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保科氏
並び九曜/梶の葉
(清和源氏頼信流)


 保科氏は、信濃国高井郡保科(穂科)から発祥し、のちに上伊那に移住したといい、清和源氏源頼信の子井上頼季を祖としている。しかし、保科氏の出自に関しては諸説があり不明な点が多い。
 『信濃史源考』によれば、諏訪氏の庶流金刺姓手塚氏の末とする、建御名方命の後裔という神姓諏訪氏の庶流で藤沢氏と同家とする、信濃源氏井上掃部助頼季が末葉とする、など保科氏の出自に関して三つの説を掲載している。そして、結論的には保科氏を他田氏の後裔とする説を紹介している。
 古来、信州の仁科・明科・保科・埴科・更級を五科と号し、それぞれ地頭が領していたという。ここでいう地頭とは郡領の意味で、荘園が成立するようになると郡領は神領または皇室領の立庄につとめた。そして、崇徳天皇の長承三年(1134)、長田御厨が定められ、保科氏の祖先は長田御厨の庄官をつとめ、一族は各郡村の名主職・公文職をつとめた。長田御厨の長田は他田に通じるもので、そこの庄官をつとめた保科氏の祖は他田氏であったと思われる。
 他田氏は、諏訪氏とは同祖関係になる古代氏族である。すなわち、諏訪上社・下社の大祝家はともに諏訪氏を名乗り、多臣族の金刺舎人直から分かれた。そして、金刺金弓の子麻背の子らの代に二流に分かれてそれぞれ上社・下社の大祝となった。麻背の兄弟である目古は敏達天皇の御名代である他田舎人部の伴造家となって他田直姓を賜り、目古の孫にあたる老は伊那郡司となり、子孫は歴代伊那郡司を世襲した。そして、藤雄のとき小県郡司となり、藤雄よりのち他田を名字とするようになったという。そういう意味では、知久氏とも同族関係ということになる。

保科氏の武士化と発展

 十一世紀、奥州の俘囚の長である安倍氏が叛乱を起こし、朝廷は源頼義を鎮守府将軍に任じて安倍氏攻伐の軍を発した。いわゆる「前九年の乱」で、この源頼義の「奥州征伐」に際して舎弟の頼季も出陣し、戦後、信濃国に住してその子孫から井上・高梨・須田氏らの信濃源氏一族が広まった。長田御厨の庄官をつとめていた保科一族は、勢力を拡大する信濃源氏の家人となり、やがて武士化していったと考えられる。
 治承四年(1180)に始まった源平の内乱に際して、平家打倒に立ち上がった木曽義仲が越後の城助職と横田河原で戦ったとき、義仲に味方した井上九郎光盛が保科党三百余騎を率いて奮戦、平家軍を敗走させたことが『平家物語』にみえている。保科党は星名党とも記され、平家追討戦に井上氏に従って活躍した。鎌倉に武家政権樹立の基礎を固めた源頼朝は、勢力を拡大した甲斐源氏の一条忠頼を誅殺し、井上光盛も忠頼に同心したとして駿河国で誅殺された。このとき、光盛に従っていた保科太郎は捕えられたが、のちに許されて鎌倉御家人に取り立てられ、「承久の乱」に保科次郎父子が出陣したことが知られる。
 とはいえ、その後の鎌倉時代から南北朝期における保科氏の動向は明確ではない。いずれにしろ、保科氏は高井郡保科を本拠として、一族は川中島から北信に繁衍していった。水内郡風間村に拠った保科氏は風間保科と称され、南北朝時代には風間氏に従った。
 十五世紀になると、『御符礼之古書』などに保科氏の名前が散見している。康正二年(1456)河田郷の知行者として保科長光・光輝、長禄三年(1459)には風間郷に保科駿河守満重、ついで長光・光輝のあとを継いだとみられる左馬助信光らの名が見えている。そして、応仁二年(1468)保科氏惣領を称する保科秀貞が諏訪神社の神使頭役を勤めている。しかし、それら保科氏の人々の関係や系図上の位置付けなどは明確ではない。

