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江馬氏
●三つ鱗/揚羽蝶*
●桓武平氏経盛流
江馬氏関連の史料を蔵する奥飛騨の瑞岸寺の瓦には「揚羽蝶紋」がみえる。
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江馬氏は飛騨国吉城郡高原郷の領主として飛騨北方に勢力を有し、姉小路氏・三木氏らと並ぶ飛騨の戦国大名の一人に成長した。
江馬氏の出自は、『飛州志』所収の系図によれば、「平清盛の弟経盛の妾腹の子輝経が、伊豆の北条時政に養育され、その土地の名をとって江馬小四郎と名乗った」のが祖であると記されている。しかし、江馬小四郎とは北条義時のことであり、飛州志の所伝は疑わしいものといわざるをえない。ちなみに、義時の次男朝時の子光時も江馬を称しているが、その子孫は代々鎌倉に住していて、こちらも戦国期の江馬氏とはつながらない。
一説に、北条義時の弟時房を祖とするものがある。時房は鎌倉幕府の執権補佐となり、子の時盛、曾孫時国は六波羅探題の任についた。しかし、時国は弘安七年(1285)罪を得て常陸国に流され、配所にいおいて自殺した。この時国の父は政俊といい『武家年代記』の裏書に「延慶二年(1309)七月十六日江馬遠江政俊卒」とあって、江馬を家号としたことが知られる。そして、飛騨の江馬氏はこの系であろうとする。しかし『尊卑分脈』には、時国は時盛の孫で、その父は時員となっている。
いずれにしろ、飛騨の戦国大名江馬氏の出自については不詳というしかないだろう。おそらく、鎌倉末期までには地頭として高原郷に入り、高原郷の諸土豪を傘下に組み込んで勢力を拡大していったものと思われる。
中世の江馬氏
応安五年(1372)江馬但馬四郎が、文明三年(1471)江馬左馬助が飛騨岡本上・下保など山科家領の確保を幕府から命じられている。ともに伊勢氏と関係があり、左馬助は『石山本願寺日記』に伊勢貞宗の庶子とみえ、江馬氏を継いだ人物らしい。
江馬氏は信濃守護小笠原氏とも姻戚関係にあり、『諸家系図纂』小笠原系図に「持長、政康嫡男母家房女(此女房大名子三人、長畠山右衛門佐、仲小笠原、季飛州江馬是也、可謂奇異乎)応永三丙子六月廿二日生於洛陽四条館、云々」とある。飛州江馬の人名は未詳だが『円城寺過去帳』に「月光院寂翁玄照居士、江馬定時殿、永享八年(1436)丙辰九月十一日卒」とあり、年代が相当することから定時に比定できるかも知れない。応仁の乱に際しては細川勝元方、すなわち東軍に属した。
では、江馬氏が飛騨を本拠にするようになったのは、いつごろのこであろうか。江馬氏累代の居城は高原諏訪城であるが、万里集九の漢文文集『梅花無尽蔵』のなかで、延徳元年(1489)五月六日に、万里集九が高原城下に来て江馬氏から酒食のもてなしをうけている記事がある。すでに十五世紀半ばぐらいには、高原諏訪城を本拠にしていたことが明かである。少なくとも、延徳元年においては高原に威勢を振るい、江馬氏の勢力範囲は荒木郷にも及んでいたことは間違いないだろう。そして明応二年(1493)、高原郷の豪士今見左衛門五郎へ土地を給した文書が現存している。
江馬氏歴代のなかで具体的に判明してくるのは時経からである。時経は、時代としては享禄から天文年間(1528〜55)の人であり、一宮棟札にも「于時享禄二歳巳丑棟上云々、上葺勧進二拾貫文、江馬左馬介時経」と見えている。時経の娘は、飛騨守護京極氏の被官から次第に頭角を表した三木良頼の妻となり、三木氏との間に友好関係が結ばれた。しかし、娘の夭逝によって事を構えるようになり、ついには江馬氏と三木氏は宿敵の関係となる。
江馬氏と三木氏
南飛の三木氏と高原郷の江馬氏とは早い時期から接触をしていたことは間違いなく、天文八年(1539)三月三木直頼は高原へ出張している。これは、直頼の嫡子良頼の室となった時経の娘が病臥中であったためであろう。時経の娘は病死するが、直頼は時経の胸中を憚って、萩原城下にきた能衆(演芸集団)に興行を許さなかったことが知られる。
直頼は江馬氏に対して親和を図り、その関係に疑惑を持たせるような行動を慎んだのであろう。そのような三木氏に対して江馬氏は三木氏の東濃出兵に際して、加勢を送るなど助力を惜しまなかった。ところが、天文十三年三月にいたって、北飛騨に戦雲が動いた。三木新九郎・同四郎次郎は三仏寺近くの鍋山城へ出張して敵に備え、直頼も出陣しようとした。その敵とは江馬時経だったようで、越中から江馬氏を援けた武士もいたようだ。
