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万歳氏
●丸に一つ引
●武内宿禰後裔/橘氏流
 


 中世の大和国は藤原氏一族の荘園が多く、その氏寺である興福寺や氏神の春日神社に寄進され、在地の有力者らが荘官(庄司)に任じられ荘園の管理・経営にあたった。そして、衆徒・国民として興福寺の強力な支配下に置かれた。やがて、鎌倉時代のはじめより興福寺は国司と守護職を兼ねるようになり、大和一国の検断権を行使した。
 そのような興福寺の荘園の一つである平田荘は、高田・布施・万歳・岡など在地の八荘官によって分割支配されていた。万歳氏は現在の香芝市の五位堂・鎌田地域を支配して、次第に勢力を拡大していったのである。こうして、大和の各地において在地の荘官たちを中核とした大和武士団が形成さていったのである。

万歳氏の登場

 万歳氏の名が歴史にあらわれてくるのは、天永三年(1112)の『東大寺文書』の「某(万歳氏)処分状」である。処分状は対馬守(万歳殿)が、葛下郡の土地を譲渡した記録で、六人の「きんたち」の内、四の「きみ」にわかちたてまつるとある。注目されるのは、対馬守に任官し、子女が公達・君と尊称されていることで、平安期において万歳氏が中流官人であったことがうかがわれる。
 万歳氏は伝えられる系図などによれば、古代葛城の氏族武内宿称の後裔といい、源頼朝に仕えて功のあった治部少輔友直が万歳を称したことに始まるという。一方、葛城王橘諸兄を祖とする系図もあり、出自を特定することはできないが、然るべき出自の家であったと考えていいようだ。
 大和武士たちは興福寺の支配下にあって、春日社の「おん祭」に流鏑馬を奉納することを誇りとしていた。元弘三年(1333)の『春日神社文書』に「流鏑馬十騎内万歳九郎一騎」とあり、ついで南北朝時代の至徳元年(1384)の『長川流流鏑馬日記』に「万歳殿」とみえる。そして、万歳氏は同じく平田荘の荘官である高田氏・布施氏らとともに平田党を結成して、おん祭の流鏑馬をつとめていた。
 興福寺は大乗院と一乗院の両門跡が並び立ち、衆徒・国民はいずれかの門跡に属していた。康正三年(1457)の『大乗院寺社雑事記』によれば、万歳氏は越智・布施・箸尾・片岡氏らとともに一乗院方の国民で、同記には万歳南・万歳北井氏らも一乗院国民として記録されている。このことから、室町時代なかごろになると、万歳氏は一族を分出して党を結成していたことが知られる。そして、市場を本城として、北角城、万歳山城を築き、大和西部において小勢力ながら乱世を生きたのである。

■ 衆徒一覧
一乗院方
筒井 竜田 山田 同戌亥 井戸 菅田 櫟原 小南 高桶 杉本東 六乗 岸田 唐院 秋篠尾崎 同南 鷹山奥 小泉次郎 池田下司 郡殿東下司 同西下司 幸前下
大乗院方
古市 小泉 同尾崎 番条 丹後庄 松立院 知足院 鞆田 同室 見塔院 法花寺奥 瓜生 北院 大安寺向 箕田 庵治辰巳 鳥見福西 今市新 森本 山村椿井 窪城 辻子 豊田 荻別所 福智堂 井上 長谷寺執行

■ 国民一覧
一乗院方
越智 布施 万歳 箸尾 高田 岡 片岡 細井戸 金剛寺 佐味 中村 嶋 桐谷 曽歩曽歩 平群新 兼殿庄屋 簀川下司 山陵 超昇寺下司 吹田 同豊田 鳥屋 子嶋 宇賀尾 箸尾大門 岡今井 万歳南 同北井
大乗院方
十市 八田 楢原 十市新賀 立野 同吉井 同松岡 倶志羅 目安 出雲庄西下司 同中下司 同兵庫 同松田 吉備 柳本 南郷 小林 三嶋 窪 牟山 三谷 深河 辰市堀 長谷川一党 同糸井庄衆 山田
・『大乗院社寺雑事記:康正三年(1457)』より

