伊達成実
竹に二羽飛雀
(藤原氏山陰流)
・竪三つ引両/九 曜 |
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戦国大名伊達政宗を支えた武将に片倉景綱と伊達成実がいた。景綱を理の人とすれば、成実は武の人であったといえようか。そして、成実は伊達氏の一門であった。
成実の父は伊達稙宗の三男の藤五郎実元で、実元は晴宗とは八歳の年下の弟になる。
父、伊達実元
天文年間(1532〜54)、生来利発で勇敢だという話を聞きつけた越後守護上杉定実に乞われてその養子となることが決まった。このとき、実の一字をもらって実元と名乗った。また、江戸時代に伊達氏の家紋として有名になった「竹に二羽飛雀」俗に「仙台笹」と呼ばれるものは、実元養子の一件に際して上杉氏から引出物として贈られたものである。しかし、稙宗の側室で時宗丸の母にあたる女性は越後の豪族中条藤資の妹(一説に葦名氏の娘ともいう)であったことから、藤資の勢力が拡大することを嫌った越後揚北の国人衆らはこの養子縁組に反対し、越後守護代長尾晴景と結んで伊達=中条氏と対立したのである。しかし、伊達・上杉両家は養子縁組を熱心に推進した。
ところが、伊達家中においてもこの養子縁組に反対する動きがでてきた。その中心人物は稙宗の嫡子晴宗であった。これに加えて稙宗の独裁に対して伊達家臣団の有力者たちが反発、伊達晴宗をかついで乱を起したのである。すなわち、天文十一年(1542)六月、越後上杉氏の後嗣として実元が出発する直前(三日前のことという)に、兄晴宗がこれをとどめんとして父稙宗を西山城に幽閉したため、伊達家中を二分する「天文の大乱」に発展した。結果、迎えにきていた上杉家の家臣らは実元を置いて越後へ帰ってしまい、実元の上杉氏への入嗣の話は立ち消えになった。
乱に際して、実元も当然渦中に巻き込まれて植宗から大森城をまかされ、越後行きどころではなくなった。そして、父植宗方として行動し、一時、大森城を晴宗方に落され梁川へ落ちるということもあった。天文十七年(1548)に至って、晴宗方の優勢が決定し植宗は隠居するということで伊達氏天文の乱は終熄した。乱が晴宗の勝利に終わったこと、天文十九年には上杉定実が死去して越後上杉氏も断絶し長尾景虎が実質的国主となるなどしたことで、実元は逼塞を余儀なくされた。
その後、大森城主として復活し、以後、兄晴宗に属して仙道筋の抑えを担い、また外交的役割を果たした。仙道筋の諸侯はいずれも、実元を通じて伊達家に話を通じたことが知られ、実元の活躍ぶりがうかがわれる。元亀元年(1570)、中野宗時が輝宗に叛して相馬に逃亡したが、のちに宗時は実元をひそかに訪ねて伊達への帰参の依頼をしたという。しかし、輝宗はこれを許さなかった。
天正二年(1574)、伊達氏から二本松畠山氏に通じた堀越能登守の居城八丁目城を攻略、二本松城へ迫ろうとしたが、二本松畠山氏が輝宗に泣きついたため和睦が成立している。天正十三年、息子成実に家督を譲り八丁目城に隠居した。とはいえ、翌年に相馬義胤が二本松畠山氏と伊達氏の和睦を取り持ったとき、実元はこれを政宗に取り次ぎ、伊達氏老臣らの評定によって和議を容れている。その二年後の天正十五年四月、実元は八丁目城において死去した。享年六十一歳であった。
政宗麾下の剛将、成実
成実は実元の嫡男として永禄十一年(1568)に生まれた。母は伊達晴宗の女で生粋の伊達一族であり、政宗より一歳の年下であった。成実は「英毅大略あり、一時勇武無双と号す」と称される傑物であった。
天正十三年、反伊達連合軍進発の報に接し政宗は、二本松城への押さえの兵を残し、全軍を挙げて本宮方面へと向かう。そして天正十三年十一月十七日、本宮南の観音堂山に陣を布いた。総勢四千人、別に伊達成実が千余人を率いて高倉近くの小山に陣した。連合軍は三隊に分かれて押し寄せ、陸羽街道上の人取橋周辺で衝突、激戦となった。このとき、偵察に出た鬼庭良直は攻撃目標にされて、七十三歳で討死にしている。とくに人取橋付近は一大乱戦の場となった。本陣と成実陣との間が主戦場と化したので、孤立した成実は死を覚悟して背面から敵陣に突入し凄惨な戦闘となった。伊達軍は兵力的に劣勢であったが、高所を利用し連合軍の反撃をしのいだ。やがて、夕暮れとともに戦いは中断され、決戦は翌日に持ち越された。
ところが、佐竹氏出陣の留守を狙って、関東の江戸氏や里見氏が策動したため、佐竹氏は常陸に帰国してしまった。合戦は両軍傷み分けという形で終結したが、政宗は連合軍の二本松救援という作戦意図を打破し、政宗恐るべしという畏怖の念を抱かせた。その意味では、後世に「人取橋の合戦」と呼ばれるこの戦いは伊達軍の戦略的勝利といえよう。
