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肥前後藤氏
●下り藤/開扇
●利仁流藤原氏
開扇は後藤氏が崇敬した武雄神社の神紋で、神の加護を期待して用いるようになったものであろう。後藤氏の後身である近世武雄鍋島氏の家紋でもある。
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後藤氏は、鎮守府将軍藤原利仁の五代の孫公則が肥後守に任ぜられ、肥後の藤原から後藤氏を名乗ったのが始まりという。肥前の後藤氏は公則の曾孫坂戸判官章明が、肥前国墓崎(つかざき)の総地頭になったことが最初である。坂戸は河内国にあり、公則は河内守にも任ぜられ、章明の祖父則経も河内守であったことから、後藤氏は河内国と関係を持ち、ついには土着して在地豪族化していったものと思われる。しかし、その河内の後藤氏が肥前墓(塚)崎の補された理由も、それを裏付ける史料もない。
則経・則明父子は源頼信・頼義に仕えたといい、後藤氏が同じく河内を根拠地とする清和源氏との間に関係を築いていったことがうなづける。章明の子資茂は源義家・為義に仕えて各地を転戦し、元永年中(1118〜20)にはじめて墓崎に下向したといわれる。そして、御船山麓の武雄神社を遷座させ、その跡地に城を築いて本拠とした。資茂のあとを継いだ助明は、黒髪山の大蛇退治の伝説で知られている。
後藤氏の事蹟が、史料的にも確認できるようになるのは助明の次の宗明からである。すなわち、建保六年(1218)の源披所領譲状案に「治承年中(1177〜81)…墓崎地頭宗明」と見え、医王寺の薬師如来像の背面に「藤原宗明」の承安二年(1172)の像造銘が残されている。後藤氏はこの宗明のときに鎌倉幕府御家人となり、以後、代を重ねて戦国時代の純明・貴明に至るのである。
宗明は源平の争乱に際して、代々源氏と深い関係にあったことから源氏方に立ち、寿永二年(1183)、平家が西国に奔ったとき、武雄神社神主守門とともに太宰府を攻撃した。文治元年(1185)の壇の浦の合戦には、源範頼に属して活躍、翌年源頼朝から御教書を賜った。宗明のあとは嫡男の清明が継ぎ、二男の公明には西山村、三男の信明には富岡村を分与している。ついで、清明は二男共明に八並を分与し、西山・富岡・八並後藤氏が生まれた。後藤氏が庶子を分立、惣領制をもって統率していたことが知られる。
中世の争乱
清明の曾孫直明は、宝治元年(1247)の三浦氏の乱に際して、三浦氏に加担したとの嫌疑を受け所領没収の憂き目を味わった。身の潔白を訴えて、二男氏明が将軍より旧領安堵の御教書を賜ることができた。氏明の代に元寇の役が起こり、氏明は一族の中野氏らとともに博多に出陣、戦後、功により神埼郡内に領地を賜った。
氏明のあと幸明を経て光明のとき、鎌倉幕府が滅亡して建武の新政がなったが、やがて足利尊氏の謀叛によって新政も崩壊した。一時、九州に逃れて再起を果たした尊氏は、一色道猷を九州探題に任じて九州宮方に対峙させると、兵を率いて西上、京都を征圧すると足利幕府を開いた。以後、半世紀にわたる南北朝の動乱時代となる。光明ははじめ足利方(北朝)に属したようで、道猷の命を受けて松浦郡に出張して領地争いを鎮圧している。
延元二年(1337)菊池氏の拳兵によって探題が軍勢を集めたとき、武雄神社に出兵を要請した古文書が残ることから、武雄地方の御家人も探題方についたのであろう。塚崎荘の後藤氏は菊池氏征伐の勲功によって、鳥栖神辺荘の地頭職に補任されている。その後、観応の擾乱が起こると、足利直冬が第三勢力として九州に登場してきた。足利直冬と探題一色入道が杵島郡高裾野で戦ったとき、後藤、渋江橘氏をはじめ武雄社大宮司家らは直冬方に従っている。以後、九州は武家方、宮方、直冬方(佐殿方)の三つ巴の抗争が展開されたが、一色氏の肥前国への影響カは依然として強く、以後数年間鎮西の御家人の動向は微妙であった。やがて、直義が敗れて殺害されたことで、直冬は中国に奔り宮方がふたたび北上、宮方との決戦に敗れた一色氏は長門に逃れた。
