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三田氏
●三つ巴
●桓武平氏将門流?  
 


 武蔵国の青梅地方は、鎌倉時代から室町時代へかけてのころ「杣保」とよばれていた。杣とは「山の方」という意味で、村より大きな地域をいい、荘園制の発達につれてできた言葉である。
 『新編武蔵国風土記』には「羽村より西はすべて杣保」であったと記し、羽村から上流の多摩川すじが杣保で、「武州杣保青梅村」とか「武州杣保長淵郷」とかの地名が古文書に多く見受けられる。その杣保の支配者としてあらわれるのが三田氏である。

三田氏の出自

 三田氏が青梅地方に登場してくるのは十四世紀に入ってからで、三田下総守長綱という人物が、正安二年(1300)、勝沼の乗安寺を建てたと寺の縁起に見えるのが初見である。また、今寺の報恩寺の旧鐘銘には、元亨二年(1322)に三田弾正忠清綱が奉納したとある。これらのことから、すでに鎌倉時代には三田氏が杣保の地にいたことはたしかなようである。
 『武蔵名勝図絵』には、「三田氏は平将門の後裔にして、世々この辺に居住し、勝沼殿と称しけり、往古の事はつまびらかならずといえど、代々鎌倉将軍家に属す」とある。三田氏が将門の後裔であるということは、大永元年(1521)に三田政定が根か布の天寧寺に奉納した鐘銘に「平朝臣将門の後胤三田弾正忠政定」とあることから、自ら将門の後裔と称していたことがわかる。しかし、三田氏が将門の後裔だという史料は何もない。おそらく新興の三田氏としては、関東、特に青梅地方に根強い伝説をもち、英雄視・神格化されている将門をその祖に誇示することは、民衆統治に大きなプラスになると考えたからであろう。ちなみに、三田氏の家紋は「巴」だが、他に将門にちなむ「繋ぎ駒」「九曜」も用いたという。
 三田氏の出自に関して、古代豪族壬生氏の子孫だという説がある。壬生氏は古代武蔵国で栄えた豪族で、武蔵国分寺の七重の塔を再建したり、御岳蔵王権現の楼門を建てたり、鐘を寄進したりして杣保の地と深いつながりをもっていた。谷保村の三田家系図には、「三田氏始め壬生吉志の姓たり」とあって、壬生氏の出自であることを記している。これとてもたしかな根拠があるわけではないが、まったく否定しさることもできないものである。
 ところで、杣保を支配した三田氏に関わる系図として『続群書類従系図部集』所収の相馬系図がある。それによれば、将門の叔父である良文の後裔から相馬氏が分かれ、相馬弾正忠胤実の子胤興に三田弾正忠と注記して「家紋巴ヲ用」とある。そして、胤興には二人の子があり、長男の胤勝に「三田弾正、武州三田庄将門宮建立」とあり、弟の興秀には「師岡二郎住武州師岡」と注されている。三田庄が武州のどこであるかは不明だが、将門宮については奥多摩町棚沢に将門神社が存在している。また、胤勝までの代数からみて、胤勝は戦国時代の人物とみられ、綱秀と同一人物かとも考えられる。しかし、胤興に至るまでの歴代を見ると下総相馬氏の系図に見える人名と共通したものが多く、古記録にみえる三田氏に人物はみえない。おそらく群書類従の相馬系図は下総相馬氏の異本系図と思われ、杣保の三田氏の系図とは考えにくいものといえよう。
・山深い奥多摩の地