飛騨の守護は長く京極氏がつとめたが、天文十三年、将軍義晴は諸大名に命じて京極高延を討伐した。そのとき、京極氏の有力被官である浅井・上坂の両氏は動かず、ついに京極氏は没落した。当時の三木氏は既に京極氏とは絶っていて、飛騨における自己勢力の拡大に余念がなかった。そして、天文十五年五月、江馬時経が死去した。三木氏にとって強敵であった時経の死は、三木氏の勢力拡大を容易ならしめるものであり、直頼は益田・大野両郡ばかりでなく、北は吉城郡、南は恵那郡にまで勢力を拡大したのである。
一方、江馬では時経の死後は、嫡子の時盛が家督を継いだ。時盛は天文十一年十月、本願寺へ参詣して証如と合い、翌年には書如から書状を贈られるなど本願寺との間に友好関係を築いていた。天文二十三年六月、三木直頼が卒した。その跡は良頼が継ぎいだが、時代は風雲急を告げる様相を見せていた。
飛騨の戦国争乱
このころ、飛騨の隣国美濃には斎藤道三・義龍父子、尾張に織田信長、駿河に今川義元、甲斐に武田信玄、越後に長尾景虎(上杉謙信)、越前には朝倉義景が割拠してそれぞれ威勢を振るっていた。なかでも甲斐の武田信玄は、信濃に兵を出しその過半を攻略していた。
そのような武田氏に、木曾谷の木曾氏、東濃岩村の遠山氏らが誼を通じてその勢力下に属していた。飛騨もそのような情勢と無縁ではいられなかった。天文二十四年(1555=十月に改元されて弘治元年)七月、武田信玄は兵を信濃に出し、越後の長尾景虎も信濃の村上・高梨氏らの要請をいれて善光寺へ出陣した。これが、川中島合戦の第一回の対陣であった。このとき、越前の朝倉氏は朝倉宗滴を大将として加賀に攻め入り一向門徒と戦った。これは、長尾景虎の依頼を受けたもので、当時、長尾氏と朝倉氏との間には攻守同盟が結ばれていたのである。
景虎から朝倉氏へ送られた使僧は飛騨を通って越前へ向った。それを警固したのが三木良頼で、良頼は朝倉・長尾同盟に加わっていたことが知られる。一方、江馬時盛は武田信玄と結び、上杉謙信と結ぶ南飛騨の三木氏に対抗し、弘治二年(1556)南進を図って姉小路氏を破った。さらに永禄四年(1561)にも武田氏に通じて兵を挙げたが、結局、講和となり良頼方の勝利に終わっている。以後、しばらく飛騨一国は平穏な日々が続いた。
しかし、時代の潮流は激しさを増し、信玄は西上野に出陣して上杉方の諸城を攻め、翌年には武蔵に兵を出し上杉方の松山城を攻めた。一方、上杉謙信は松山城救援のために出陣したが、時すでに遅く松山城は落城していた。その後、上杉謙信は越中を河田豊前守に守らせ、永禄六年、吉城郡山中塩屋城に拠る三木氏の部将塩屋筑前守を降して、飛騨半国を確保した。こうして、越中の神保氏と一向一揆とは上杉氏のために圧迫を受けるようになった。
このような情勢を武田信玄が座視するはずもなく、永禄七年、飯富(山県)三郎兵衛昌景に命じ、飛騨高原郷へ攻め込ませた。このとき、時盛は武田氏に属し、上杉方に心を寄せていた子の輝盛も止むなく父に従った。江馬時盛は武田氏への証人として、僧籍にあった三男を差し出し、信玄はこの出家を右馬允と名乗らせ旗本に置いた。
江馬氏の父子相剋
こうして時盛・輝盛父子は武田氏に属し、武田氏は越中への道を確保することができた。ついで、上杉氏に通じる三木氏一族を制圧するため、改めて大軍を飛騨に差し向けた。一軍は山県昌景を大将に、もう一軍は木曾氏の兵をもって進攻させた。江馬氏も武田軍と合流して、三木氏攻撃の陣に加わった。
これに対して、三木氏は抗戦の姿勢を示し、武田の大軍を迎え撃った。しかし、鳥越城は陥落し千光寺も炎上すると、三仏寺領を江馬氏に引き渡して降伏した。こうして、越中への通路が自由となったため、永禄八年、武田軍は江馬氏を先陣として越中に攻め入り、松倉城主椎名氏を降した。その結果、江馬氏は越中国新川郡中地山地方を信玄から預けられ、その勢力は越中にまで及ぶようになった。
江馬時盛は嫡子輝盛と不和であった。原因は時盛が甲斐武田氏に接近して家の安泰を保とうとするのに対し、輝盛は越後上杉氏と接近してその勢力拡張を図ろうとしたことにあった。そのため、時盛は家督を輝盛ではなく三男の信盛に継がせようとした。信盛は武田氏に人質として送られ、信玄の旗本となって数々の戦場で功をあらわしていた。しかし、信盛は兄輝盛をはばかって受けず、武田氏に仕えた。そこで、分家麻生野直盛の子慶盛に譲ろうと図った。慶盛は甲斐に使者として赴き信玄にも謁した人物で、親武田派であった。
