氏らで、筒井・古市・越智・箸尾の四氏が大和の乱世を主導する存在となった。
南北朝時代、大乗院門跡と一乗院門跡はそれぞれ南北に分かれて、抗争を続けた。明徳三年(1333)、南北朝の合一がなったが、大和では越智氏ら後南朝の蠢動が続き、幕府は興福寺官務衆徒のひとりである筒井氏を支援して越智氏ら後南朝勢に対抗させた。かくして、大和は筒井氏を中心とする勢力と、越智氏を盟主とする勢力とが対立、抗争をくりかえすようになった。筒井党は北和が勢力圏であり、一方の越智党は南和が勢力圏であったことから、両党の抗争は世に南北合戦と呼ばれた。
興福寺からの訴えもあって幕府は大和の争乱に介入したが抗争は止まず、ついに応永二十一年(1414)、衆徒・国民を上洛させ私合戦の停止を誓わせた。召された官務衆徒は古市・筒井・井戸・豊田中坊・小泉氏らで、国民は越智・十市・片岡・箸尾・布施・万歳・岡氏らであった。大和は一応の平安をみせたが、それは表面的なものに過ぎなかった。
永享元年(1429)、豊田中坊と井戸氏との間で争いが起ると、豊田中坊方に越智・箸尾氏ら、井戸氏方には筒井・十市氏らが味方した。それに後南朝に通じる秋山・沢氏の反抗が加わり、大和は十年におよぶ永享の乱となった。この乱における古市氏の動向は判然としないが、筒井氏は惣領の順覚が討死するという大打撃を受けている。結局、幕府軍の出撃によって、乱は越智・箸尾方の敗北に終わった。
筒井党との抗争
大和永享の乱後、筒井氏では順弘と順永兄弟の家督をめぐる内紛を生じ、大乗院門跡経覚は筒井順覚が有した興福寺領河上関務代官職を取りあげようとした。筒井氏の内訌は成身院光宣ら兄弟の支援を取り付けた順永が順弘を滅ぼして惣領となったが、幕府の追求を受け光宣らは没落した。
嘉吉三年(1443)、大乗院門跡経覚は光宣を奈良に攻め、三条あたりで激戦が展開され筒井方は敗退した。この戦いに、古市胤仙が豊田頼英・小泉重弘らと活躍、戦後、胤仙らは官務衆徒として奈良を支配下におき、河上関務代官職も興福寺の支配下に入った。さらに翌年、経覚は古市・小泉・越智・十市・箸尾氏らをして筒井館を攻撃したが、筒井勢の奮戦により経覚方の敗北となった。
経覚は鬼薗山に城を築き、幕府の支援を得て筒井方と抗争を続けた。以後、鬼薗山城をめぐる戦いが繰り返され、大和国人衆は経覚(古市・越智)方と筒井方とに分かれて攻防がつづいた。文安二年(1455)、筒井順永の攻撃によって鬼薗山城は陥落、経覚は古市城に奔った。筒井方は鬼薗山城を修築すると光宣が拠り、胤仙は古市城に拠って経覚を支え、十年にわたって筒井方と対峙をつづけた。ともに官務衆徒である胤仙と筒井順永にしてみれば、興福寺を背景とした大和の支配権をめぐる戦いでもあった。
大乗院跡の碑/鬼薗山城址の奈良ホテル(左手の山は西方院山城址)/西方院山城址に残る堀跡/鬼薗山城の向う側に大乗院跡がある
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胤仙は武将としての器量もさることながら、歌道にも長じていて城内で連歌会を催し、経覚を招待して無聊を慰めるということもあった。戦いは泥沼化して、大和各地で合戦がつづいたたが、享徳二年(1453)、胤仙の死去により一段落した。経覚と筒井一族との戦いは終わったものの、今度は幕府の重臣畠山氏の家督をめぐる争いが大和を戦乱に巻き込むのである。畠山氏の内訌は幕府管領であった持国(徳本)の養子弥三郎(のち弟の政長が継ぐ)と実子義就との争いに、家臣団が両派に分裂して、ついには武力抗争に発展したものであった。南和の越智氏は義就に味方し、筒井・箸尾氏らは弥三郎方に味方して合戦となった。
胤仙のあとは嫡男の胤栄が継いだ。胤栄もなかなかの風流人で、長禄二年(1458)、盛大に風流を催したことが『雑事記』にみえている。また、胤栄は一族などの家臣化を推進、強力な領主制を構築していった。そして文正元年(1466)、幼少期に代官をつとめた有力一族で興福寺の衆徒でもある山村胤慶を勘当、惣領としての実力を示すまでになった。さらに、胤仙のころより城郭化が進められていた古市城を、城郭と城下が堀によって一体化した惣構えの城としている。このように古市氏は、領主化をすすめながら城下町を形成、その先進性は大和武士の誰よりもはやく戦国大名に飛躍する可能性を秘めていたのである。