戦乱の時代に身を処す

 十六世紀、甲斐国内を統一して戦国大名へと脱皮した武田氏が信濃への侵攻を開始し、それは晴信(のちの信玄)が当主になると一層の激しさを加えるようになった。そして天文十一年(1542)、諏訪頼重を滅ぼした晴信はついで伊那へと兵を進めた。
 天文十四年、武田軍は藤沢頼親が拠る福与城に攻め寄せ、松尾の小笠原信定は伊那の諸将を糾合して藤沢氏を支援した。このなかに保科弾正が参加しており、弾正は筑前守とも称して高遠城主諏訪頼継の家老の職にあった。いつのころか藤沢庄に来住した保科氏は高遠の諏訪信濃守に仕えて、次第に頭角をあらわし、筑前守正則のあとを継いだ保科弾正正俊は高遠氏家臣団のうち筆頭の地位にあった。
 信濃諸将の抵抗はあったものの武田晴信の信濃平定は着々と進められ、小笠原氏、村上氏ら信濃の強豪大名も次第に追いつめられて、ついには越後の長尾景虎を頼って信濃から落ちていった。こうして信濃の大半を手中にした武田氏は、残る北信と南信で未制圧の下伊那に対する侵攻を同時に進めた。下伊那侵攻の準備を進めた武田氏は、天文二十年(1551)上伊那の保科正俊に参陣を呼びかける一方、さきに高遠に帰した頼継の郡内に対する影響力を嫌い、翌天文二十一年甲府に出仕した頼継を自刃させた。ここに、高遠氏は滅亡した。保科氏ら高遠氏の遺臣に対しては、知行を安堵するなどの措置がとられたのである。
 かくして武田氏に属するようになった正俊は、武田信玄・勝頼の二代に仕え、合戦の高名三十七度といわれる多くの軍功をあらわし、軍役百二十騎を勤めた。永禄五年(1562)、伊那郡代として高遠城にあった秋山信友が飯田城に移り、そのあとに勝頼が入った。さらに、元亀元年(1570)には武田信廉が高遠城主となった。この間、高遠城将の一人として活躍してきた正俊は体調を崩したようで、嫡男の正直を出仕させ、みずからは内藤氏の養子となった二男の守る箕輪城に隠退した。
 天正元年(1573)信玄が没したあと勝頼が家督を継ぎ、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い武田騎馬軍団は潰滅的敗北を喫した。この敗戦で武田軍の勇将、壮士らが多く戦死したが、保科正直は高遠城の守りにあって合戦に参加しなかったため一命をとりとめた。
 以後、武田氏の家運が衰退の一途をたどるなか、よく武田氏を支え続けた。天正十年(1582)、頃合いを見計らっていた織田信長は武田氏討伐の軍を発した。織田軍の侵攻に対して、正直は高遠城主の仁科盛信を助けて、織田軍に対して頑強に抵抗した。しかし、織田軍の猛攻撃によって、高遠城が落ち、盛信は自害、正直はいずこかへ落ちていった。

近世大名に生き残る

 その後、正直は小田原の北条氏直を頼って再起、後北条勢を導いて高遠城の奪還を図り成功、城主として同地に返り咲いた。のち、徳川氏と後北条氏が甲斐国で対陣したとき、正直は近郷の士を集め酒井忠次を仲介として家康に付くことを明らかにし、伊那郡の半分を領知すべき朱印状を与えられた。このとき、福与城を回復していた藤沢頼親にも降伏をすすめたが、頼親は応じなかったためこれを攻略した。
 天正十二年、正直は家康の異父妹多却姫を妻に迎え、高遠城主としての地位を確保したのである。同十三年、家康から離れて豊臣秀吉に臣属した小笠原貞慶が高遠城を攻撃してきたがよく防戦し、小笠原方の名ある武士を多数討ち取る活躍を示した。
 保科氏ではじめて大名になったのは正直の子正光である。正光は駿府在城時の家康の側近に仕え、「小牧・長久手の戦い」にも従軍した。「小田原の陣」では父とともに出陣し、家康の関東入国後は下総国多胡で一万石を与えられた。関ヶ原の戦いのときは浜松城を守り、さらに越前国北ノ庄城を守護し、領内の政務を裁断した。戦後、信濃国の旧領に移され高遠城主として二万五千石を領した。
 大坂「冬の陣」では淀城を守り、元和元年(1615)の「夏の陣」では軍功を挙げたが多数の家臣が討死している。その後、越後国三条城、大坂城、伏見城の城番を勤め、加増されて三万石を領した。正光は将軍秀忠の庶子正之を預けられて養育に努め、のちに正之を養子として家督を譲った。保科氏を継いだ正之は寛永十三年(1636)に出羽二十万石、さらに三万石の加増を受けて会津若松に移された。そうして、将軍家光を補佐して姓も松平に改め「徳川家御家門」として、御三家・御三卿に次ぐ家格となった。幕末の京都守護職・松平容保はその後裔となる。

保科氏の血脈、飯野に残る

 ところで、正直の三男正貞も幼少より家康の側近に仕えたが、兄正光の勘気を受けて浪々、大坂夏の陣に参加して身を立て、慶安元年(1648)上総国飯野に一万七千石を与えられ小さいながらも大名に出世した。
 正貞には実子の正景があったが出奔して行方知れずとなり、小出吉英の三男正英を養子として迎えた。その後正景が家に戻って嗣となり、子孫は飯野二万石の藩主として明治維新に至った。養子正英は二千石を分与されて、旗本家保科氏として続いた。


■参考略系図



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