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芳賀氏
左三つ巴/陰左三つ巴
(清原氏族)


 芳賀氏は、清原氏の出身と伝えられている。清原夏野の五代の孫吉澄が滝口蔵人に任ぜられた。ところが吉澄の子高重は花山天皇の怒りを蒙ることがあり、寛和元年(985)、真岡の鹿島戸に流罪となりその子孫も流人の生活を送った。その後、高澄にいたり「前九年の役」に源頼義の軍に従い、軍功によって祖先の罪を許されるとともに後冷泉天皇より滝口蔵人に任ぜられたと伝える。以後、十三年間京で生活したのち鹿島戸に帰り、はじめて芳賀氏を称したという。以上が、芳賀氏の出自に関する伝承である。

芳賀氏の出自考

 芳賀氏は系図によれば、天武天皇の裔清原高重が流罪されたことに始まる。高重は「従五位下大監物」とあるから下級貴族であったということになる。こうした都の貴人が流罪されたことによって、流罪地に勢力を築くという流罪伝承は各地にある。
 さて、芳賀氏の先祖が清原氏であるということは、諸説がほぼ一致している。たしかに清原氏は天武天皇の子舎人親王を始祖とする氏族であり、『尊卑分脈』によれば寛弘元年(1004)に海宿祢広澄が清原真人姓を賜ってから、広澄系清原氏が下級官人として中世における清原氏の主流となった。いいかえれば、寛和元年(985)に、下野に流罪となった広澄の甥にあたる高重が清原姓を名乗っていることはあり得ないのである。さらに、芳賀氏の先祖清原高重の名は『尊卑分脈』などの比較的信頼できる系図には見当たらない。
 とはいえ、系図によれば、高重の五代の孫高澄より四代(実際は孫にあたる)の範高が宇都宮(八田)宗綱の郎従となり、以後、益子氏とともに宇都宮氏の両翼となった。七代高親は、益子高重とともに宇都宮朝綱の軍に属して、源頼朝の奥州征伐に参加し、帰ってから御前城を築いたといわれる。
 ちなみに『宇都宮興廃記』には、「芳賀家は人皇四十代天武天皇の皇子 一品 舎人親王九代の後裔・瀧口蔵人 清原高澄の男 高重、花山法皇の勅勘を蒙り、下野に配流され芳賀郡大内庄に住して、七世の孫次郎大夫高親の時に、宇都宮宗綱の旗下となる」と、ほぼ通説と同内容の記事がみえている。しかし、寛和元年に生きていたとされる高重から二百年後の頼朝の奥州征伐に参加した高親まで、十二代を数える歴代はあまりに多すぎるものといえる。
 おそらく、芳賀氏の先祖にあたる人物は清原姓を称していて後世に芳賀系図を作成したとき、清原姓が生まれた十世紀の人物である広澄に系をつなげたのではないだろうか。そして、清原を名乗ったのも、血縁というよりは主従関係から名乗るようになったものと想像される。あるいは、清原高重は流人であったとしても身分の高い人物ではなかったが、中央から流された貴種性をもって、芳賀郡司をしていた豪族の家に婿入りしたものかも知れない。

