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渋江氏
●橘
●橘姓
・渋江氏が氏神として崇敬した潮見神社の神紋は橘紋であり、渋江氏ら肥前橘一族も橘を用いたものと思われる。
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中世を通じて肥前国長島庄を領した渋江氏は、橘氏の流れと伝えられている。伝承によれば、天慶年間(939〜41)に東の平将門とともに伊予で反乱を起こした藤原純友を征伐した橘朝臣好古の後裔という。好古は功績によって、従三位大納言鎮守府将軍に叙仕され、伊予国を賜わって宇和郡の城主となった。つづいて、橘朝臣公光のとき、勲功によって鳥羽上皇から「公」の一字を賜り、これより代々の実名に公の宇を用いるようになった。そして、公光の孫がはじめて長島庄に入った公業である。
渋江橘氏の出自考察
公業は右馬允公長の子で、はじめは父とともに平清盛の子知盛に仕えていたが、治承四年(1180)、鎌倉に下って源頼朝に仕えることになった。
『吾妻鏡』によれば、「公長は弓馬の達者で、平重衡が東国を攻めるために出陣するときそれに副えられた。しかし、平家の衰運を感じた公長は、かつて源為義に受けた恩義もあり、都を離れて東国を志した」とある。そして、はじめ加賀美長清に属し、ついで御家人として召されたのだという。公長の男子公忠・公業も弓の名手で、頼朝の幕下に入った翌日兄弟ともに射芸を披露している。以後、頼朝の家人となった公長父子らは、平氏との戦いに功をあげ、鎌倉幕府創業の功臣となったのである。
ところで、『吾妻鏡』の嘉貞二年(1236)の条に、「伊予国宇和郡のこと、…公業先祖代々の知行、なかんづく遠江掾遠保、勅定を賜り、当国の賊徒純友を討ち取りてより以来、当郡に居住し、子孫に相伝せしむること年久し。…」とあって、公業は遠江掾遠保の子孫と記されている。
渋江氏の伝えによれば、藤原純友を討ったのは橘好古となっている。しかし、当時の記録などから藤原純友追討のために派遣されたのは小野好古であり、橘好古ではなかった。そして、『本朝世記』には、小野好古と戦って敗れた純友は伊予に逃げ帰ったが、当時、伊予警固使であった橘遠保がこれを討って首を都に送ったとみえている。橘遠保の子孫は宇和島に土着し、その地方における有力な在地豪族に成長、やがて武士化していきながら公長、公業らに至ったと考えられる。
このように、渋江橘氏は伝えられるように橘朝臣好古の子孫ではなく、遠江掾遠保の子孫であったとみる方が自然であろう。ちなみに、中世の系図書として信頼性の高い『尊卑分脈』に収録された橘氏の系図にみえる好古の流れには、渋江橘氏の祖とされる橘朝臣公長、公業らは見えない。おそらく後世にいたって小野好古の事蹟を橘朝臣好古に置き換え、さらに遠江掾遠保に代えて橘朝臣好古を祖とする系図を作為したのであろう。
・渋江氏ら肥前橘一族が氏神として崇敬した潮見神社の幕に見える橘紋。
肥前に足場を築く
頼朝に仕えて功のあった公業は宇和島の旧領を安堵されるとともに、出羽国秋田郡内に領地を賜わった。そして、承久三年(1221)に起こった承久の変に際しては、北条泰時に従って上洛、幕府方として活躍した。ところが、嘉貞二年、幕府は公業の本領である宇和庄を西園寺公経に与えた。これは、西園寺公経が宇和郡を強く望み、幕府はやむをえず橘公業から宇和郡を取り上げ公経に与えたのであった。公業には替地として、肥前杵島郡長島庄・大隅国種ケ島・豊前国副田庄・肥後国球磨郡久米郷が与えられた。ここに至って、公業は出羽国秋田郡の所領は末子公員に譲り、みずからは父祖伝来の宇和郡を去って肥前長島庄に下向したのである。
