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烟田氏
●九曜巴/巴
●桓武平氏大掾氏流
・一本「烟田氏系譜」に記載された家紋の記述による。
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烟田氏は「かまた」と読み、中世の常陸国鹿島郡の豪族であった。その出自は、常陸平氏大掾氏の一族である鹿島氏の分流と伝えられている。すなわち、鹿島氏の祖成幹の子親幹が鹿島郡のうちの徳宿郷に拠点をもち「徳宿権守」を称した。天福二年(1234)、親幹の子徳宿秀幹は子朝秀に烟田・富田・大和田・生江沢の四ケ村を譲り、一家をたてた朝秀が烟田氏を称したのが始まりである。
烟田氏の確立
烟田氏に関しては、『烟田文書』や『烟田旧記』など豊富な文献史料が残され、中世後期における東国武士の動向と存在形態を知るうえで格好の素材となっている。たとえば、朝秀は宝治元年(1247)に嫡子幹泰(綱幹)に譲状を残したが、この譲状には「嫡男一向に相伝領知せしむ」とあり、烟田氏が当時では珍しい嫡子単独相続を行っていたことが知られる。
単独相続制は鎌倉末期から南北朝期にかけてみられるようになるもので、朝秀の時代における相続は惣領制が一般的であった。その意味で、朝秀が残した譲状は嫡子単独相続制を示すもっとも早い段階の史料として注目されている。綱幹が相伝した四ヶ村は、地頭職という形で幕府からも認定されており、烟田氏は鎌倉御家人の一人でもあった。
綱幹は明確な譲状を作成しないまま死去したため、弟の家幹と子の義幹との間で所領をめぐる相論があった。義幹の所領相続に叔父の家幹が異をとなえたのである。そこで、義幹は祖父朝秀の綱幹への譲状をはじめ、種々の証拠文書を提出して、四ヶ村の地頭職が代々の嫡男に相伝される事情を説き、家幹の訴えを排することに成功した。そして、義幹もまた四ヶ村地頭職を嫡子景幹に譲ったのである。このように、烟田氏における相続は嫡子単独に貫かれていた。
ところが、義幹の子景幹の時代にふたたび相論がもちあがった。それは、景幹と兄知幹とが父義幹の遺領をめぐって争ったもので、幕府の裁定によって正式の譲状を得ていた景幹の勝訴に終わったが、この相論で興味深いのが知幹の訴えであった。知幹の訴えは景幹の兄で長子でもある自分こそ嫡子であり、嫡子が単独で所領を相続するならわしから、自分こそ四ヶ村を譲られる権利があるというものであった。そこで、嫡男と長子とは同一なのか、ということが問題になったのである。
幕府は、父祖の指定・承認を受けたものが嫡男であり、生まれながらの長男(生得之長男)が、嫡男とは限らないとの見解を示した。つまり、器量・才覚こそが嫡男の条件であり、父祖の認定が重視されたのである。当時の慣習として一般的に「生得之長男」が嫡子であると認められ、知幹の主張は一般的な原理をもって支えられたものであったが、景幹が与えられた義幹の譲状が最終的に優先されたのである。かくして、景幹も四ヶ村を嫡子の幹宗に譲渡している。
そして、景幹から四ヶ村を譲られた幹宗の代に、鎌倉幕府が滅び、建武の新政、南北朝の内乱へと時代は激変する。ところで、綱幹は「徳宿三郎太郎」、景幹は「徳宿孫太郎」を称し、鎌倉時代において烟田氏は徳宿姓として登場していることが知られる。その意味で、烟田氏が名実ともに成立するのは幹宗の代であり、その文書上の初見は建武二年(1335)の「烟田幹宗・時幹軍忠状写」においてであった。
南北朝の争乱を生きる