紀清両党の誕生

 文治五年(1189)、源頼朝は奥州藤原氏征伐の軍を発した。藤原氏は頼朝の大軍を伊達郡厚樫山に迎え撃った。双方、万余を数える軍勢で、藤原氏の大将国衡は、鎌倉軍を容易に寄せつけなかった。そこで、小山朝光と宇都宮朝綱の家臣である紀権守・波賀次郎大夫以下の七人は、密かに陣を抜け出し国衡の後陣の山に登って夜明けとともに鬨の声を上げて矢を射かけたため、国衡以下の諸将はたちまち逃亡した。
 厚樫山の陣を破った鎌倉勢は破竹の勢いで北上し、奥州藤原氏はもろくも敗れ去った。厚樫山の勝利は合戦の勝敗を決した戦いとなり、その勝利に貢献した裏山からの奇襲隊がもっとも頼朝から誉め讃えられたたことは当然であった。『吾妻鏡』には紀権守と波賀次郎大夫が宇都宮氏の家臣であることから所領を賜ることはできなかったが、旗二流を下されたと記されている。しかし、芳賀・益子の両氏は幕府御家人としても把握されていたようだ。
 このように厚樫山の戦いで大活躍した益子氏と芳賀氏は、のちに「紀清両党」といわれて宇都宮氏の軍事力を支える有力軍事集団となった。それまで益子氏と清原氏は宇都宮氏に属していただろうが、「紀清両党」として認識されるようになったのは、頼朝がそれぞれに旗を与えたことが御墨付きとなり集団としての結束と、主家である宇都宮氏からの一定の自立を促すことになったようだ。加えて、当時の芳賀氏は宇都宮氏と主従関係というよりは同盟関係にあったとする説もある。芳賀氏が宇都宮氏に従っていたことはまぎれもないが、一方的に服従するというものではなく、契約制の強い関係で、それが何代も続くことで次第に主従関係が形成されていったというのである。
 そのような芳賀氏と宇都宮氏の関係が進んでいったのが鎌倉時代であったようだ。そして、鎌倉時代の芳賀高俊以降の芳賀氏の歴代は諸系図ほぼ一致することから、高俊をもって中世芳賀氏の始祖といえるのではないだろうか。それを裏付けるように高俊は飛山城を築き、菩提寺の同慶寺も建立している。この高俊こそ南北朝期の芳賀氏活躍の土台を築いた人物であった。

南北朝の争乱

 元弘三年(1333)正月、宇都宮公綱は北条高時の命を受けて上洛し、大坂四天王寺で楠木正成と対峙した。『太平記』には「宇都宮は坂東一の弓取也、紀清両党の兵、元来戦場に臨で命を棄る事塵芥よりも尚軽くす」と記され、公綱に従った紀清両党の勇猛ぶりが記されている。その後、宇都宮公綱は、後醍醐天皇の綸旨を受けて天皇方となった。建武新政権下では雑訴決断所の一番の奉行を務めた。
 建武二年(1335)足利尊氏が建武政権に反すると、公綱は新田義貞に属して箱根竹の下で足利尊氏と戦うが大敗し尊氏軍に降った。しかし、京都を占領した尊氏が北畠顕家軍に敗れて九州に落ちると、ふたたび天皇方に属した。ところが、九州で態勢を立て直した尊氏が京都に攻め上ってくると、後醍醐天皇は比叡山に逃れた。このとき、公綱は天皇に同行している。やがて、天皇と尊氏の間に講和が成立したが、翌建武三年、講和は破れ後醍醐天皇は吉野へ遷幸した。
 以後、南北朝の内乱が展開することとなる。公綱は一貫して南朝方として各地を転戦し、建武四年、北畠顕家がふたたび上洛軍を起こすと、公綱も紀清両党千余騎を率いて顕家軍に従った。翌五年五月、足利軍と顕家軍とは和泉国石津浜で戦い、激戦の末に北畠顕家は戦死してしまった。
 戦いに敗れた公綱は宇都宮へ帰り、髪をおろして仏門に入ったが、後村上天皇から東国静謐の計略をすべしとの勅命を蒙りそれに従ったという。このように宇都宮公綱が時代の激流に翻弄されているころ、宇都宮方の事実上の指揮者は芳賀兵衛入道禅可(高名)であった。建武四年公綱が顕家軍に合流したときも禅可のみ公綱の嫡子加賀寿丸(のちの氏綱)を擁して宇都宮城に立て籠った。芳賀高名は足利尊氏の義兄にあたることから、公綱の兄で高名の養子でもある綱世(芳賀高貞=養子説に関しては異説がある))と謀り、公綱の子氏綱を擁して足利方に属したのだとする説もある。
 延元四年(1339)二月、南朝方の春日中将顕時は下野に出陣し、八木岡城を攻略し、ついで益子城を奪取した。宇都宮勢は、宇都宮貞綱の拠る上三川城と芳賀氏支流大内氏の拠る箕輪城を放棄する事態に追い込まれた。春日顕時はさらに兵を進め、興国元年(1340)八月、石下城を攻略し、翌年八月には、芳賀氏の飛山城を落城させた。
 こうして、南朝方は東国における拠点を一時的にとはいえ作り上げることに成功した。とはいえ、康永二年(1343)関・大宝両城の陥落によって関東における南朝軍の組織的抵抗は終わり、ついで、貞和四年(1348)には楠木正成の遺子正行も河内四条畷の戦いで高師直に敗れて討死したことで北朝方優勢となった。