一色氏が九州から退去すると、少弐氏はふたたび武家方に転じ、宮方と対立するようになった。正平十四年(1359)、少弐氏は大友氏と結んで菊池武光の率入る宮方軍と筑後川で戦い、壊滅的敗北を喫した。この戦いに武雄神社大宮司家は少弐方に従っているが、後藤氏は『鎮西要略』では宮方、『北肥戦誌』では少弐方とあって、それぞれ記載が異なっている。この戦いののち、九州宮方は勢力を拡大、ついには太宰府に入ると征西府を立て、九州宮方の全盛時代が現出した。対する幕府は、今川了俊を九州探題に任じ九州経営を任せた。了俊は一族を率いて九州に下向、弟の今川仲秋は呼子に上陸し、文中元年(1372)二月には塚崎に入りここを拠点にした。これからみて、後藤氏は今川方に参加したようだ。
以後、肥前武雄地方の西山・潮見・武雄・牟留井の各城では、今川氏と後藤・渋江橘氏らが官方と攻防を繰り返した。そして天授三年(1377)、菊池氏は肥前国府に近い千布の戦いで今川軍に敗れ、九州南朝方の衰退は決定的となった。そして、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり、半世紀におよんだ内乱も一応の終息を見せた。
戦国時代への序奏
九州に幕府権力を確立した今川了俊は、その権勢を嫌った大内・大友氏らの讒言により、探題職を解任されると京都に召還されていった。そのあとには、渋川満頼が探題に任じられ、それを大内氏が補佐する体制となった。後藤氏は光明のあと、朝明・俊明・資明と続いたことが系図から知られるが、それぞれ詳しい事蹟は分からない。資明のときより長島庄を領したといわれるが、長島庄は渋江橘氏の本領であり、領したとしてもその一部に過ぎなかったと思われる。
資明の子英明は、将軍足利義持から「肥前国杵島郡、塚崎長島両庄以下本職本領所之事」と安堵されていることから、長島庄を領していたことは疑いない。また、その御教書は渋川氏重の奉行によったもので、後藤氏が探題渋川氏に属していたことも知られる。英明のあとを継いだ正明に与えられた安堵状には長島庄の文字はないが、備前守(英明)跡とあり、長島庄を含めて安堵されたものと思われる。このように、室町時代において後藤氏は隣接する渋江氏領である長島を兼領する勢いを示したのである。
応仁元年(1467)、応仁の乱が起こると、世の中は弱肉強食の戦国乱世となった。肥前も群雄が割拠する状態を呈し、東部に千葉氏、南部に有馬氏、北西部には松浦氏らが勢力を誇示し、その間に渋江橘氏、藤津大村氏、武雄後藤氏、伊万里氏らが攻守同盟を結んで自家保全につとめた。ときの後藤氏の当主は職明で、千葉氏らの有力大名からたえず圧迫を受ける立場にあった。男子のなかった職明は、娘婿にあたる渋江公勢の長男純明(澄明)を養子に迎えていた。
大永七年(1527)渋江氏で家督をめぐる争いから、純明の実父公勢と弟の公政が頓死した。あとを継いだのは下の弟で、いまだ十三歳の公親であった。実家の混乱に乗じた純明は、たちまち日鼓城を攻略して長島庄を併呑した。享禄三年(1530)、有馬晴純が塚崎を攻め黒髪城に迫った。純明は黒髪山に勝利を祈願すると、三間坂村に陣を布く有馬の陣に夜襲をかけ勝利をえた。
その後も有馬氏は後藤氏攻略の機会を探ったが、両者の対立は肥前西部に台頭著しい龍造寺氏を利することになり、純明は有馬晴純の妹を娶って両家は和睦した。天文四年、有馬晴純が龍造寺家兼と藤津郡で対戦すると、純明は晴純を支援して出陣、龍造寺方を撃退した。同九年、有馬仙岩(晴純)は千葉喜胤と横辺田で戦った。純明は須古の平井経則とともに有馬軍に属し、千葉方は敗走し西肥前は有馬氏が領するところとなった。
時代の転変
天文十一年、さきに純明によって長島庄を追われた渋江公親は、波多氏、松浦氏らの援軍を得て長島庄に進出してきた。この報に接した純明は、ただちに黒髪城を出陣して公親と戦ったが敗れ、旧領を回復した公親は日鼓城に入った。ほどなく体制を立て直した純明は、同年秋、日鼓城を攻め公親を追放した。城を脱出した公親は小城に逃れ、さらに佐嘉に奔って龍造寺氏を頼った。その後、純明は黒髪城から武雄城に居城を移して長島庄の支配を強化した。
このころになると、鎌倉・室町期以来の有力大名であった少弐氏、千葉氏らは衰退し、代わって台頭した龍造寺氏が近隣にその勢力を拡大しつつあった。天文十二年、少弐氏の重臣馬場肥前守が龍造寺排斥の謀略を企て、これに有馬・多久・波多・鶴田氏らとともに後藤氏も加担し龍造寺軍と戦った。この謀略によって龍造寺一門は壊滅し、龍造寺剛忠入道は筑後に逃れた。その後、鍋島氏の活躍によって肥前に帰った剛忠は、ただちに馬場氏を討ち取り一門の仇を報じた。ここに馬場氏の企ては失敗に帰し、結果として少弐氏の滅亡を決定付けるものとなった。
