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野手氏
九曜/月星*
(桓武平氏千葉氏族)
*千葉氏族野手氏の本流という野手さまからいただいた情報


 桓武平氏千葉氏から分かれた椎名氏の一族。すなわち、椎名胤光の次男胤知が匝瑳郡野手村に住んで野手を称したことに始まるという。 寛元三年(1245)、胤知が七十五歳で亡くなると、六男で嫡男の六郎通胤がその跡を継いで野手城主となり、子孫は同城主として続いた。 天正十八年(1590)の小田原合戦で匝瑳郡の居城が落城したため没落、武士を捨てて土着した。
 一方、胤知の養子胤義は匝瑳郡井土野郷を領して井土野氏を称した。その子義成は「承久の乱」で戦功があり、 越中国松倉郷を賜り、子孫は越中国に移り住んだ。戦国時代、越中を神保氏と二分する勢力を有した椎名氏はその流れと いわれる。
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→椎名氏のページ


戦国時代の動向

 戦国時代の天文年間(1532〜55)になると、下総国内の情勢は急速に悪化。下総古河の古河公方足利晴氏と、下総小弓の小弓公方足利義明の対立が決定的なものとなったのである。両公方は下総の豪族たちに遣いをやって、味方になるように説得工作を繰り返した。そのような中で、八日市場城主押田氏は小弓公方方につき、野手城主の野手義長は古河公方に味方したた。そ結果、押田氏と野手氏とは対立関係となり、天文四年(1535)三月、「野手合戦」が起こったのである。
 三月十八日早朝、足利義明の命を受けた押田縫殿助は野手城へと向かった。野手義長は郎党二百名を指揮して防戦したもののついに落城し、義長と弟の義定・義孝、義長の嫡男義治は戦死した。落城の間際、家老の渡辺胤頼は城門で立腹を切ったと伝わる。胤頼の首級は彼の手紙とともに押田縫殿助に送られ、城兵の助命を嘆願した。縫殿助はこれに感嘆し、城将、城兵の助命を許したが、野手氏の所領は押田氏のものとなった。
 もう一人の義長の弟義通は家臣十八騎に守られて、常陸国江戸崎城主石橋貞氏のもとへと落ち延びていった。貞氏は常陸の大名小田氏治の家中の菅谷隠岐守に手紙を書いて、義通の身を託した。菅谷隠岐守はさっそく小田氏治に目通りを求めて氏治と義通の対盃を実現させ、義通は小田氏の客将として小田城下に館を与えられた。  以後、野手氏は三代にわたって小田氏の客将となった。義通の孫で最期の当主となった義為は、義通が小田氏を頼った二年後の天文六年(1537)、小田城南館にて生まれ、元服のときには小田氏より「治部」の通称を与えられた。しかし、天正年間に小田氏が佐竹氏によって滅ぼされると、常陸下妻城の多賀谷氏を頼っていった。

野手一族の転変

 ところで、義為が頼った野手氏は、すでに文明年間(1469−86)に下総野手氏の一族である野手良胤・清胤・盛胤らが、「鎌倉を追われて浪々の身」を、多賀谷氏の城下・下妻に居住し多賀谷氏の家臣となっていたものである。
 享徳三年(1454)十二月、鎌倉公方足利成氏は対立していた関東管領・上杉憲忠を謀殺し、京都の幕府から追討令を出された。将軍・足利義政は駿河守護職・今川範忠に命じて鎌倉を攻め、鎌倉公方成氏は下総国古河に逃げていった。将軍義政は、成氏に代えて鎌倉公方に弟の政知を据えようとした。しかし、関東の情勢悪化のため、政知は箱根に踏み込むことができず、結局伊豆の堀越に館を構えて「堀越公方」を称した。
 この「享徳の乱」で足利成氏の家臣だった野手良胤・清胤・盛胤らは、成氏のあとを追って古河を目指したと思われる。しかし、乱戦の中で古河に向かうことができず、迂回して下妻多賀谷氏のもとに身を寄せ、そのまま多賀谷氏の家臣となったのであろう。
 良胤らは野手氏の庶子たちであり、嫡男胤治は下総野手城主であった。良胤ら野手氏一族は、海上氏はじめ千葉一族が多く出仕している鎌倉府に仕えていたのだろう。享徳の乱に際して野手城主の野手胤治も、弟たちが仕える成氏に対して味方したことは間違いない。乱の結果、弟たちは常陸に走ったが、胤治は野手城を維持しえて、その後も古河公方に味方し続けたのである。
 そして、時代が下って天文年間の古河公方と小弓公方の対立に際して、野手義長は鎌倉公方の正式な子孫である古河公方に味方をした。しかし、先述のように押田氏の攻撃によって城を陥され、小田氏を頼った。さらに小田氏が没落すると、最期の当主である治部義為は、多賀谷氏に仕える野手良胤・清胤・盛胤らの子孫を頼っていったのであろう。
 その後、多賀谷氏は豊臣大名の一員となったが、関ヶ原の合戦によって没落、多賀谷一族は常陸から新天地へと旅立っていった。多賀谷氏の動揺は、野手氏にも影響を与えたものと思われるが、その動向は詳らかではない。

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■参考略系図


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