公業のあとは、公義が惣領として長島庄を譲られたようだ。公義のとき、三浦氏の乱が起こり、公義は幕府に味方して出陣、弟の公員が戦死をとげた。つぎの公村のとき、じめて姓を渋江と改め、その弟三人は分家して、牛島・中村・中橘を名乗らせた。勅許の行事は渋江本家のみに伝えて分家には教えず、この行事を代々伝承して橘姓渋江氏嫡流の証しとしたとされている。公村のあとの公経は、種子島を公次に、豊前国副田庄を公多に譲与した。このように、渋江氏は惣領制による相続で惣領渋江氏の領地は長島庄のみとなった。
公経の代に鎌倉幕府が滅亡して建武の新政がなったが、足利尊氏の謀叛で新政が崩壊して南北朝の動乱を迎えると、公経は足利尊氏党の九州探題一色範氏(道猷)に属して活躍した。興国元年(1340=暦応三年)、南朝方の菊池武敏が山鹿城に立て籠ったとき、公経は討伐軍に参加して一族郎党に犠牲者を出した。正平五年(1350)、足利直冬が西肥前に侵攻したとき、これに味方した塚崎の後藤光明は探題方の公経の拠る潮見城を攻撃した。正平十一年(1357=延文二年)、探題一色道猷の軍勢催促に応じて出陣、菊池・阿蘇氏らと肥後に戦い、益城郡の犬塚原の戦いで討死したという。その後、公経の嫡男公重は正平二十三年(1368)より文中元年(1372)まで、南朝方に通じる塚崎の後藤氏を攻撃している。
このころ、九州では征西将軍宮懐良親王と菊池武光が結んで南朝勢力が振るい、幕府はこれに対抗するため応安四年(1371)今川了俊を九州探題として下向させた。渋江氏は了俊の弟仲秋を支援して、塚崎の後藤氏らと対立した。天授四年(1378)、菊池一族が蜂起すると、公重は一族の上村対馬守を名代として探題方に参戦した。翌年には大崎但馬守を、ついで弘和元年(1381)には但馬守の子又四郎を名代として送っている。このように渋江氏は、探題今川氏に属して各地を転戦した。
了俊の活躍によって九州南朝方は次第に劣勢となり、ついに幕府方の優勢が決定した。そして、明徳三年(1392)、足利義満によって南北朝の合一がなった。
渋江氏、雌伏の時代
九州に幕府方権力を確立した今川了俊は、その権勢を危惧する足利義満に対する大内・大友氏らの讒言によって、応永二年(1395)、探題職を解任されると京都に召還された。その後の九州探題には渋川満頼が任じられ、それを大内氏が支援した。応永十一年、公治は探題軍に潮見城を攻められ降伏した。これを境として、潮見城主渋江氏の動向は史料上から知られなくなる。
代わって、渋江一族の中村氏が台頭してくる。中村公廉は小城に進出し、千葉氏に属してその重臣となり、ついには千葉胤鎮を廃してその弟の胤紹を擁立するという謀略をなしている。このころ、渋江氏は同族である牛島氏と骨肉の争いを演じ、さらに勢力を衰退させていた。
室町時代は、将軍家をはじめ、守護大名、地方土豪に至るまで家督をめぐる内訌が多かった。それが、慢性的な争乱を生みだし、応永の乱・永享の乱などが断続して起こった。九州では探題渋川氏とこれを援助する大内氏、それに対する少弐氏との間で抗争が展開された。渋江氏ら肥前の武士もそのいずれかについて戦ったが、武雄地方では応仁・文明の乱前後の頃まで、後藤、渋江・武雄神社神主家らはいずれも少弐・千葉氏に属して探題渋川氏と戦っている。
応仁元年(1467)、京都を中心にして起こった応仁の乱によって、世の中は下剋上が横行する戦国乱世へと推移していった。肥前では、小城千葉氏が勢力拡張を計って藤津郡に本拠地をもつ大村家徳と争い、文明二年(1470)に家徳を破った。ついで、文明八年には大村家親を攻め、これを降した。文明十五年、渋江公直は大村胤明、後藤職明、伊万里仰らと攻守同盟を締結しているが、これは千葉氏の侵攻に対するものであったようだ。
かくして、肥前にも戦国の嵐が吹き荒れるようになった。十五世紀から十六世紀にかけての渋江氏の当主は薩摩守公勢で、その妻は後藤職明の女であった。二人の間に生まれた純明は後藤氏の家督を継承し、公勢は長島庄河古日鼓岳城主として橘渋江氏の全盛期を現出した。
