椎名氏
蔦 (桓武平氏千葉氏流) |
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越中の戦国時代に名を馳せた椎名氏は、千葉介常重の子胤光(一説に常重従兄弟)が千葉庄椎名郷(を領して椎名氏を称したことに始まる。胤光は鎌倉幕府の草創に活躍した千葉介常胤の弟にあたり、文治年間(1185〜90)に兄常胤から「匝瑳南条庄」を分与された。胤光は千葉庄内から匝瑳南条庄に地頭職として移り住み、同庄柴崎城を築き、南条庄を中心に匝瑳郡南部に椎名氏は発展していったのである。
椎名胤光の長男胤高は「保元の乱(1156)」で源義朝にしたがって活躍、頼朝の挙兵時にも従って功名をあげたとされる。胤高の次男胤義は叔父野手胤茂の養子となり、井戸野氏の祖となった。しかし文安九年(1272)、甥の胤員と「熊野山領下総国匝瑳南条東方新田」のことについて争い、胤義の子義成は山桑系椎名氏の所領に隣接する宮和田村に入った。その後、子孫はふたたび野手に戻り長谷・吉崎へと領地を北上させていった。
椎名氏嫡流の子孫は千葉宗家の重臣となり、康正元年(1455)八月十六日、千葉介胤直が庶流馬加千葉氏と争って亡んだとき、椎名伊勢守胤家(蓮胤)が円城寺貞政とともに多古城外の阿弥陀堂で馬加千葉氏を擁する原胤房と戦って敗れ自刃している。千田庄多古には円城寺氏の所領があり、さらに飯倉椎名氏の所領も近接しており、同地に逃れた千葉介胤直を円城寺氏と椎名氏は支援してともに討死したのである。
下って、椎名胤貞は粟飯原俊胤(千葉介重胤の弟)の後見人となり、天正十八年(1590)の小田原合戦では千葉氏の軍監として俊胤とともに小田原城に入り、小田原落城とともに椎名氏嫡流も没落した。
越中の椎名氏
一方、越中国新川郡松倉城に移住した越中椎名氏は、良明の孫頼胤のころ越中国松倉城主になったというが、それ以前の「承久の乱(1221)」後に新補地頭職を得て越中に入部したものと考えられている。南北朝期、頼胤は南朝方の領袖・新田義貞に属してその武勇をうたわれ越中五勇将の一人と称された。しかし、奮闘もむなしく延元三年(暦応元年=1358)七月三日越前で戦死したという。ところで、越中椎名氏が記録に登場する初見は、『太平記』にみえる椎名孫八入道である。さきの頼胤も孫八郎を称したことが系図にみえ、孫八入道はあるいは頼胤と同一人物かも知れない。
南北朝期の越中国守護職は井上利清・桃井直常・斯波高経らが政治情勢の変化によって次々と補されたが、その軍事抗争の過程で、椎名氏は井上氏、ついで桃井氏に与して幕府に反抗的な立場をとっていたようだ。応安二年(1369)、松倉城に拠った桃井氏が没落したことが『花営三代記』にみえ、椎名氏がそれまで桃井氏を支えていたことをうかがわせる。その後の康暦二年(1380)、越中守護職は斯波義将から畠山基国に交代した。
明徳三年(1392)の相国寺供養のとき、畠山満家郎等三十騎のなかに椎名長胤の名がみえ、この頃までに越中守護畠山氏の重臣になっていたようだ。しかし、このころの越中守護代は遊佐氏であり、椎名氏の領国支配への関与は知られない。
享徳三年(1454)、畠山持国の後継家督をめぐる内訌に際し、椎名氏は持国の甥弥三郎を擁し、持国の実子である義就派と対立した。さらに弥三郎死後は、その弟政長を推し「応仁の乱(1467)」勃発の要因の一つとなった抗争を続け、応仁の乱では東軍に属して戦っている。その後、文明十三年(1481)ごろの記録によれば、椎名氏が新川郡守護代としての立場にあったことが知られる。
応仁の乱が一応終結したあとも、畠山氏は政長派と義就派との抗争がつづいた。椎名氏は政長派としてたびたび合戦に参加し、文明十五年の河内太田城の攻防で椎名某が戦死し、明応二年(1493)の河内正覚寺合戦では椎名某が降参している。この明応二年の戦いは、将軍足利義材を擁した政長が細川政元のクーデタによって惨敗し、将軍義材も囚われ幽閉される結果となった。
のちに義材は神保氏らの手引きで救出され越中に下向し、明応七年まで滞在した。明応七年夏、畠山政長の子尚順を中心とする義材帰洛計画が進むとともに、当時、尚慶を名乗っていた尚順は越中衆を糾合するため越中に下り、遊佐・神保・椎名の越中三守護代家の嫡子に「慶」の一字を与えた。椎名慶胤・神保慶宗らの「慶」がそれである。