翌十四年、二本松城攻撃の最前線である渋川城を二本松勢が攻撃し、伊達成実は苦戦を強いられた。しかし、この戦いを契機に二本松勢は分裂をきたし、成実を通じて政宗に内応する者も出てきた。そして、伊達政宗に抵抗を続けた二本松畠山氏は、相馬氏の仲裁を入れて城を開き、会津領に落ちていった。その戦後処理は片倉景綱が勤めたが、のちに伊達成実と交代、成実は二本松城を賜り、安達郡三十三郷三万八千石を領した。
天正十六年反伊達連合軍と戦った「郡山表の戦い」に出陣、よく連合軍の攻撃を撃退することに功を挙げた。つづいて、翌十七年、伊達政宗と葦名氏が雌雄を決した「摺上原の合戦」にも大活躍を示した、さらに、二階堂氏を攻略した「須賀川の役」には伊達軍の中心勢力となって戦果を挙げた。まさに、成実は伊達政宗軍の先陣をつとめて、政宗の奥州制覇の戦いに活躍した。
奥州仕置
天正十八年(1590)、政宗の小田原参陣にあたり、時機を逸した行為であるとして秀吉軍を迎え撃つことを主張した。すなわち、政宗の葦名氏攻略は、豊臣秀吉が発した奥州惣無事令に違反するもので、秀吉は小田原攻略後に伊達政宗の征伐を企図していたのである。このとき、片倉景綱は小田原参陣を強く政宗に進言したため、成実と景綱は対立したが、小田原参陣が決定すると、黒川城の留守居役を務めて政宗に後顧の憂いをなさしめた。この間の経緯は、政宗側近の双璧である伊達成実と片倉景綱の性格をよく表したものといえよう。
小田原参陣をはたしたことで、政宗は首の皮一枚を残すところで窮地を脱することができた。しかし、その後の「奥州仕置」には、葦名氏から奪った会津領は没収されるというペナルティを課された。
同年、奥州仕置で所領を没収された葛西・大崎氏の旧領に新領主として入ってきた木村吉清父子の暴政に対して葛西・大崎旧臣らが一揆を起こした。この一揆は政宗が使嗾したものともいわれている。ともあれ、政宗は会津(黒川)城主となった蒲生氏郷とともに一揆征伐の軍を進めたが、その処置は生温いものであったようだ。さらに、家臣須田某が政宗の陰謀を氏郷に告げたため、氏郷は名生城に留まり政宗の陰謀のことを秀吉に報告した。このとき、氏郷と政宗が一触即発の事態となったが、成実は蒲生氏郷のもとに人質となって名生城に入り、武力衝突になることを回避した。
しかし、政宗は秀吉に召され、陰謀のことを裁決されることになった。政宗は金の磔柱をもって入洛し、裁決の場では一揆勢に送った書状の花押は自らのものではないと言い募って秀吉からの疑いを晴らした。この逸話に関しては諸書が取り扱って世に知られるところである。また、政宗は大崎・葛西領を与えるとの約束を取り付け、一揆勢を呵責ない姿勢で討伐し、大崎・葛西一揆は政宗軍に蹂躙され、大崎・葛西領は政宗の支配下に入った。まさに、陰謀たくましい政宗の面目躍如といったところである。
同十九年伊達政宗が岩出山城に移った時、成実は二本松城から改めて伊具郡十六郷、柴田郡一郷を賜って角田城に入った。
成実の出奔と復活
文禄二年(1593)の「朝鮮の役」に従い、帰朝して伏見にあった成実はひそかに高野山に脱出してしまうのである。
その理由は成実の戦功が諸将に冠たるものであったにもかかわらず、位録が石川昭光らの下におかれたのを不平としたためだとされている。留守政景が人を遣わして説得したが聞き入れず、ついに主命を帯びた屋代景頼によって角田城は討伐され、成実の家臣羽田実景以下三十余人が討死し。残った家臣たちは四散した。
出奔後の成実の行動は必ずしも明確ではないが、秀吉の死後、大久保忠隣を通して徳川家康に仕えようとしたというが、それは実現しなかたようだ。
慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際しては、上杉景勝が五万石をもって成実を召そうとしたが受けなかった。そのころ、石川昭光、留守政景、片倉景綱らが主命により翻意を促したため、ようやく帰参、白石の役ののち亘理城主として返り咲き、一門に列せられた。
その後、元和の大阪の陣(1615)に出陣、寛永十五年(1638)には江戸に朝し、乗輿での入門を許された。この時成実は奥羽の軍議を談じたが、将軍家光はその勇略を嘆称して時服二十、外袍十を下賜したという。政宗の晩年になると、片倉景綱らは鬼籍にあり、政宗の死をみとったのは成実だけであった。
そして、成実は正保三年(1646)六月、七十九歳で没した。政宗の覇業を援けて戦陣に明け暮れた一生であった。ところで、成実は武一辺倒だけの人ではなく、戦国期の政宗の活躍を今に伝える「成実記」の著者としても知られている。かれのあとは、政宗の九男宗実が継ぎ、は亘理伊達氏として明治維新に至った。
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■参考略系図
・『尊卑分脈』を底本に、『寛政重修諸家譜』、『姓氏家系大辞典』、新人物往来社『伊達政宗のすべて』、戦国大名系譜人名事典』に所収の系図などを併せて作成。
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