関東の大乱

 乗安寺縁起にみえる下総守長綱以後、三田氏の一族と思われる者は何人かあらわれるが、それらの人物が歴史の上でどのような役割をはたし、どのような生き方をしたのかは分からない。しかし、室町期の三田氏が、関東管領職の地位にあった山内上杉氏に属していたことは、いくつかの史料からうかがわれる。
 関東管領上杉氏は、関東十ヶ国(関八州に甲斐と伊豆)を管轄する鎌倉府の主である鎌倉公方を補佐した。しかし、鎌倉公方は代々幕府に対して反抗的な姿勢を示すことが多く、管領上杉氏は幕府の意向を体して、よく関東公方を諌めた。やがて、持氏が公方になると「上杉禅秀の乱」が起り、それを契機として持氏は幕府と対立を深めるようになっていった。ときの管領上杉憲実も持氏をよく諌めたが結局それは入れられることはなく、永享十年(1438)、持氏と袂を分かって領国の上野に引きこもった。持氏はみずから憲実討伐の軍を率いて出陣、世にいう「永享の乱」となった。幕府は上杉氏を支援して持氏討伐の兵を下し、敗れた持氏は捕えられ、翌年、自刃して鎌倉府は滅亡した。
 その後、結城合戦を経て鎌倉府が再興されたが、新公方となった成氏も管領上杉氏と対立、ついには「享徳の乱」を引き起こした。以後、関東は公方派と管領派とに分かれて合戦が打ち続いた。緒戦は公方方が優勢であったが、上杉氏を支援する立場で幕府が介入してきたことで公方成氏は鎌倉を失い古河に奔り、以後「古河公方」と呼ばれるようになった。一方、幕府は将軍義政の弟政知を新公方として関東に下したが、政知は鎌倉に入ることができず伊豆の掘越にとどまって「掘越公方」となった。上杉氏は掘越公方を擁して関東の戦乱に対応、成氏も古河城を拠点に勢力を維持し、両者は抗争を繰り返した。さらに文明八年(1476)、「長尾景春の乱」が勃発、関東の争乱は混迷を極めた。
 文明十四年(1482)に至って、幕府と成氏との間に「都鄙の合体」と称される和睦が成立、関東に一応の平穏が訪れた。ところが、今度は山内上杉氏と扇谷上杉の両上杉氏が対立するようになった。

打ち続く、戦乱

 享徳の乱、景春の乱において、上杉方の中核として活躍をしたのは扇谷上杉氏の家宰太田道灌であった。道灌の活躍で扇谷上杉氏の勢力は山内上杉氏の勢力を凌ぐ勢いをみせるようになり、それに危惧を抱いたは山内上杉顕定は道灌排斥の陰謀をめぐらした。そして、扇谷定正に道灌のことを讒言、それを信じた定正は道灌を相模糟谷の館に招くと殺害したのである。
 道灌殺害を契機として両上杉氏の対立はさらに悪化、長享元年( 1487)、ついに武力抗争に発展し関東はふたたび戦乱に明け暮れるようになった。両上杉氏の抗争は「長享の乱」とよばれ、緒戦は扇谷定正が山内顕定を圧倒したが、明応二年(1493)、定正が戦死すると山内上杉氏の優勢へと推移していった。そして、永正二年(1505)扇谷上杉朝良が降伏したことで、山内上杉氏が名実ともに関東大半の主たる存在となった。
 この争乱のなかで上杉顕定に従い股肱の臣として活躍したのが、勝沼城主の三田弾正忠であった。三田氏は久しく山内上杉氏と主従関係にあり、三田弾正忠は顕定に従って各地を転戦した。文明十年(1478)上杉顕定が三田氏に出した書状は、文面が非常に丁寧で、三田氏が上杉氏から重んじられ、相当の地位にあったことをうかがわせている。そして、その書状は三田弾正忠氏宗に送られたものだといわれている。
 このように、三田氏は歴代杣保を根拠地に山内上杉氏の一武将として台頭、やがては高麗郡・入間郡方面までを領有して勢力を伸ばすようになった。その全盛時代は永正から天文年間(十六世紀前半)のことで、氏宗・政定父子の時代であった。ちなみに、永正元年(1504)に両上杉氏が対戦したときにおける多摩地方の有力領主としては、高月城に大石氏、檜原城に平山氏、草花方面に小宮氏、そして、勝沼城に三田氏が割拠していた。
 一方、両上杉氏が抗争を続けるなかで、次第に頭角をあらわしたのが伊勢宗瑞(北条早雲)であった。北条早雲は駿河今川氏の客将から身を起し、掘越公方を討って伊豆を支配下におくと相模に進出、扇谷上杉氏を支援して着々と地歩を固めていった。そして、十六世紀になると武蔵にまで勢力を及ぼすようになり、その実力はあなどれないものとなっていた。やがて、関東は小田原を本拠とした北条氏を台風の目として、歴史が展開していくことになるのである。