幹宗は建武三年に嫡子時幹へ譲状を残しており、南北朝の争乱期は時幹が四ヶ村の地頭として活躍するのである。常陸国は小田氏を中心とする南朝方と、佐竹氏を中心とする北朝方に分かれて動乱が続いた。そして、烟田時幹や一族の徳宿氏らは、鹿島氏を惣領にあおいで北朝方に参じた。
その活動のあらましは、『烟田文書』のなかの時幹の戦場への参着や軍功を示す、多数の着到状や軍忠状によってうかがうことができる。たとえば、建武四年の「烟田時幹軍忠状写」では小田城攻めに参加し、ついで「時幹軍忠状写」では佐竹義春に属して東条城の凶徒を追撃するなど、常陸国内を転戦したことが知られる。翌建武五年には、南朝の中心人物である北畠親房が常陸に下向し、小田治久・関宗祐・下妻政泰らに迎えられ、治久の神宮寺城に入った。
佐竹氏や大掾氏らは神宮寺城を攻め、親房らを河原崎城、ついで小田城へと逐った。この一連の合戦に烟田時幹も参加し、家子鳥栖太郎や若党の富田次郎太郎らが活躍したことが軍忠状にみえる。時幹の時代は、豪族烟田氏のもっとも華々しい時代であった。そして、烟田時幹は南北朝期を北朝(足利方)に属して活躍し、動乱の時代を生き抜いたのである。
時幹は永和元年(1375)に、烟田・鳥栖・富田・大和田の四ヶ村地頭職を嫡子重幹へと譲った。時幹は合戦につぐ合戦の時代のなかで、よく所領をまっとうし、子孫へと継承することができた。しかし、重幹の時代も戦乱は止むことなく、関東では合戦が繰り返された。康暦二年(1380)に「小山義政の乱」が起ると、重幹は鎌倉公方に味方して参陣し、諸処の合戦に活躍した。この小山氏の乱において重幹は、鹿島兵庫大夫の先陣をつとめ、応永三年(1397)の小山犬若丸追討のときも鹿島兵庫大夫の下に参陣し、奥州白河にまで出陣して犬若丸を支援する田村庄司一族と戦った。
このように、南北朝期の烟田氏は鹿島氏を惣領家として軍事行動をとっていた。そして、少しずつ宗家鹿島氏との関係を変えながら、次第に従属の度合いを深めていったようである。
戦国時代への序奏
十四世紀末の明徳三年(1392)に南北朝の合一がなり、室町幕府体制が確立されると、関東でも鎌倉府を軸とする政治体制が成立した。そして一時の平穏が訪れたものの、やがて新たな争乱が勃発した。応永二十三年(1416)に起った「上杉禅秀の乱」で、この禅秀の乱はその後の「永享の乱」「結城合戦」へとつづく一連の関東争乱の先がけをなすものであった。
応永二十二年、鎌倉公方足利持氏が関東管領上杉氏憲(禅秀)の忠告を無視して、小田氏の家臣越幡六郎の所領を没収した。これに対して、氏憲は管領職を辞して持氏に抗議の姿勢を示した。これに対して持氏は、氏憲の犬懸上杉氏と対立する山内上杉氏の憲基を管領職に起用した。収まらない氏憲は持氏の叔父満隆や京都の将軍家内部で将軍義持と対立する義嗣らと語らって、翌二十三年、持氏を孤立化させ兵を挙げたのである。
この禅秀の乱に際して、関東の武士の多くが禅秀方に参加した。常陸では小田氏、佐竹氏の一族山入氏、大掾氏らであった。一方、烟田氏は惣領の鹿島氏とともに公方側に味方した。緒戦は禅秀方が優勢であったが、幕府は義嗣を幽閉し、越後守護上杉房方・駿河守護今川範政らに禅秀追討を命じた。追討軍は持氏勢と合流すると武蔵の瀬谷原で禅秀方を破り、鎌倉に入った禅秀と一党が自害したことで乱は終熄した。
乱後、持氏は禅秀に味方した武士の討伐に躍起となったことで、関東の争乱は拡大していった。烟田幹胤は公方側に立つ鹿島氏の一門として、持氏の合戦に参加し、一族をあげて諸処の戦闘に参加したようだ。しかし、この持氏の行動は幕府との対立を来たすようになり、それを管領上杉憲基がよく諌めてきたが、ついに永享十年、持氏と憲基が対立関係となり「永享の乱」が起った。