芳賀入道禅可の活躍

 ところが、今度は室町幕府内に分裂が生じた。すなわち観応元年(1350)、尊氏と弟の直義の不和から「観応の掾乱」が起こり、幕府内は二派に分かれての抗争が始まった。この乱に際して、芳賀禅可の後見する宇都宮氏綱は尊氏方に属して活躍した。観応二年十二月、尊氏は直義方との決戦を控えて「小山・宇都宮」らに対して軍勢催促の使節を派遣した。
 尊氏の軍勢催促に応じた宇都宮勢は、上野の那波荘において、桃井直常および上杉方の長尾氏の率いる直義軍と激突した。すさまじい戦闘であったらしく『太平記』には「軍畢テ四、五箇月ノ後マデモ、戦場二、三里ガ間ハ、草腥シテ血原野ニ淋キ、地嵬クシテ尸路径ニ横レリ」と記している。宇都宮勢は那波荘で直義軍を撃破し、さらに相模の足柄山で戦果を収め、伊豆から鎌倉へ入った。
 この一連の戦闘において宇都宮方の指揮者は「芳賀伊賀守」であり、上野・武蔵を押えて直義軍の退路を絶った戦功は、尊氏方の勝利を決定的にするものであった。戦後、宇都宮氏綱はその功により上野国・越後国の守護職を賜った。そして、越後国守護代は入道禅可の子息高貞と高家が任ぜられ、上野国の守護代も高貞が務めた。掾乱の結果は直義方が敗れ、尊氏は関東における支配体制を確立した。これは、尊氏の子基氏に引き継がれた。
 貞治元年(1362)九月、基氏の執事を務めていた畠山国清が追放され、関東管領に上杉房顕が就任すると東国の情勢は一変した。足利基氏は宇都宮氏綱の越後守護職を奪って上杉房顕に与えた。氏綱の守護代として越後に入部していた芳賀高貞と高家はこの処置に激怒し、越後国内で上杉軍と戦ったが完敗してしまった。翌二年、なお氏綱の分国であった上野国で上杉軍を迎撃しようと板鼻に布陣した。