大乱勃発
応仁元年(1467)、京の上御霊社に陣取った政長勢を義就勢が攻めたことで応仁の乱が勃発した。政長は管領細川勝元を恃み、義就は幕府の実力者山名宗全を後楯としていた。応仁の乱が起こると古市氏にも両軍から誘いがかけられたが、胤栄は筒井氏が東軍に参加したこともあり、義就に味方する越智党に属し西軍として行動した。
文明三年(1471)、筒井党の布施播磨守が越智党の万歳某を攻撃すると、布施方には筒井をはじめ箸尾・楢原・十市氏らが加わり、一方の万歳方には吐田・小泉・八田、そして古市氏が味方して激戦を展開した。大和の東西合戦には後南朝方の動きも加わって、各所で戦いが果てしなく繰り返された。
文明七年四月、葛上郡で楢原氏と吐田氏とが合戦に及ぶと、古市氏は越智氏とともに吐田を応援して出陣した。つづく五月、春日社頭において古市胤栄は越智家栄とともに、成身院順宣・十市遠清・箸尾為国らの東軍と戦ったが敗北を喫した。一方、筒井順尊は大内氏の兵を山城木津において迎撃、これを打ち破る勝利をえた。これら一連の戦いに際して、大和国人のほとんどが出陣したことが『大乗院寺社雑事記』にみえている。
胤栄は春日社頭における敗戦をきっかけとして、家督を弟の発心院澄胤に譲り遁世・隠居した。以後、家督を継いだ弟の澄胤と区別して、胤栄は古市西と称した。胤栄の隠居は東軍が優勢になったことへの古市氏の路線変更、また、家臣団の強化を急いだことへの一族・被官からの反発を交す意図があったようだ。それもあって、まったく隠居したというものでもなく、文明九年には弟澄胤とともに合戦に出ている。惣領となった澄胤は、文明十年に官符衆徒に任じられ、ついで越智家栄の娘を室に迎えて越智氏との結束をさらに強固なものとしている。
・右図:古市城要図
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古市氏が勃興した古市は、鎌倉時代より市が立った場所で、古市氏はその流通機能を掌握することで
大和の有力国人に成長した。十五世紀前半、古市胤仙が越智氏と結び筒井氏と争ったことから史上に登場してくる。以後、胤仙の子胤栄、さらにその弟の澄胤と勢力を拡大、最盛期を現出した。そして、古市城は堀を設け、惣構えの堂々たるものとなった。その後、筒井氏の台頭によって、澄胤は山中に逃げ延び城は破却され、古市氏は鉢伏城を本拠とすることになるのである。現在、古市城址は小学校と団地が建設され、そこに城があったとは思えない佇まいである。しかし、地形や、残された堀跡、土塁などから往時を偲ぶことができる。
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澄胤の出頭
その後も戦いは止むことなく続いたが、状況は西軍の優勢に推移していった。文明九年ごろになると大和の東軍は潰滅状態となり、筒井順尊・成身院順宣、十市氏らは没落の身となった。
文明十一年、京の街を戦火に焼きつくして応仁の乱は終熄した。しかし、両畠山氏の抗争は執拗に続き、筒井党は優勢の越智党に対してゲリラ戦を展開した。対する古市澄胤は文明十六年、宇陀郡で起った秋山・沢氏の抗争鎮圧に出陣、北畠具教とともに秋山氏を援けて沢氏を討った。翌年、東山内で筒井党の吐山氏と越智党の多田氏との対立から動乱が起ると、澄胤は多田方を応援して兵を出した。こうして、大和国衆が筒井・越智両党に分かれて抗争するなかで、古市澄胤は越智党の中心的存在として勢力を拡大していった。
畠山義就が延徳二年(1491)に死去すると、そのあとを継いだ義豊は河内にあって政長との対立をつづけた。明応二年(1493)、将軍足利義稙を奉じて河内に出陣した政長は基家(義豊)の拠る高屋城を攻撃した。ところが基家を支援する細川政元が、義稙・政長の留守をついて義高(義澄)を擁してクーデターを起した。正覚寺の合戦に敗れた政長は嫡男の尚順を逃して自害、義稙は幽閉され、義高(義澄)を将軍職につけた政元が幕政を掌握した。この事件は「明応の政変」といわれ、実質的な戦国時代の幕開きとなった。この政変に際して、越智家栄と古市澄胤は政元の謀議にあずかり、越智家栄は大和の国衆を率いて上洛した。ついで、澄胤も入京をはたし、山城国の守護代に任じられると山城一揆を鎮圧・解体させる働きを示した。さらに、官務衆徒棟梁にも任じられて全盛を迎えるにいたったのである。