三田氏の治世

 三田氏が代々勝沼にいたらしいことはわかるが、氏宗・政定父子が勝沼城にいたとはっきり記してあるのが、連歌師島田宗長の「東路のつと」である。それには「永正六年(1509)八月一日、武蔵国勝沼という処に至りぬ。三田弾正忠氏宗ここの領主たり。かねてしも白河の道々のこと申しかよわしはべりしかば、ここのやすらい十五日に及べり。(後略)」とあって、氏宗が勝沼城主であったことがわかる。そして、氏宗父子が単なる武人ではなく、歌を愛し風流をたしなむ文化人であったことが「東路のつと」からうかがわれるのである。
 このような氏宗父子の心のゆとりは、その経済力からもたらされたものであった。時代はくだるが後北条氏が永禄二年(1559)に作成した『小田原衆所領役帳』には、三田氏の所領として相模の酒匂村・武蔵の上奥富・三木・広瀬・鹿山・笹井などがあげられ、江戸時代の石高に換算すると約四千石にあたるといわれ、本領の杣保の地を合わせると一万三千石ぐらいになる。そのほか、杣保の特産物である漆、木材などの雑収入もあったろうから、三田氏は相当豊かな経済力をもっていたと考えられる。
 三田氏宗・政定父子はその経済力を背景として、文亀年間(1501〜04)に天寧寺を開基し、海禅寺・虎柏神社など領内の社寺を保護し、社殿や仏像の修理に尽力した。それらは、いま国の指定や都の指定、または市の指定を受ける文化財として伝わっている。三田氏は戦国時代を生きる武将として、戦場に身をおきながら、深い信仰心をもって領内の社寺の保護に努めていたのである。天寧寺には政定が大永元年(1521)に奉納した鐘が伝えられ、「大旦那平朝臣将門之後裔三田弾正忠 政定」の銘は、三田氏関係の貴重な金石文の一つとなっている。

後北条氏の勢力拡大

 大永4年(1524)、北条氏綱は扇谷上杉氏を破って江戸城を支配下におき、さらに天文六年(1537)には河越城も攻略するに至った。この事態を重く見た関東管領上杉憲政は、扇谷上杉朝定と結んで、後北条氏勢力の拡大の阻止を図ろうとした。
 天文十四年(1535)、憲政と扇谷朝定の連合軍は後北条方の河越城を包囲、攻撃した。連合軍には古河公方足利晴氏も加担し、六万五千騎(一説に八万ともいわれる)と称される大軍となった。河越城の危機を知った北条氏康は八千の兵を率いて出陣、策を講じて連合軍の油断を誘った。翌十五年四月、そして、決死の夜襲を敢行、油断しきっていた連合軍は潰滅的打撃をこうむった。この合戦は「河越夜戦」とよばれ、扇谷朝定は戦死、憲政は平井城へ古河公方晴氏は古河へ逃れ去り、北条氏康は一躍関東の覇者に躍り出た。
 平井城に逃れた憲政はしばらく余喘を保ったが、天文二十一年(1552)、ついに越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って関東から没落した。のちに、関東管領職、上杉の名字などを景虎に譲り、関東の地を回復しようと図った。この間、三田氏は後北条氏の傘下に加わり、御旗本他国衆に列せられ小田原近くにも領地を与えられた。
 永禄三年(1560)、憲政を擁した長尾景虎が初めて越山し関東の地に兵を入れた。たちまち景虎は北関東を席巻、一時、後北条氏に従っていた大石・太田・成田・小幡・白倉・千葉、そして三田氏ら旧上杉家恩顧の諸将は景虎の陣に馳せ参じた。当時の三田氏は政定・綱秀の代であり、綱秀は岩槻城主太田資正に属して各地を転戦した。また、別の史料によれば政定が景虎の先陣を承って、恩方村の大幡に陣したという。しかし、景虎の出陣のときは、綱秀が景虎に従って戦陣に加わったようである。
 このとき、景虎は参陣してきた関東諸将の幕紋を記録させた。それが『関東幕注文』で、戦国時代の関東諸将の家紋を知るうえでの貴重な史料となっている。そのなかに、三田氏は「勝沼衆」として把握され、三田弾正(綱秀)「ひたりともへ三ツ三かしハ二ツ くミあハせ也」とあり、以下、毛呂「かりかねのもん」、岡部「弾之内の十方」、平山「鷹乃羽」、諸岡「三葉かしハ」と続いている。諸岡氏は三田氏一族の師岡氏であり、両者が共通の家紋として「三つ柏」を用いているのが興味深い。
・三田氏最後の居城となった辛垣山城址