男子に恵まれなかった純明は、天文十四年(1545)、隣領大村領主、大村純前の次男又八郎を養子に迎え後継者にした。又八郎は貴明と名乗り後藤貴明になった。一方、実家の大村家では島原の有馬晴信の二男勝童丸を養子に迎え、勝童丸は純忠を名乗って大村氏の当主となった。
他方、一時勢力を失った龍造寺氏は隆信が家督を継ぎ、大内氏と結んで着々と失地の回復につとめ、あなどれない勢力に成長していた。ところが、天文二十年、大内義隆が陶賢の謀叛で殺害されると、後楯を失った隆信は筑後に逐われた。しばらくの雌伏のすえに肥前い復帰した隆信は、永禄二年(1559)少弐氏を滅ぼし、元亀元年(1570)には大友氏の攻撃を今山の合戦で撃ち破り、東肥前をほぼ統一した。そして、肥前西部に目を向けた隆信は、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏を牽制するために、実弟龍造寺長信に石井周信、福地信盈らを付して多久城に駐屯させた。
天正元年(1572)竜造寺軍は松浦地方に侵攻し、草野鎮永・波多親・鶴田勝ら松浦党の面々を降し、多久へ帰陣した。翌年には、武雄城主後藤貴明、須古城主平井経治を攻め、天正八年(1580)、肥前国をほぼ制圧した。
龍造寺隆信の台頭
この間の永録十四年(1563)、大村純忠は洗礼を受けて正式に切支丹に入信しドン、ベルトラメラを称した。当時の切支丹は布教を前面に押し出しているものの実際は貿易、武器商人でヨーロッパからきた切支丹は入信を条件に武器の援助、南蛮貿易を積極的にしていた。龍造寺隆信の勢力拡大に危機を募らせる大村純忠は、隆信に対抗するには切支丹に入信する以外にないと考えたのである。ところが、純忠の入信を喜ばない家臣は大挙して武雄後藤氏の家臣になり、大村領であった北部波佐見、川棚、彼杵等は労せずして後藤氏領となった。
後藤貴明は、本来自らが継ぐはずであった大村氏の養子となった大村純忠を敵視し、事あるごとに大村純忠を攻撃、一度ならず純忠を追いつめた。佐世保湾の奥にある当時の海外貿易港として有名な横瀬浦を攻撃炎上させたのも後藤貴明であった。しかし、後藤貴明は須古城攻めや大村以外での戦闘が続き、結果的には大村純忠の息の根を止めることはできなかった。
後藤貴明は夫人が早去した事もあって子に恵まれず、 平戸領主松浦隆信の次男惟明を養子に迎えた。 天正二年(1574)六月、惟明は実父松浦隆信の意向を受けて、養父後藤貴明の暗殺を企てた。これを事前に察知した貴明は黒髪城へ単身逃亡し、家臣を召集して惟明と対峙した。このとき、後藤貴明は敵対していた竜造寺隆信に援軍を依頼したため、龍造寺の兵が到着すると惟明は平戸に逃げ帰った。 その後、後藤貴明は竜造寺隆信と和睦し貴明の長男、晴明と竜造寺隆信三男家信との相互養子をおこなった。これにより、龍造寺家信は家臣五十名余りを連れ武雄(旧塚崎庄)に入り後藤家を継いだ。
家信は後藤家を継いだものの龍造寺隆信の三男であり、以後、後藤氏は龍造寺一門に列らなることになる。さらに、隆信の跡を継いだ龍造寺政家より竜造寺の姓を賜り龍造寺家信となった。
その後の後藤氏
天正十二年(1584)、竜造寺氏に従っていた有馬晴信が、島津氏の後援を受けて、島原半島で兵を挙げた。ただちに隆信は、大軍を率いて島原に出陣した。竜造寺氏の勝利は間違いないことのように思えたが、ここでまさかの敗戦を喫し、龍造寺隆信はあえなく戦死してしまった。
龍造寺隆信の戦死後、鍋島信生が事態の収拾に全力を尽くし、家臣団の動揺を緩和することに努めた。信生は直茂と改名し、ときの天下人豊臣秀吉に使者を送って好を通じ、秀吉の九州征伐では先陣を仰せつかり、龍造寺政家とともに肥後へ出陣した。その後、秀吉の知遇を得た直茂は、政家に代わり国政を執るべきことを命じられ、ついには、龍造寺宗家の断絶を受けて、佐賀藩主となるに至った。
ところで家信は、ルイス=フロイスの『 日本史』に、キリスト教への理解を示した人として紹介されている。天正十八年(1590)に秀吉から二万石弱の領地を与えられ、その臣下になっている。その後、後藤氏は鍋島氏に属し佐賀藩初代鍋島勝茂より鍋島姓を賜り鍋島姓となった。以後、子孫は武雄鍋島家として続き、明治維新のとき男爵を授けられた。・2005年5月11日
・右家紋:開扇
【参考資料:武雄市史 ほか】
■参考略系図
・尊卑分脈/武雄市史所収の系図などから作成。
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