興福寺の支配下にあった大和において、衆徒が国民の上位におかれ、澄胤は越智氏に対して上位者としてふるまったようだ。実力を誇る越智家栄にしてみれば、澄胤は娘婿でもありその態度は腹にすえかねるものであった。かくして、古市氏と越智氏の関係は円滑をかくようになり、さしもの越智党の威勢にも翳りがみえてきた。
やがて、明応四年末以来、勢力を盛り返した畠山尚順と結ぶ筒井党の巻き返しが始まった。明応六年、筒井氏が復活すると越智家栄父子は吉野に没落、同年十一月に白豪寺で筒井党と戦った澄胤も敗れて伊賀に奔った。白豪寺の戦いにおいて古市氏は、有力一族の山村氏をはじめ、有力家臣の山本・鹿野園氏らを討死させ、吉田・見塔院氏ら一族の離反を招いた。その後、澄胤は土一揆を煽るなどして、筒井党に抗戦を続けた。翌七年になると越智家令が高取に復活、明応八年には大和国衆の間で和睦の動きが出たが、古市氏は除外されていた。興福寺を背景とする古市氏の存在は、伝統的大和武士たちにとって歓迎される存在ではなかったのであろう。
乱世を生きる
和睦の動きは多武峯寺の反対で不調に終わったが、大和国衆の和睦を喜ばない細川政元は家臣の赤沢朝経(宗益)をして大和に乱入させた。赤沢軍の先導をしたのは古市澄胤で、澄胤は細川氏に通じることで頽勢挽回を図ったのであろう。筒井氏らは赤沢氏に抵抗したが敗れ、筒井・十市・楢原氏ら大和国衆の多くが没落の身となった。これまで大和国衆は互いに抗争を繰り返してきたが、この細川氏の大和出兵は従来の戦いとは違い未曾有の事態であった。
このようにして打ち続く動乱は多くの戦死者をうんだが、一般庶民をも巻き込んで社会全体を疲弊させずにはおかなかった。かくして、大和国衆の間に和議の機運が起こり、永正二年(1505)二月、春日社頭に起請文を捧げて和睦の誓いが固められた。
その主要メンバーは「布施安芸守 箸尾上野守 越智弾正忠 十市新次郎 筒井良舜坊」の五氏で、和睦の証として越智家令の娘が筒井順賢のもとに嫁いだ。さらに、同年八月には「一両一疋衆」と呼ばれる国人衆も前記起請文に連判したことで、大和国人一揆体制が実現した。しかし、国人一揆の中に古市澄胤の名はみられず、澄胤は大和国衆からまったく浮いた存在であった。それゆえに澄胤は幕府=細川氏をたのんで、勢力の維持、拡大につとめざるをえなかったのである。
十一月、畠山尚順討伐を図る細川政元が大和国衆に出陣を求めてくると、国衆は会合して出陣の可否を話し合った。翌年、政元に敗れた尚順が大和に逃げ込むと、政元は大和国衆が尚順をかくまったとして、ふたたび赤沢宗益を大和に侵攻させてきた。赤沢勢を迎え撃った大和国衆は散々な敗北を喫し、大和は宗益の支配下におかれた。古市澄胤・胤盛父子とその一党は赤沢方に加わり、大和国衆と合戦におよび、さらに孤立の度合いを深めていった。この年、胤栄が没したことが『大乗院寺社雑事記』にみえているが、いい時期に没したというべきか。
明けて永正四年、胤盛は赤沢宗益とともに丹後守護一色義有討伐のために丹後国に出陣した。ところが、細川政元が家臣に暗殺されたことから、丹後を引き上げる途中で宗益とともに胤盛は討死した。同年九月、政元のあとを継承した澄元が部将赤沢長経を大和に侵入させると、大和国人衆を制圧した。この陣においても澄胤は細川方にあり、大和国衆との対立関係は変わらなかった。同五年、赤沢長経方が河内高屋城を攻めると澄胤も参戦したが、長経の軍は敗北、この合戦で澄胤は戦死したというがその最期は不明である。この澄胤の死をもって古市氏は一頓挫をきたし、以後、勢力の後退を重ねることになった。
さて、古市澄胤は非業の死をとげたが、経済観念の発達
、民衆の状況の把握など、領土取りに奔走する他の大和国衆とはひと味違った存在であった。武将としての力量もさることながら、文化人としても非凡な才能をもっていた。古市氏は胤仙・胤栄の代より茶を楽しんでいたが、澄胤は村田珠光に出会ってその指導のもとに「詫び茶」の世界に通じ『心の文』をうけた。さらに連歌師猪苗代兼載から『心敬僧都庭訓』をうける連歌の達人であり、和歌・猿楽・尺八・謡の名手でもあった。平和な時代であれば、大和の文化人として歴史に名を残したことであろう。
