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深堀氏
●丸に三つ引両
●桓武平氏三浦氏流
「石井家の歴史」には、江戸時代の深堀鍋島家では、「鍔に小槌」を使用したとある。
 


 深堀氏の祖は相模国三浦荘から発した三浦氏といい、ついで和田姓を名乗り、仲光のころ上総伊南荘深堀に居を移して、深堀を名乗るようになったという。このことから、仲光を深堀氏の初代に数えている。
 仲光は承久三年(1221)の承久の乱において幕府方として戦い、その功によって摂津国吉井荘を賜った。仲光の子能仲はその恩賞地の変更を幕府や六波羅探題に要求し、結果、筑後国甘木村と東・西深浦村を獲得した。ところが、また東・西深浦村の替地を申し出て、建長七年(1255)、肥前国彼杵荘戸八浦の新補地頭となった。しかし、戸八浦は上総国から遠く、その経営は子の行光にまかせた。行光は子の時光を地頭職代官として戸八浦(のち戸町浦)に派遣し、以来、時光の流れが戸八浦に在地して、地名も深堀と呼ばれるようになった。

肥前国への土着

 深堀氏系図によれば、仲光を宝治の乱で滅亡した三浦介泰村の後としているが、泰村の子には景村をはじめ、景泰など数人の子女があったが、いずれも幼く、父泰村とともに鎌倉法華堂で自害したと伝えられている。したがって、泰村の後に仲光なる者は存在しない。そして、仲光または能仲ななる者を三浦諸系図に求めてみても、いずれも記載されてはいない。
 それでは深堀氏の祖は?ということになる。ここで、冒頭にも記した「ついで和田姓を名乗り」とあることと、深堀氏系図の註記に「仲光 三浦太郎左衛門尉幼名兼茂、建長七年戸八浦荘地頭職」「能仲 三浦五郎左衛門尉幼名義兼、寛喜元年本領安堵、建長二年筑前某を賜う」とあることからして、和田系図の和田義盛の弟義茂−重茂−時茂−兼茂(和田太郎左衛門尉)の兼茂が仲光にあたり、兼茂−茂長−義兼(五郎)の義兼が能仲に比定されるのではないだろうか。また、能仲を三浦義明八代の後裔とするものもあり、義兼は義明から八代目にあたるのである。ただ、深堀系図では能仲を仲光の子とするが、和田系図では兼茂の孫が義兼である。
 深堀の地は伊南荘にあったことは先に述べたが、和田義盛は伊北に所領をもっていたといわれ、仲光が和田一族の兼茂であれば、伊北荘の隣の伊南荘に所領があったことは十分に考えられることである。
 肥前の深堀にある金谷山菩提寺は能仲の開基と伝えられているが、山号の由来は相模国衣笠庄金谷に因んでつけられたという。いずれにしろ、深堀氏は三浦一族であったことは間違いのないものと思われる。
 時光が入部したころ、戸八浦には本補地頭の戸町氏がおり、肥後崎の寺領や伊佐早荘の隣接地でもあった。そのため境界争いが起こり、領家である京都仁和寺の手で裁断され、時仲のころに至って深堀氏の領地が確定されたという。