後北条氏との抗争

 その後、関東は越後の上杉謙信と小田原の北条氏が覇権を争った。謙信が関東に在住すると上杉方の優勢となり、謙信が越後に引き上げると、謙信に従った武蔵の諸大名は後北条氏に再び従うということが続いた。やがて、関東における謙信の勢力は後北条氏によって次第に切り崩されていった。そのような情勢下、岩槻城主の太田資正が越後の上杉氏と連絡をとりながら、後北条氏に対峙していた。三田弾正忠綱秀も太田氏と通じて後北条氏と対立姿勢を続けていた。三田氏が後北条氏に転向しなかったのは、山内上杉氏との旧来の関係もあったといわれるが、同じ武蔵の一大勢力であった大石氏が後北条氏に重用されたのに対して、三田氏は冷遇されていたためともいわれている。
 いずれにしろ、後北条氏に対する抵抗姿勢を崩さなかった三田綱秀は、奥多摩から背後の秩父にかけて広大な防衛線をはり、二俣尾の険阻な山上にある辛垣城へ籠城し後北条氏と対峙した。後北条氏との戦いを控えて三田氏は、本来の居城である勝沼城を捨てて山城の辛垣城を新しく築城したと伝えられる。しかし、辛垣城は勝沼城より古い作りであり、辛垣城に拠ったのは後北条氏の圧力に抗しきれずにやむ終えず勝沼城を捨てて移ったものと思われる。
 辛垣城に拠った三田綱秀は上杉謙信の来援を信じ、後北条氏への抵抗を続けた。後北条氏も三田氏の掃討には手を焼き、三田氏を完全に討伐するのに数年を要している。永禄六年(1563)、北条氏康は滝山城主である子の氏照に命じて綱秀を攻撃させた。
 北条氏照は氏康の二男で、十六歳の初陣から、一生を通じて勝戦三十六度といわれた勇将であった。また、学問詩歌を修め多摩の名僧卜山舜悦に参禅して禅機を会得し、また政治的手腕にもすぐれ、父氏康に劣らぬ文武両道に秀でた人物であったようだ。天文十五年(1546)に大石定久の養子となった氏照は滝山城主となり、北条領国の西北守備に任じてこのとき二十五歳の若武者であった。
 氏照が指揮する後北条勢は、滝山城から多摩川を西上し、柚木の根岸というところからいったん多摩川へ下り、川を渉って二手に分かれ、一手は軍畑から平溝川を越えて西木戸を攻め、一手は多摩川原を下って檜沢伝いに辛垣山へ進撃したと伝えられている。三田勢は後北条氏の攻撃をよく防戦したが、塚田又八なる家臣が後北条方に寝返ったことで、ついに防御が破られ、綱秀とその残党は辛垣城を脱出して遠く岩槻城を目指したが、その途中で土民に襲われ綱秀らは戦死した。

三田氏の終焉

 綱秀は落城に際し「幼少の子二人」に「顕定の御状三通」を添えて岩槻へ落したが、「子息もその後二人共病死」したという。また「岩槻にて自害」したともいい、これは、岩槻城は太田資正の子氏資が父を遂って城主となり後北条氏に通じていたため、岩槻城を頼った綱秀らの一党は悲惨な末路を迎えたものと思われる。ここに将門の後裔と称して、鎌倉時代以来、勝沼の地を支配した三田氏は滅亡した。
 綱秀とは同族にあたる三田氏の子孫で徳川氏旗本となった三田氏がある。三田三河守某の子綱勝で、綱勝は北条氏照に属して下総国小山城を守った。
 天正六年(1578)、謙信が死去。越後では上杉景勝と上杉景虎(北条氏政の弟)が家督争いを演じた「御館の乱」が勃発、綱勝は景虎の援兵として越後へ馳せ向かい、春日山において戦死した。その子の守綱は、天正十八年(1590)後北条氏滅亡ののち徳川家康に召し出され、守綱の子孫は旗本三田家として続いた。・2006年09月10日
・写真は、 多摩の古城祉から転載させていただきました。

参考資料:青梅市史/多摩郷土研究 ほか】


■参考略系図
・詳細系図不祥。  
  


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