戦国時代の終焉
澄胤が死去したのち、大和国衆は細川高国・畠山尚順と結ぶ筒井順興、細川澄元・畠山義英と結ぶ越智家令
とに分かれて対立、澄胤のあとを継いだ公胤は越智方に属した。永正八年、公胤は吐山・多田氏ら山内衆とはかって六寸に築城、古市の回復に動いた。しかし、澄元が京都で敗れたことでことはならなかったが、その後、古市を回復したようだ。
細川氏の抗争は「両細川氏の乱」と呼ばれて、畿内を錯乱状態においた。永正十七年、澄元方が勝利すると南都は越智・古市が支配下においた。しかし、ほどなく澄元方は高国方に敗れ、筒井党が復活、公胤は鉢伏峠に築いた山の城に退いた。勢いにのる筒井勢は山の城も攻略、ついに公胤は東山内の大平尾に退去したが、ほどなく挽回して鉢伏城を再建するとそこに拠った。やがて、畠山氏が和睦したことで、筒井・越智・古市の和睦がなり、公胤は鉢伏城を本拠として勢力を維持した。大永元年(1521)、義英に通じた公胤は万歳・岡・箸尾・片岡氏らとともに筒井順興と対立、古市をはじめ鹿野園・藤原・鉢伏を焼かれ、翌年には大平尾・邑地までも蹂躙され古市氏は没落した。
その後、大和は越智・筒井・十市・箸尾の四大豪族による連合支配体制が確立、すでに往年の勢いを失った古市氏はそれに継ぐ存在に甘んじざるをえなかった。大永七年、澄元のあとを継いだ晴元が高国を敗ると、翌年、澄元の部将柳本賢治が大和に乱入、古市氏は越智氏とともに柳本氏と結んで勢力の回復をはかった。他国衆の大和乱入はつづき、天文五年(1536)になると河内から木沢長政が乱入、筒井順昭は長政と結んで十市遠忠と対立した。十一年、長政が戦死すると大和では順昭と遠忠が並び立ツ情勢となり、翌十二年、筒井氏に敗れた古市氏は古市本城を自焼して退去した。以後、柳生氏と結んで奈良に出没したが、東山内に逼塞状態におかれ、古市本城の回復はならなかった。
天文十四年、十市遠忠が死去すると筒井順昭が勢力を拡大、十五年、越智氏の貝吹城を攻略、翌十六年には箸尾氏を破り「一国悉以帰伏了、筒井ノ家始ヨリ如此例ナシ」と『多聞院日記』にあるように大和一国統一を目前とした。ところがにわかに病を発した順昭は比叡山にのぼり、家督を幼い順慶に譲ると天文十九年に没した。
永禄二年、三好長慶の家臣松永久秀が大和に乱入、信貴山城を築くと大和経略を開始した。翌年、筒井氏を攻めてこれを奔らせると多聞城を築いて南都を支配下においた。ここに古市氏は息をふきかえし、松永氏に属して活躍した。この松永久秀の大和制圧によって、興福寺の大和支配は事実上崩壊した。やがて筒井氏が勢力を回復してくると、一時、古市氏は筒井氏に降ったが、のちに松永方に復帰したため古市郷を焼かれた。
古市氏のその後
他方、永禄十一年、足利義昭を奉じて上洛した織田信長が松永久秀に大和支配を委ねたことで、筒井党は再び苦境に立たされた。しかし、順慶は粘り強く頽勢挽回につとめ、元亀二年(1571)、辰市合戦において松永方を痛破した。この戦いに古市兄弟が松永方として出陣、負傷したことが知られる。その後、松永久秀は信長と間隙を生じるようになると、順慶は信長に接近、ついに天正四年(1576)、念願の大和守護に任じられた。
天正五年(1577)、松永氏が滅亡すると、古市一族は牢人して大平尾と邑地に隠棲したと伝えられる。ここに、中世大和国衆として一勢力を誇った古市氏も終焉をむかえたのである。以後、古市氏の動向は知られなくなるが、天正十二年、筒井順慶の葬式目録に「古市播磨守」がみえるが、公胤のあとを継いだ人物であろうか。伝によれば、古市氏の嫡流は加賀前田氏に仕えたという。・2007年12月26日
【参考資料:奈良県史/奈良市史/永島福太郎氏・田中慶治氏らの論文 など】
■参考略系図
古市氏の系図は、『奈良市史』などを見ても断片的なものしか紹介されていない。そのようななかで、古市氏のご子孫にあたられる西坊氏から、家に伝わるという『古市氏系図』を送っていただいた。また、古市氏の家紋は「菊に楓」とする書物が多かったが、「菊に楓(菊に双葉楓)」は西坊家の紋で、古市氏の紋は「丸に楓」という情報もいただいた。
●西坊氏『古市氏系図』を見る!
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