深堀一族の発展

 文永十一年(1274)の蒙古合戦い出陣、つづく弘安四年(1281)の蒙古再襲来に際しては、壱岐まで進攻して戦功を挙げ、肥前国神崎庄に田地三町、屋敷、畑地を賜っている。弘安・正応年間(1278〜92)には、博多の異国警固番役にも出役している。
 正安四年(1302)、時仲は嫡孫時明に戸町浦を与え、二男の時綱に高浜、三男の仲家に野母というふうに子供たちに所領を配分した。こうして、時綱は高浜氏、仲家は野母氏を称し、時仲の甥時広は肥前国高木村に住して高木氏を名乗り、深堀一族は野母半島一帯に勢力を拡大発展させていった。ここで不思議なのが、時仲の嫡男時通の分が見当たらないことである。深堀氏の場合、嫡孫に譲るという独自の相続法をとっていたようだ。
 庶家が成立するとともに、一族の間で所領をめぐる係争が頻発した。正和元年(1312)、惣領の時通・時明父子と庶子家である仲家との間に相論が交された。惣領制による相続方式では、代を重ねるごとに所領・所職の零細化が進み、女子も相続権をもっていたことから一族がそれぞれ自己の権利を主張した。惣領は庶子分をなんとか自己のものとして支配権を強化しようとし、これが南北朝時代において一族が南北に分かれて対立する原因となった。
 鎌倉末期の正中元年(1324)、後醍醐天皇による正中の変が起こった。この変に際して幕府は全国の御家人に軍勢催促状を発し、鎮西の御家人たちは鎮西探題に馳せ参じた。その着到状に、深堀氏の一族高浜政綱がみえている。正中の変は失敗したが、元弘元年(1333)、後醍醐天皇はふたたび倒幕の行動を起こした。元弘の変だが、これも計画が漏れて失敗、天皇は隠岐に流された。しかし、幕府の権威はすでに失墜しており、天皇が隠岐から脱出されると、足利高氏が天皇方に転じて六波羅を攻略した。九州では少弐・大友氏らが鎮西探題を攻めて探題北条英時を討ち取った。探題攻撃には、深堀時通をはじめ時綱・正綱・仲家らの深堀一族も参加していた。
 かくして鎌倉幕府は滅亡し、建武の新政がなった。深堀一族は新政府に所領の安堵を求め、それぞれ本領の安堵をえた。ところで、軍勢催促は惣領に行われるが、深堀氏にあっては惣領だけでなく一族の庶子家も軍勢催促を受けており、深堀氏における惣領制はこのときすでに崩壊していたようだ。

南北朝の動乱

 建武の新政は尊氏の謀叛で挫折し、後醍醐天皇は吉野に入って朝廷を開いたため、尊氏は北朝を立てて幕府を開いた。かくして、南北朝の動乱時代に入ると、九州は足利尊氏の任じた鎮西管領(のち九州探題)一色範氏、征西将軍宮懐良親王、足利直冬の三大勢力が鼎立した。
 観応二年(1351)、一色方と直冬方が筑前月隈浜で戦ったとき、深堀一族は直冬に属して参戦した。その後、一色範氏は肥前に進攻し、彼杵・高来郡で戦いが続いた。一色氏は深堀一族に軍勢催促を行い、ついに深堀一族は幕府方に転じた。一方、中央で直冬の養父直義が敗れたことで、直冬は後ろ楯を失い中国長門に脱出した。
 直冬勢力が壊滅したことで探題一色氏と宮方の対立が激化し、文和二年(1353)、一色範氏と懐良親王を奉じる菊池武光とが筑前針摺原で激突した。戦いは菊池方の大勝となり、以後、九州は宮方が優勢となっていった。文和四年になると菊池武光は、一色氏討伐の軍を起こし、連戦連敗した一色範氏はついに博多を放棄して九州から脱出した。この情勢に際して深堀時明は、宮方に参じて従軍転戦している。
 一色氏との対抗上宮方に参じていた少弐頼尚は、幕府方に転じ菊池武光らに対抗するようになった。そして、延文四年(1359)、筑後大保原において少弐氏率いる武家方と菊池武光とが対戦した。有名な筑後川の合戦で、戦いは激戦となり、菊池方の夜襲によって少弐氏は大敗を喫してまったく力を失った。この戦いに深堀時勝は少弐方として参戦、みずから太刀打ちする奮戦ぶりをみせた。
 少弐氏を撃退した菊池武光は太宰府を占領し、正平十六年、懐良親王が太宰府に入り征西府が確立された。ここにいたって深堀氏は宮方に転じ、以後、宮方の軍事行動に参加して諸所の戦いで戦功をあげている。このように、深堀氏ら九州の弱小領主は、あるときは武家方に従い、ついで南朝方に転じるというように去就は定まらなかった。