芳賀氏の敗北、鎌倉府体制の確立

 芳賀兄弟の行動に接した足利基氏はただちに動員令を下して鎌倉を発ち、両軍は武蔵岩殿山・苦林野で激突した。結局、芳賀勢は敗れて宇都宮へ敗走した。基氏は追撃し下野に入り、芳賀氏らの主家にあたる氏綱を攻めんとした。ここにいたって、氏綱は基氏の前に降った。
 岩殿山の敗戦後、芳賀禅可・高貞父子の動向については何一つ知られていない。系図によれば、禅可は応安五年(1372)八十二歳で死去したとあるが、高貞については何も記されていない。ところで、系図には高貞は「実ハ宇都宮貞綱ノ長男」であったという。たしかに貞綱の子で公綱の弟に「宇都宮五郎高貞」がいた。そして、高貞は「兵庫助」ついで「弾正少弼」を称し、足利氏直轄軍の武将として行動していた。一方、芳賀高貞は岩殿山の合戦に至るまで「芳賀伊賀守」と記され、禅可の嫡子(養子ではなく)と明記されていた。
 おそらく、宇都宮高貞と芳賀高貞とは同名のうえに活動時期が重なっていたことから同一人物とみなされたもので全く別人であったようだ。また、それぞれの名乗りである高貞に関していえば、宇都宮高貞の場合は父貞綱の貞と北条高時から高を与えられたもので、芳賀高貞は芳賀氏の通字である高を用いたものであろう。
 貞治六年四月、基氏が病没すると、氏綱は相模守護を解任された河越氏を中心とする平一揆に応じて、応安元年(1368)六月蜂起した。しかし、鎌倉公方足利氏満・上杉朝房の軍勢に攻められ屈服し、その二年後に氏綱は四十五歳で没した。ここにおいて、先に畠山国清が、ついで芳賀氏、そして宇都宮・平一揆と観応の擾乱で尊氏に加担して出頭したものはずべて没落の運命となった。以後、関東は上杉氏が鎌倉公方の補佐役である関東管領となり、鎌倉府体制が確立することになる。

打ち続く関東の争乱

 氏綱の死後、宇都宮氏は基綱が継いだが、宝暦二年(1380)「小山義政の乱」で討死した。宇都宮氏と小山氏が直接戦った裳原の合戦には、芳賀成高・同成家らが宇都宮方として参陣し、芳賀六郎・七郎・八郎や君島氏の子息らが基綱とともに戦死した。基綱が討死したあとの宇都宮氏は満綱が継ぎ、子の無かった満綱は一族の武茂氏から持綱を養子として宇都宮氏の家督を継がせた。持綱は「禅秀の乱(1416)」に際して足利持氏方として活躍した。乱における芳賀氏の動向は不明だが宇都宮氏と行動をともにしたことは疑いないだろう。
 ところで、禅秀の乱の背景には国人一揆の存在があり、乱の制圧後、公方持氏は禅秀に加担した国人らの征伐に乗り出し、専制的権力の確立を目指した。このような持氏の行動を危惧した将軍足利義持は宇都宮氏をはじめ山入・常陸大掾・小栗・真壁氏ら関東の有力国人層を「京都様御扶持衆」に組織した。当時、宇都宮持綱は禅秀の乱による恩賞として上総守護職を与えられ鎌倉におり、幕府の企図する持氏の行動監視役にうってつけの存在であった。そして、上総の守護代を芳賀成高が勤めていた。
 一方、持氏は京都扶持衆の討伐に乗り出し、応永二十九年に起きた小栗の乱に与した持綱は翌年持氏に誅殺された。二十八歳の若さであった。その子の等綱はわずか四歳であったため、一命を助けられたが諸国を流浪したという。その間、宇都宮城は等綱の外祖父にあたる武茂綱家が預かっていたようだ。
 持氏の行動に対して親幕的立場の関東管領上杉憲実は諫言を行ったが聞き入れられず、ついに領国の上野に帰ってしまった。持氏はただちに憲実追討のため武蔵府中に出陣した。これが引き金となって、永享十年(1438)、永享の乱が勃発した。
 幕府は上杉氏支援の立場をとって、持氏征伐の軍を関東に送った。結果は持氏方の敗北に終わり、憲実が助命嘆願をしたが許されず、翌十一年、持氏は自害して鎌倉府は滅亡した。翌永享十二年、常陸に逼塞していた春王・安王を要した結城氏朝が結城城に拠って鎌倉府再興の兵を挙げた。結城合戦と呼ばれる戦いであり、宇都宮氏の家督を継承した等綱は幕府方に属して活躍した。