越中の戦乱
やがて、越中国では守護畠山尚順の勢威が衰えをみせ、守護代である神保氏と椎名氏とで二分されるようになったが、次第に神保氏の勢力が拡大していった。さらに、神保慶宗は畠山氏からの独立を図ったことから、尚順は越後守護代長尾為景に救援を求めて神保氏討伐を開始した。これより前、越後の長尾氏と神保氏とは、対一向一揆をめぐって対立し仇敵同士の間柄となっていた。
永正十六年(1519)長尾為景は越中に進攻した。このとき、椎名慶胤は神保慶宗に与して長尾勢に対した。翌年八月、越中勢は為景に敗れ、つづく十二月の新庄合戦では越中勢で討ち取られた者が多く、神保慶宗は逃れる途中で力尽き自害、椎名慶胤も討死したようだ。翌大永元年(1521)、畠山尚順から新川郡守護代に任ぜられた長尾為景は、椎名氏の旧領を安堵して椎名長常を又守護代とし新川郡支配をゆだねた。この長常はおそらく慶胤の兄弟であろうと考えられる。
その後、天文五年(1536)に長尾為景が死去したことで椎名長常の支配は不安定化し、射水・婦負郡の神保長職による神保氏再興運動が活発化した。長職は弓庄城主の土肥氏と結び、椎名氏との境界である神通川を越えて富山に進出し、椎名氏と神保氏との抗争は激化した。翌年、越中守護畠山稙長の意向を受けた能登守護畠山義総によって両者は和睦し、富山地域は神保氏の支配下に入った。しかし、長尾為景の子景虎(のちの上杉謙信)の越後統一が進むとともに、長常の跡を受けた椎名康胤も勢力を回復し、永禄二年(1559)には富山城の神保長職を圧迫するようになった。康胤は自分の娘を景虎の従弟長尾景直に娶わせて養子とするなど、長尾氏との結びつきを深めていった。
永禄三年(1560)三月、信玄の誘いに乗った神保長職は一向一揆と結んで、松倉城に攻め寄せた。椎名康胤は上杉謙信に援軍を求めてこれを撃退。逆に神保氏の居城・富山城を囲んだ。これに対して、神保長職はどうすることもできずに城を放棄して増山城に逃れた。しかし、ここも囲まれたために国外へ逃亡していった。
ここに至って、椎名康胤は越中一国支配を目論むようになったものと考えられる。ところが、永禄九年九月、能登守護の畠山義綱が遊佐・温井・長らの重臣層に追放されるという事件が起こった。以後、義綱の帰国問題が北陸の政局において重要問題となり、謙信と神保長職は義綱を支援する立場を示した。これは神保氏再興の道を開くものであり、椎名康胤には越中一国支配の野望をくじかれるものであった。
・椎名氏の軍旗
椎名氏の没落
永禄十一年春、畠山義綱の帰国作戦が具体化すると、椎名康胤は上杉謙信と対立する武田信玄、加賀・越中の一向一揆と結び、謙信に対抗して兵を挙げた。翌年、謙信は椎名氏の松倉城を攻め、敗れた康胤は逃れて砺波郡の一向一揆に投じ、元亀三年(1572)一揆方による富山城占拠を指揮した。しかし、天正元年(1573)謙信の攻撃により富山城は落城寸前となり、康胤は長尾顕景(のちの景勝)に謙信へのとりなしを頼んだが、容れられるはずもなく、謙信に討たれたと伝える。また『三州志』によれば、康胤は天正四年蓮沼城で没したともいう。
その後、椎名氏の居城であった松倉城には謙信の部将河田長親が入り、椎名氏の養子になっていた長尾景直が椎名氏の名跡を継ぎ、小出城や今泉城を守った。天正六年三月、謙信が死去し、織田信長が越中に進出してくると、河田・椎名の両氏は今泉城に籠り織田軍を迎え撃った。しかし、月岡野の戦いに敗れ、三百六十もの首級を奪われた。
やがて、謙信後の上杉家督をめぐる「御館の乱」が起こると、椎名氏は長尾景虎(謙信の養子)方に与したため、景虎方が敗北し景勝が上杉氏を継承すると織田方に走ったようである。天正九年九月、柴田勝家が椎名氏に協力を要請したことが知られるが、その後、椎名氏がどのようになったのかは不詳である。
ところで、椎名康胤が滅亡したとき、その実子重胤は、甲斐の武田勝頼を頼って伊那に隠れ、のち、下総の千葉邦胤を頼り、下総国匝瑳郡南条之荘にある光西寺に住んで、同地で亡くなったと伝える。子孫は、農業を営み現在に至っているという。康胤には康次という子もあったようで、康次は松倉城下の常泉寺に入り、松室文寿と称したといわれる。
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