戦国乱世の序奏

 応安四年(1371)、今川了俊が九州探題として赴任してくると、深堀一族の高浜時広は今川仲秋の陣に馳せ参じた。今川了俊は宮方と戦い、太宰府を回復し、菊池氏らを筑後に遂った。この間の戦いに時広らは積極的に参加したが、惣領の時勝は曖昧な態度をみせてなかなか腰をあげなかったようだ。しかし、了俊が諌早に下ってきたことで、時勝は了俊の陣に参じた。
 以後、時勝をはじめとした深堀一族は、今川軍に従って各地を転戦した。今川軍は着々と征西府を追い詰め、永徳元年(1381)には菊池氏の本拠である隈府城を攻略し、明徳二年(1391)には名和氏の拠る八代城を陥落させた。ここにおいて、九州宮方はまったく勢力を失った。そして、翌明徳三年、足利義満によって南北朝の合一がなり、半世紀に渡った動乱にピリオドが打たれた。動乱の時代を深堀一族は、あるときは武家方、あるときは宮方として行動し、所領と家名をまっとうしたのである。
 南北朝の合一がなったのち、今川了俊は探題職を解任され京に召還された。そのあとの探題には渋川満頼が任じられ、それを大内氏が補佐した。深堀時清は新探題渋川氏から所領の安堵を受けている。そして、永享五年(1433)、深堀時清が時遠に所領・所職を譲渡した。以後、戦国時代の貴時に至るまで、深堀氏の動向は史料から知れなくなる。
 ところで、足利義満によって幕府は全盛期を現出したが、室町時代は内乱が連続した。南北朝の動乱は伝統的権威を崩壊させ、各地に新興勢力を成長させた。それは室町時代になると、さらに加速の度を加え、旧秩序は権威を失い、社会的勢力が大きく流動した。それは下剋上のことばで表現され、上は将軍家から守護、下は土豪に至るまで権力闘争が展開された。やがて、将軍家の継嗣問題から、応仁元年(1467)、京都を舞台に応仁の乱が勃発した。この応仁の乱をきっかけとして、日本全国は戦国動乱の時代へと推移していったのである。
 九州探題渋川氏は大内氏のロボットに過ぎない存在となり、鎌倉以来の太宰府を代表する存在であった少弐氏もかつての勢力を失っていた。代わって、肥前では有馬氏、千葉氏、龍造寺氏らが勢力を拡大、それぞれ抗争を繰り返しながら戦国大名化の途を歩んでいた。

戦国武将、純賢の登場

 戦国時代初期に登場する深堀貴時は、有馬氏に属していたようで、貴時は有馬貴純の一字をもらった名乗りと思われる。やがて、深堀氏は有馬氏の重鎮である西郷氏との関係を深め、貴時の孫善時は西郷尚善の一字をもらって、大永三年(1523)に加冠を行ったようだ。善時の代になると、中国の大内氏の勢力が肥前にも及ぶようになり、善時は大内義隆に太刀・馬・銭を贈り、義隆から太刀を答礼に与えられている。
 男子がなかった善時は、一族の男子直時を娘真法の婿に迎えた。ところが、直時は善時が死去すると有馬氏寄りの態度を見せるようになったため、家中に不和が生じた。西郷氏に通じる深堀一族は直時を追放し、尚善の子純久の三男純賢を養子として迎えた。そして、この純賢が近世深堀氏の初代に数えられている。深堀氏の嫡流は、直時が追放された時点で断絶したといえよう。
 深堀氏の家督となった純賢は兄の西郷純堯と結んで、長崎の大村純忠と争い、大村氏に味方する長崎氏とも抗争を繰り返した。元亀元年(1570)、純賢は大村氏を攻める純堯に呼応して長崎氏の館を攻めたが、村落民の抵抗に遭って兵を引き揚げている。その後も純賢は、純堯とともに大村・長崎氏と戦った。
 戦国時代後期の九州は、豊後の大友氏、薩摩・大隅の島津氏、肥前の龍造寺氏が鼎立して覇を争っていた。龍造寺隆信は主筋にあたる少弐氏を滅ぼして勢力を拡大、肥前全土を勢力下に収めんとして、大村氏らと争い各地を転戦していた。天正二年(1574)純賢は兄純堯とともに長崎甚左衛門純景を攻め、長崎氏の砦と城外およびトードス・オス・サントス教会を焼いている。天正五年、龍造寺隆信が大村氏攻めを行うと、純賢は龍造寺氏の援助を受けて、大村氏の長崎を攻め、続いて同六年にも長崎を攻めた。
 しかし、天正八年(1580)には大村勢の来襲によって西郷勢が敗戦を被った。純賢は森崎に砦を構えて迎撃の態勢をとったが、大村・長崎連合軍の攻撃に敗退した。とはいえ、龍造寺隆信の攻勢の前に大村氏はついに龍造寺氏に降伏した。