かくして、関東の戦乱は繰り返され、時代は次第に戦国の様相を深めていくのである。以後も烟田氏は存続するが、史料は単発的なものとなり、その動向を体系的にとらえることは困難な状態になっている。
戦国乱世のなかの烟田氏
戦国時代の烟田の動向に関しては、文明十八年(1486)三月、烟田氏と一族の徳宿氏が江戸通長に攻められ、徳宿城は落ちて徳宿氏は滅び、烟田入道父子も討死したことが『江戸軍記』に記されている。そして、鹿島・香取・下総の諸勢が烟田氏の援軍に駆け付けて樅山で合戦となり、両軍に多くの死傷者が出て、江戸氏は軍勢を引いたとある。また、『鹿島治乱記』によれば、大永五年(1525)、松本氏ら鹿島氏宿老が江戸氏・大掾氏・島崎氏らを抱き込んで、鹿島義幹に対して叛乱を起したとき、烟田弥七郎・同永源らが鹿島方として戦い討死したとある。いずれも、軍記物語であるため、信憑性に問題はあるものの、戦国初期においても烟田氏が惣領鹿島氏に忠実に従っていたことはうかがえる。
徳宿氏が滅亡したのち、烟田氏は徳宿を支配下に収めたが、享禄三年(1530)に烟田泰幹は鉾田から巴川上流にある大和田に逃れ、天文五年(1536)に至って鉾田に復帰し、さらに同七年に烟田へ本拠を移しているのである。その間の事情は不明だが、おそらく、江戸氏勢力の南下や古河公方家の内訌などによるものと思われる。いずれにしろ、烟田泰幹は烟田に本拠を移して鹿島方に復帰し、以後、戦国時代の領主として生き抜いていくことになる。
『烟田旧記』によれば忠幹の代の永禄九年(1566)、武田通信が烟田氏の所領である新里・当間など三ケ村を侵害し、烟田忠幹は鹿島治時を恃んだが治時の不手際によって三ケ村を失った。この記事から、烟田忠幹は鹿島治時に従属して、その保護を受ける存在であったことがうかがえる。しかし、治時は配下の領主である烟田氏の所領を守ってやることができなかった。そのため、忠幹は治時から離れた動きをみせるようになるのである。
そのような忠幹の動きに対して治時は、忠幹の所領を二分する位置にある鉾田に支城を構え、三男の義清を配置し、烟田氏への支配を強化しようとした。この事態に忠幹は、江戸通政の娘を息子通幹の妻に迎えることで、独自の領主としての地位の保全を図ろうとした。その一方で、鹿島氏との関係も保つために鹿島本宗家より通幹に妻を迎えよとしたが、それは失敗に終わり、鹿島氏と烟田氏との関係は非常に不安定なものとなった。
以後、烟田氏は鹿島氏との緩やかな従属関係を保ちながら、自己の所領を保つために自立した動きもとった。いわゆる、戦国期の東国豪族層にみられる「洞」と呼ばれる権力編成が鹿島氏にもあり、烟田氏は鹿島氏の「洞中」の一員に位置付けられていたのである。
動乱の関東に生きる
永禄年間(1558〜69)以降、鹿島氏は江戸氏派と千葉氏一族国分氏派に分かれて内紛が続き、烟田氏も否応なく巻き込まれていった。
鹿島氏の最初の内紛は、千葉氏の支援を受ける治時の二男氏幹と、江戸氏と結びつく三男の義清との対立であった。永禄十二年三月、氏幹は軍事行動を起し、義清方に与した烟田氏も兵を出して戦った。そして、六月に夜討ちがあり、烟田氏方は多くの者が討死した。そこで、烟田氏は家中の烟田中務大輔・井川信濃守らを人質として氏幹方に出して和睦したという。内紛は氏幹方の優勢に展開するかと思われたが、義清方も負けていず、同年十月に氏幹が暗殺されたことで一応の決着がついた。
しかし、その後も鹿島氏の内紛はおさまらず、天正七〜九年の義清と弟貞信・清秀との対立、さらに天正十四年〜十五年には貞信・清秀兄弟と鹿島通晴の対立が続発し、鹿島氏は内紛に揺れ続けた。この江戸氏派と千葉氏派の内紛に際して、烟田氏はその主流派を見極め条件を付けて加担することで、自家の保身と支配地の拡大を計っていたようである。