公勢の全盛と、渋江氏の衰退
公勢がいかにして勢力を拡大したのかは、記録もなく不明なところが多い。『橘家渋江由来記』によれば、公勢は武威を振るい、上松浦の波多興信、杵島郡塚崎の後藤職明、藤津の原越後守、白石の白石道勝、多久氏、平井氏ら、近隣の諸領主は人質を出して公勢に属していたとある。これを裏付ける史料が乏しいとはいえ、相当の勢力であったことがうかがえる。また、有馬氏のために領地を失っていた大村純伊を支援し、その本領回復を実現させたのは公勢であった。
永正元年(1504)、大番役のため三年在京していた公勢は、帰国の途についた。そのころ、肥前では有馬尚鑑と大村純伊が戦い、敗れた純伊は本拠を出奔した。その後、伊勢大神宮に本領回復を祈願するため、大津の関に至った。そこで、同じく帰郷の前に伊勢詣を思い立って大津に着いたところの公勢と出会った。純伊の不運を聞いた公勢は、ただちに援助することを約束し肥前長島に帰った。永正四年、軍勢を催した公勢は大村純伊とともに有馬を攻撃、激戦のすえに有馬勢は敗退し純伊は本領を回復することができた。とはいうが、この話は虚構であったとする説もある。
渋江氏は潮見城を本拠としていたが、公勢は一族井手氏の日鼓山を新たな居城として乱世に対した。公勢の長男澄明は後藤氏を継承しており、公勢は二男の公政、三男の公親とともに日鼓城に住した。公勢は公親を嗣子としていたため、公政の乳母はなんとか公親を害して公政を跡継ぎにと考えていた。そんな大永七年(1527)三月のある日、公勢は公政・公親と鞠遊びに興じ、公親が飲み水を望んだ。好機到来と喜んだ乳母は毒を入れた水を公親に進めたところ、それを先に公勢、残りを公政が飲み、両名とも命を落してしまった。
この不測の事態によって家を継いだ公親は、いまだ十三歳の少年であった。公勢が横死した直後、公勢の長男後藤純明が実家渋江氏の内訌に付け込み、渋江氏は領地を奪い取られるという結果になった。城を逃れた公親は、母の実家である壱岐の波多氏の許に身を寄せた。以後、公親は十年以上にわたって雌伏を余儀なくされた。
天文十一年(1542)、波多氏、松浦氏らの応援をえた公親は長島庄に進攻し、後藤純明の軍と戦い、激戦のすえに後藤軍を破り日鼓城に復帰することができた。しかし、それから三ヶ月後、大軍を催した後藤純明が日鼓城に攻め寄せてきた。渋江勢は固く城を守って後藤勢を迎え撃ったが、後藤勢は大軍でありつぎつぎと城兵は討たれ、公親はふたたび城から脱出せざるをえなかった。
渋江氏の流転
公親は龍造寺家を頼って佐嘉の与賀に落ち延び、息子の公師と公重は肥後国山鹿の談議所寺に隠棲した後、同国菊池郡赤星村の山鹿(赤星)重行の許に身を寄せた。
やがて、肥前では東部に龍造寺氏が、西南部に有馬氏が勢力を伸長するようになった。有馬氏は大村氏と協力して着々と領域を拡大し、長島・武雄方面に進出してきた。この事態に対するため後藤貴明は、公重と公師を長島庄に「帰参」させ、有馬氏の侵出に備えさせた。永禄二年(1559)のことで、十七年ぶりに旧領への帰還が実現した。
翌永禄三年、渋江氏の氏神潮見明神の神託があった。それは、「城内にある鉄砲で人を殺すことは当域の穢れであり、急ぎ鉄砲を城外に運び出せ、敵がくれば神力をもって退治する」というものであった。これを聞いた公師と公重は、いかに潮見明神の神託とはいえ、有馬勢を迎かえ撃つのに鉄砲は不可欠であり従うことはできないとした。ところが、公親は二十年近い苦難の末に長島庄を回復できたのは、潮見明神の庇護によるところであり神託を無視することはできない、と言って鉄砲を城外に運び出させた。