元亀三年(1572)、武田信玄は上洛の軍を起こしたがその途中で病を発し、翌天正元年、ついに帰らぬ人となった。信玄病死の報に接した輝盛は、慶盛擁立を図ろうとする父時盛殺害を決意し、天正元年七月*、父を暗殺し江馬氏の家督を襲った。さらに輝盛は弟の信盛を追放し、慶盛も攻め殺して江馬氏を掌握した。そして、天正四年(1576)飛騨へ進出してきた上杉氏に三木氏ともども降伏したのである。
信玄亡きあとの武田氏家督は勝頼が継いだが、天正三年、織田・徳川連合軍と長篠で戦い敗れ、武田氏の勢力は大きく失墜した。さらに天正六年三月、上杉謙信が急病で死去したことで、上杉氏の勢力も後退した。状況の激変に対して、江馬氏の宿敵三木氏はいち早く織田信長に誼を通じて、所領の安泰を図ろうとしていた。一方、拠るべき勢力をもたない輝盛は焦燥感にとらわれていた。
*天正六年七月のことともいう。
江馬氏の滅亡と戦国時代の終焉
武田・上杉氏の勢力が後退したのちは、織田信長の天下統一事業が大きく前進した。天正十年三月、信長は甲斐に侵攻して武田氏を滅ぼしたが、自身も六月に明智光秀の謀叛により本能寺で横死した。信長の死によって織田氏の勢力が崩れたのを好機とした輝盛は、同年十月、織田氏に接近していた三木自綱との決戦を企図すると三千騎の軍を率いて南下した。対する自綱は牛丸親正・小島時光らと同盟軍を組織し、その兵力二千余をもって江馬勢を迎え撃った。自綱は少ない兵力ながらも籠城を愚策として退け、江馬勢を大阪峠の出口荒城川沿岸に誘って、勝敗を一気に決しようとした。
輝盛軍は小島城下に迫り、八日町において合戦が行われた。緒戦は兵力に優る江馬勢の志気が大いに上がって、三木軍を広瀬方面に圧した。ところが、そのとき三木勢の伏兵が起って輝盛の本陣に斬り込んだ。虚を突かれた輝盛が驚いているところを、三木勢の発した銃弾が命中し、江馬輝盛はあっけなく討死した。大将を失った江馬勢は総崩れとなり、多くの家臣が討死した。いまも、「十三墓峠」の名が残り江馬氏と三木氏の合戦を偲ばせている。
この合戦は「飛騨の関ヶ原の戦」ともよばれ、『飛州志』『斐太後風土記』『大成院文書』などからも概要が知られる。それらに拠れば、自綱は鉄砲を使用していたようだ。これは、織田氏と結んでいた三木氏と武田・上杉氏と結んでいた江馬氏の戦法の差として表れたことを示していて興味深い。いいかえれば、三木軍は新兵器を擁し、江馬氏は旧戦法によって戦ったことになり、その結果は、新兵器を用いた三木氏の勝利に終わった。兵力・地勢に優っていた江馬氏が敗れたのは、結局、新時代への対応が遅れたためともいえよう。
決戦のあと、小島時光は高原郷へ討ちいって、江馬氏の本城である諏訪城を抜き、
江馬氏はまったく滅亡してしまった。江馬輝盛が倒れたのちの飛騨は、三木氏(姉小路を称する)に
抵抗する勢力もなく、三木氏の飛騨一国平定が成ったのである。しかし、その三年後の天正十三年、
三木氏もまた豊臣氏の攻撃を受けて滅亡した。ここに至って、飛騨の戦国時代は終焉を告げたのである。
■江馬氏の残照
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・諏訪高原城址を遠望 ・神岡城址(金森氏が再整備した)-城門と空堀 ・菩提寺の瓦に鎧蝶紋(2002/08)
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・復元された江馬氏館 ・築地塀 ・館を取り巻く空堀 ・庭園も見事に復元(提供:飛騨在住の郷土史家吾郷さま2008/10)
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江馬氏余聞
江馬輝盛が「八日町の合戦」で討死したとき、輝盛の子時政は、越前大野の金森長近を頼って落ち延びた。以後、金森氏に属して天正十三年、羽柴秀吉と対立する富山城主佐々成政攻めが起されたとき、時政は金森軍に参加し、成政と結ぶ姉小路自綱攻めに功があった。
ところが、戦後の論功行賞の不公平さに不満を抱いた時政は、一揆を起こして金森軍と戦い、結果、敗れて江馬氏はまったく滅亡した。・2004年11月22日
【主な参考文献:飛騨史の研究/飛騨の城/図説飛騨の歴史/日本城郭体系 など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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