そして、烟田氏は内紛を繰り返す鹿島氏や、江戸氏の鹿島郡への侵攻に対して、城郭などを整備して自衛策を講じている。永禄二年には烟田城を拡張し、天正六年(1578)には西光院郭に築地が突き立てられた。さらに、烟田城の西にも郭が築かれ、城郭の周辺には烟田をはじめとする宿が存在したようだ。『新編常陸国誌』をみると、烟田城の周辺には「烟田八館」と呼ばれる塙氏や井川氏ら家臣たちの大規模な城館群が築かれ、戦国後期の烟田城は防御施設も整備され順次拡張が加えられていたことが知られる。
ところで中世を通して常陸国で第一の勢力を誇ったのは佐竹氏であった。佐竹氏は永正元年(1504)に、有力一門の山入氏を滅ぼし北常陸を統一した。そして部垂の乱・江戸氏の乱を鎮圧して、天文末(1554ごろ)には大名権力を確立し、周囲に勢力を広げるようになった。そして、永禄三年(1560)の長尾景虎(上杉謙信)の関東出兵を利用して、常陸国中南部へも勢力を拡大していった。かくして、佐竹氏は常陸一国において軍事指揮権を行使するようになり、烟田氏は宗家鹿島氏の家中として従うという間接的な関係にとどまらず、佐竹氏は烟田氏にも直接的関係を結んできた。
・烟田氏の居城烟田城祉(左) / 烟田氏の宗家徳宿氏が拠った徳宿城祉
戦国時代の終焉
その後、時代は大きく変動し、天正十八年(1590)には豊臣秀吉の小田原北条氏攻めが起こった。佐竹氏は小田原参陣を果たし、義宣は従来から領有していた常陸・下野の二十一万貫余の領地を改めて秀吉から認められたのである。ここに佐竹氏は豊臣政権下の大大名として、また常陸の旗頭としての家格が定まった。このとき、烟田氏らも秀吉から所領の安堵を受けている。
秀吉から所領の安堵を受けた佐竹氏は、その支配を実質化するため、同年十二月、水戸城の江戸重通を襲撃し、江戸氏一族の根城十三館を掌握した。水戸城を奪った佐竹氏は、ついで大掾清幹の拠る府中城も攻撃し清幹を自殺させた。そして、翌天正十九年、佐竹氏の常陸国内統一の速度は早まり、平姓大掾氏一族が割拠する常南地方の制圧を開始した。そして二月九日、常南の鹿島・玉造・行方・手賀・島崎ら大掾氏一族の各氏は、佐竹氏の居城太田城に招かれて、一挙に殺害されたのである。このとき、烟田通幹兄弟も殺害されて烟田氏嫡流は断絶した。
生き残った城主や鹿島・烟田・玉造氏らの家臣も佐竹氏の攻撃にさらされ、強力な佐竹軍にことごとく滅ぼされた。こうして、諸豪族の死屍累々のうえに、佐竹氏の常陸国統一は成った。とはいえ、このような佐竹氏の行為は、常陸統一のためとはいえ酷薄なものであった。しかし、豊臣大名に連なった佐竹氏としては配下の領主を家臣として一律に把握し、すべての権限が佐竹氏に集中する強固な領国支配を完成することは不可欠なことであった。それゆえに、烟田氏ら旧い体質のままの諸領主との関係を断ち切る必要があったことは否定できない。
その後の鹿島郡には、佐竹一家の東義久、行方郡には一門の大山氏や重臣の小貫氏らが配置された。ここに常南の中世はまったく終焉を迎えたのである。・2005年07月07日
【参考資料:茨城県史/鉾田町史/戦国期常陸南部における在地領主の動向(今泉徹氏) ほか】
●写真は、「茨城の史跡散歩」さんが発信されている烟田城/徳宿城から転載させていただきました。雅楽頭さま、ありがとうございます。
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