戦国時代への序奏

 結城合戦は幕府軍の勝利に終わり、幕府体制は磐石になるかと思われたが、嘉吉の乱によって将軍足利義教が殺害された。以後、混乱状態となった幕府は、関東を安定させるため、持氏の遺児永寿王丸を赦して鎌倉府再興を図った。永寿王丸は将軍義成(のち義政)の一字を賜って成氏と名乗り、新公方として鎌倉に下向した。ところが、成氏もまた管領上杉憲忠と対立し、ついに享徳三年(1454)、憲忠を殺害したことで「享徳の乱」が起こった。この乱に幕府方に属した等綱は公方成氏から討伐を受け、宇都宮を逃れ白河で客死してしまった。
 このとき、等綱の子明綱は幕府方の父とは袂を分かって、芳賀成高ならびに「紀清両党」を引き連れ、足利成氏の麾下に属して活躍した。以後、明綱は一貫して成氏方となっていたが、病を得てわずか二十一歳の若さで逝去した。 明綱の早逝により、宇都宮家の家督を継いだのは、芳賀右兵衛尉成高の嫡男太郎丸であった。太郎丸は宇都宮の外孫ということで明綱の跡を継ぎ、正綱と称し下野守に任ぜられた。太郎丸が宇都宮氏の家督を継いだことで、成高の二男次郎三郎が伊賀守高益と名乗り、兄に替わって芳賀氏の家督を継いだ。
 正綱は公方成氏に従って各地を転戦したが、文明九年(1477)、上野川曲の陣中で病没し、嫡子成綱が九歳が家督を継いだ。一方、芳賀氏でも高益に代わって景高が家督を継いだ。そして文明十四年、足利成氏と幕府の和平がなり、関東にも平穏が訪れたが、それも長くは続かなかった。
 享徳の乱において、ややもすれば劣勢に陥った上杉氏を支えて活躍したのは太田道灌であった。その結果、道灌が仕える扇谷上杉氏の威勢が関東管領山内上杉氏をしのぐようになった。道灌の存在に危惧を抱いた山内上杉顕定は謀略をもって、扇谷上杉定正に道灌を殺害させてしまった。
 この事件がきっかけとなって、山内・扇谷両上杉氏の対立が武力衝突へと発展し長享の乱が起った。かくして、ふたたび戦乱が関東全土をおおい、両上杉氏の対立に乗じた新興の伊勢長氏(のちの北条早雲)が延徳三年(1491)、堀越公方茶々丸を殺して伊豆を占領した。その四年後には相模の小田原城主大森氏を逐って本拠を小田原城として関東に進出し、東国は本格的に戦国の世に突入していったのである。