戦国時代の終焉

 天正十一年(1583)、龍造寺隆信の麾下に属していた有馬晴信が島津氏に通じて龍造寺氏から離反した。翌十二年三月、隆信はみずから三万余の兵を率いて有馬氏を討つため出兵、日野江城に向かった。有馬氏は島津氏に救援を求め、島津義久は弟家久を大将とする兵を有馬氏のもとに送った。しかし、龍造寺隆信の率いる兵は三万ともいう大軍で、一方の島津・有馬連合軍は六千という寡兵であった。決戦場は島原北部の沖田畷となったが、大軍に奢った龍造寺軍は家久の奇計によって、まさかの敗戦を被り隆信をはじめ多くの将士が討死をしてしまった。
 隆信の敗死後も、純賢は龍造寺氏に与して島津氏に抵抗し、島津氏よりの和平の使者を斬って佐賀の龍造寺家へ送ったこともあった。そして、天正十五年、秀吉の九州征伐に従軍し、戦後、本領を秀吉から安堵された。なお、純賢の兄西郷純堯は島津征伐に従わず、その所領は龍造寺氏に与えられ、純堯は諌早より追われ西郷氏は没落した。
 隆信が戦死したのち、龍造寺氏は隆信の嫡男政家が継いだが、政家は秀吉の命で隠居させられ、鍋島直茂が執政として龍造寺氏の実権を掌握した。文禄元年(1592)の朝鮮の役には、鍋島直茂が一万二千の兵を率いて従軍し、純賢も直茂の手に属して従軍した。その後、純賢は法体となり茂宅と名を改め、鍋島姓を賜り深堀から鍋島に改めた。そして、鍋島家の重臣石井安房守信忠の妻を後妻とし、その連れ子茂賢を養子とした。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると、鍋島氏は石田三成方に与したため、西軍敗北後、窮地に立たされた。徳川家康は、西軍に与した柳河城主立花宗茂を討伐することで、罪一等を減じると通告してきた。鍋島氏はただちに柳河に出陣、茂賢も先陣をつとめ、みずから槍を振るう奮戦ぶりを示した。鍋島氏は柳河攻めの功により、なんとか本領安堵を受けることができた。
 以後、茂賢は鍋島藩政の中枢に参与し、深堀領六千石を有して家老に列した。大坂の両陣には、一軍を率いて出陣、奮戦した。寛永十五年(1638)にキリシタンが起こした反乱「島原の乱」にも出陣し、抜群の戦功があったと伝える。子孫は代々家老職または長崎奉行大番頭となり、知行高六千石を領する鍋島佐賀藩の大身として続いた。・2005年4月5日→6月20日

参考資料:肥前国-深堀の歴史/三浦一族 ほか】

●三浦氏の家紋─考察



■参考略系図
 
  


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