神託の一件は、有馬氏の謀略で渋江氏はまんまとそれにひっかかってしまったのである。謀略が成功したことを知った有馬氏は、ただちに潮見城に押し寄せ、火の出るような攻撃を加えた。対する渋江勢は、鉄砲もなく兵はつぎつぎと討たれ、ついに公重は討死し公師は妻子のいる菊池へと落ちて行った。後藤純明はすぐに急襲して有馬勢を討ち果たして潮見城を奪還し、永禄五年(1562)四月、ふたたび公師を帰参させた。永禄七年、有馬勢は渋江氏を攻撃、公師は貴明に急を報じると有馬軍を迎かえ撃った。そして、後藤軍と連携して有馬軍を挟撃すると散々に打ち破った。
天正二年(1574)、後藤貴明と養子の惟明との間で内訌が起こり、貴明は龍造寺隆信に支援を求め、以後、後藤氏は龍造寺氏の麾下に属した。天正五年、龍造寺隆信は後藤貴明と語らって大村純忠を攻め、純忠は公師を頼って龍造寺方に降った。翌年、公師と貴明との間に不穏な空気が漂った。その原因は、貴明が惟明と戦ったとき公師が惟明に味方した節があったということ、前年の大村攻めに際して公師がその才覚で大村氏の帰服を仲介したことを貴明が忘恩の行いと断じたことにあった。
乱世に呑まれる
公師は城を出て宮村に落ち着くと、波多親・松浦法印(鎮信)・大村純忠をたのみ、再起を図ろうとした。その後、龍造寺隆信の勢力はいよいよ拡大し、有馬氏、大村氏らは隆信の麾下に属するようになった。公師も二男の公茂を人質として佐嘉に送り、隆信に帰服した。天正十年、有馬晴信は島津氏に通じて隆信から離反した。天正十二年、隆信は有馬氏を討つため三万の大軍をひきいて出陣したが、島原の沖田畷において有馬・島津連合軍に敗れて戦死した。
隆信を討ち取った島津氏は筑後・筑前へ進出、大友氏の軍と戦った。戦況は著しく大友氏が不利で、天正十四年、上坂した宗麟は豊臣秀吉に救援を請うた。秀吉はこれを入れると九州征伐の陣ぶれを行い、天正十五年にはみずから兵を率いて九州に入った。島津氏は秀吉に降り、九州は秀吉政権に組み込まれた。その後の論功行賞で領地の配分が行われたが、公師は旧領回復はならず大村氏の扶助を受ける身となった。その後、波多三河守に招かれ、嫡男公種を大村氏にゆだねると波多氏のもとに赴いた。
文禄元年(1592)、秀吉の朝鮮出兵が開始されると、波多三河守は朝鮮に渡海、公師は留守居となり名護屋に在陣した。ところが、三河守は朝鮮における不首尾を責められ改易処分となり、公師は龍造寺政家に預けられた。慶長三年(1598)、秀吉が死去したのち松浦氏を頼り壱岐において扶助を受けた。ここに、渋江氏は独立した領主としての望みも失われ、鎌倉以来の中世領主たる渋江氏は幕を閉じたといえよう。
公師は系図を嫡男の公種に譲り、祖先以来の水神の行法は公茂・公延・公記らに付属せしめた。慶長十九年の大坂の陣に際して、公茂・公延は大坂方に加わったが、落城ののち肥前に帰った。公茂は波佐見に隠居し、公延は晩年長崎建水神社へ隠居したという。・2005年5月11日
【参考資料:武雄市史/北方町史 ほか】
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常民研News:渋江家の没落と童信仰の伝播 /
橘屋宗兵衛
■参考略系図
・『武雄市史』に掲載されていた渋江氏系図をもとに作成。
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渋江氏は橘好古の子孫を称している。しかし、それは後世の付会というべきもので、
橘遠保の子孫とするのが真に近いようだが、それとても確証があるわけではない。
橘姓渋江氏の初期のころの系図を別にアップした。
●系図:バージョン1
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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