芳賀氏の台頭

 そのころ宇都宮氏内部では武茂氏の謀叛があったようだが、ただちに平定されたようで、以後、宇都宮家中における芳賀氏の地位は不動のものとなった。芳賀景高は主君宇都宮成綱を補佐し奉行人として活躍したが、次第に家中における芳賀氏の勢力は強大化していった。景高のあとを継いだ高勝の代になると、高勝の発給した文書に成綱が追認するという事態になり、高勝の勢力は主家宇都宮氏を凌ぐようになっていた。
 このような芳賀氏の台頭に対して成綱は危機感を募らせ、永正九年(1512)、ついに高勝を生害させてしまった。その結果、宇都宮氏は家中を二分する「宇都宮錯乱」とよばれる一大内紛となった。他方、古河公方家でも内紛が起こっていた。すなわち、政氏を嫡子高氏との間に対立が起こり両者の争いは関東の諸将を巻き込んで戦乱へと発展した。宇都宮氏成綱は結城政朝らとともに高氏側に加担し、政氏側には常陸の佐竹義舜を中心に岩城・白河結城氏らが加わっていた。この争乱のなかで宇都宮家中も両派に分かれたようだが、高氏派の成綱側が勝利したようで永正十一年ころまでには錯乱状態も収束されたものと思われる。
 そのことは、高勝のあとを継いだ芳賀高孝が宇都宮氏を頂点とする政治的支配体制に組み込まれていたことからうかがわれる。そして、その間に宇都宮氏の家督は成綱から嫡子の忠綱へ譲られたようである。一方、古河公方家の内紛は依然として続いていて、永正十一年(1514)八月、政氏の要請を受けた岩城・佐竹連合軍に対して宇都宮成綱・忠綱、結城政朝は上野の竹林で戦い、ついで、同十三年にも両軍は下那須において戦った。
 宇都宮錯乱を克服した宇都宮氏は、成綱の弟で忠綱には叔父にあたる興綱を芳賀高孝のあとに入嗣させることで芳賀勢力の抱き込みを図り、忠綱体制を磐石にしようとした。興綱は芳賀景高に養育され、芳賀氏歴代の受領名である「左兵衛尉」を名乗っていることから芳賀氏の家督を継いだことはまず疑いない。かくして、宇都宮氏は芳賀氏を忠実な家臣に再構成することに成功したかにみえ、永正十三年、成綱は一抹の危惧を抱きながらも死去した。
 ところが、それから十年後の大永六年(1526)、興綱は突如忠綱に背いて結城政朝の庇護を求めた。これが原因となって、忠綱と結城氏との間が不和になり猿山において合戦となった。戦いに敗れた忠綱は宇都宮城に奔ったが、城は芳賀興綱によって奪われており、万事窮した忠綱は鹿沼城の壬生綱雄のもとに逃れた。そして、翌年に三十一歳の若さで世を去った。一説に、毒殺されたのだともいわれている。ここに至って興綱は念願の宇都宮氏の家督を継ぎ、興綱のあとの芳賀氏の家督は高経が継いだ。高経は永正九年に兄高勝や一族の者が成綱に殺害されて以来、宇都宮氏に含むところがあった。そして、高経と興綱との対立が引き起こされ、高経は壬生氏と結んで天文五年(1536)興綱を殺害した。
 興綱の子尚綱は、父の死に先立って宇都宮氏の家督を継いでいたようで、父を討った高経と反目しつつも、天文八年の那須政資・高資父子の対立に際して政資を援けるなどの活動をした。しかし、尚綱と敵対していた壬生綱房への対処をめぐって宇都宮家中の意見が分かれ、高経と尚綱の対立は不可避となった。高経は宇都宮を退いて宇都宮南方の児山城に拠って、興綱の子尚綱との合戦を展開したが高経は敗れて自害した。このとき、高経の子高照は白河に逃れ去った。ここに芳賀氏は没落し、尚綱は宇都宮氏の家督をとりしきる人物として益子勝宗の子高定を抜擢して、芳賀氏の家督を継承させた。芳賀氏の家督を継いだ高定は、高経の遺児で高照の弟にあたる三郎(のちの高継)を引き取って養育したことが『下野国誌』にみえている。

打ち続く乱世

 天文十四年(1545)、高定は宇都宮尚綱の命を受けて鷺宮に出陣し、結城方の水谷正村と戦った。以後も、宇都宮・芳賀勢と結城・水谷勢との抗争が続いた。天文十八年九月、古河公方晴氏の要請を受け、尚綱は那須氏を討つため出陣した。そして、喜連川の五月女坂で戦い、弓で射られて討死してしまった。当然、宇都宮勢は大敗を喫し、宇都宮城は壬生綱雄が占領するところとなってしまった。
 尚綱討死のあと、芳賀高定はその子弥三郎を芳賀に引き取り、守り育てて、天文二十年(1551)那須高資を討たせた。ついで、那須氏を頼って宇都宮氏に対抗していた芳賀高照を偽って真岡城に招き自害させた。さらに弘治三年(1557)、常陸の佐竹義昭を頼んで、壬生綱雄を追伐し宇都宮城を奪回した。そして、弥三郎を宇都宮の本城に帰し、広綱と名乗らせ下野守に受領させたのである。
 このように宇都宮氏再興のために大活躍を示した高定は宇都宮家の家督が安定すると、芳賀家の家督を養育していた高継に譲り実子六郎には小貫の地を与えて小貫信高を名乗らせ、のちに自らも小貫の地に隠居した。芳賀高定は衰運にあった宇都宮氏の柱石となって、宇都宮氏存亡の危機をよく助け、芳賀氏の家督もみずからの子に譲ることなく、芳賀氏の血統をもって継がしめるなど、戦国の時代にあっては珍しい爽やかな風音を感じさせる人物であったといえよう。
 このころになると、小田原北条氏の勢力が関東をおおうようになり、佐竹・宇都宮氏ら北関東の諸将は越後の長尾景虎に後北条氏打倒の望みを託した。一方、景虎も関東を逃れてきた関東管領上杉憲政を庇護し、永禄三年(1560)みずから兵を率いて関東に出陣した。そして、翌年には長駆小田原城を包囲攻撃、その後、鶴岡八幡宮において関東管領職就任式を執り行った。このとき、上杉名字・重宝・家紋なども贈られ、長尾景虎改め上杉政虎(のちに輝虎・謙信)と改めた。以後、関東は上杉謙信と小田原北条氏との間で覇権をめぐっての抗争が繰り広げられるのである。
 永禄九年(1566)、謙信が小田氏治を攻撃するため結城晴朝・小山秀綱以下関東の諸将に軍勢を割り当てたとき、「宇都宮代官二百騎」とあり、この代官は芳賀高定で宇都宮広綱の代官として兵を率いたものである。永禄十一年、高継の文書が見えることからこのころに高定は高継に芳賀の家督を譲ったものと思われる。

芳賀氏の没落

 さて、天正四年(1576)宇都宮広綱が死去したとき、嫡子の国綱は幼少であったため、天正八年までその死を秘匿されていたという。そような状況にあって高継は、堅固な城を築く必要に迫られ築城に着手した。それが真岡城であった。
 天正六年三月、上杉謙信が没すると、関東の情勢は新たな展開を見せることになる。後北條氏は徳川氏に接近を図り、同十年には武田勝頼を滅ぼした織田信長にも接近を図るが、その年の六月信長は本能寺で明智光秀の謀叛によって横死し、信長の天下統一の事業は部将の羽柴(豊臣)秀吉が受け継ぐかたちとなった。
 同十二年、後北条氏と佐竹氏が対陣した岩舟山・沼尻合戦が起り多くの北関東の諸将が参陣し、宇都宮国綱も一族を率いて参戦した。このとき芳賀氏は鉄砲二百挺を提供している。以後も後北条氏の攻勢は続き、芳賀氏は宇都宮氏の中心となって奮戦したが、天正十五年ごろ宇都宮氏と一時不和になったようで、高継は国綱に起請文を提出している。
 その後の天正十七年にも国綱に反して北条氏直に内通したといわれるが、確証となる史料はない。史料上における高継は天正十六年以降見えなくなり、翌年からは高継に代わって高武が登場してくる。高武は宇都宮氏の連枝をもって威勢を振るった。天正十八年(1590)後北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は宇都宮に着陣し関東・奥州の仕置きを行った。その結果宇都宮国綱は十八万石を安堵され、芳賀高武の知行高は六万石であった。その後、文禄元年(1592)の朝鮮出兵には宇都宮勢の先陣の大将として出陣した。ところが、慶長二年(1597)兄宇都宮国綱の養子のことについて、内乱を引き起こし秀吉の命に背いたことをもって宇都宮国綱・芳賀高武らは一族郎党残らず所領没収となった。
 こうして、芳賀高武は上杉景勝にお預けの身となり、平安期以来、下野国で勢力をもった芳賀氏は没落してしまったのである。

参考資料:栃木県史/真岡町史/芳賀興亡史/栃木県歴史人物事典 ほか】

■参考略系図
*下野の芳賀氏は清原氏の後裔とするのが定説だが、紀氏とも云われて紀姓芳賀氏の系図も存在している。  
  


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