大乱への序奏

 南北朝時代になると興福寺では、一乗院が北朝方に、大乗院が南朝方に味方して互いに争うようになった。加えて、南大和の国民越智氏が南朝方に、北大和の衆徒筒井氏が北朝方について対立するという構図ができあがった。そして、この二つの勢力の動きが、そのまま大和の武士である衆徒・国民らの集合離散をうながし、抗争が繰り返される要因となった。興福寺興福寺の内部抗争は、必然的にその支配力の弱体化につながり、それが大和武士の自立化への動きをうながすことになった。
 南北朝時代における万歳氏の動向は不明だが、近郷の高田氏らとともに南朝方として行動していたようだ。南北対立の歴史は半世紀にわたって続き、明徳三年(1392)、将軍足利義満の尽力によって、南北朝が合一なった。ここに室町幕府体制が確立したが、幕府が合一時の約束を守らなかったことから後南朝の蜂起が起り、大和では越智氏が後南朝方として兵を挙げた。幕府は筒井氏を支援して越智氏に当たらせ、大和は越智党と筒井党に分かれて各地で抗争が繰り返された。
 そして、永享元年(1429)、豊田中坊と井戸両氏の争いから、大和国衆を巻き込んだ大乱へと事態は動いた。豊田中坊方には箸尾・越智・沢・秋山・万歳氏が、井戸方には筒井・十市氏がそれぞれ味方して、いわゆる「大和永享の乱」とよばれる擾乱が永享七年まで展開された。
 永享の乱が終熄したのちも大和の争乱は、越智氏と筒井氏を両軸として続いた。万歳氏は越智方として活動、長禄三年(1459)、筒井順永に攻められた万歳城は陥落、万歳氏は没落したが、ほどなく勢力を回復したようだ。やがて、河内守護管領畠山氏の内訌が大和に影響を及ぼし、大和武士は多大な犠牲を強いられることになる。
 畠山氏は幕府管領をつとめ、河内・能登・越中の守護職を兼帯する実力者であった。子息のなかった畠山持国は弟持富を養子に迎えたが、のちに実子が生まれたことで内訌が生じたのである。家臣団は養子派と実子派とに二分され、武力闘争へと発展した。持富死後は養子の弥三郎(死後弟の政長)と実子義就とが対立、政長方には筒井氏を中心として成身院・箸尾・布施・高田氏と多武峰衆が、義就方へは越智氏を中心に吐田・曽我高田・小泉延定房・高山・万歳・岡氏が味方した。抗争は泥沼化し、応仁元年(1497)、京都御霊神社における両畠山氏の激突をきっかけとして応仁の乱が勃発した。
 文明三年(1471)、布施氏が箸尾・楢原・倶尸羅・十市・筒井氏らとともに攻め寄せてくると、万歳方は越智・八田・飯高・古市・吐田・小泉氏らの応援を得て布施勢を迎撃したが相当の被害を被ったようだ。ついで同七年、筒井順尊が大軍を率いて万歳城に押し寄せた。越智党の援軍をえた万歳勢は城から打って出て、両軍の間で激戦が展開された。結果は筒井党の箸尾一族は壊滅的打撃を受けるなど、筒井方の大敗北となり、順尊は河内に奔り没落の身となったのである。文明九年(1477)、応仁の乱は京の町を焦土と化して終熄したが、戦乱は日本全国におよび、世の中は下剋上が横行する戦国時代へと確実に推移した。
・写真:若宮おん祭「お渡り式」に登場する、戦国時代の大和武士を彷佛させる甲冑武者。

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万歳城址を探る





万歳城址は、大和高田市の西方の田園のなかにある。その所在地については諸説があり、『日本城郭体系』では、春日神社の西方の地が城跡として紹介されている。一方、大和高田市の発掘調査報告書は、春日神社の東方、高田西中学校の後方にある名倉北池を万歳城址であったと報告している。たしかに、名倉北池西方の出郭であったという竹薮のなかには土塁跡と思われる遺構があり、何よりも名倉北池が高台を形成している。おそらく、名倉北池が万歳城址であったとみていいのではないだろうか。



打ち続く戦乱

 明応二年(1493)、将軍足利義材と管領畠山政長が河内に出陣した隙を突いて、細川政元がク−デタを起し、将軍義材を廃して新将軍義遐(義澄)を立てた。政元の謀議に協力した越智家栄は、一族、大和国衆を従えて上洛、幕政に参与した。この家栄の上洛には、高田・岡・箸尾・小泉・井戸氏らとともに万歳氏も同行したことが知られる。文字通り、大和は越智党全盛の時代を迎えたのであった。
 以後、越智氏の優勢が続き、勢力を強めた万歳氏は、布施氏や楢原氏らを撃破するなどその威勢を示した。しかし、明応九年に家栄が死去し、河内畠山氏の内紛が新たな様相を見せるようになると、筒井順盛の反攻が始まった。越智氏は各地で敗れて後退、越智党の万歳氏も城を焼いて没落逃亡せざるを得ない状況に追い込まれた。
 打ち続く戦乱は多くの戦死者をもたらし、下級層の庶民は飢餓に苦しめられた。かくして、抗争に明け暮れた大和国人衆の間に、ようやく和議の動きが生まれてきた。永正二年(1505)二月、布施安芸守・箸尾上野守・越智弾正忠・十市新次郎・筒井良舜坊の五氏が春日社頭に起請文を捧げて和睦の誓いを固めた。その証しとして、越智家令の娘が筒井順賢のもとに嫁いだ。ここに大和国衆一揆が成立し、万歳氏も在所に帰還することができた。
 永正二年十一月、細川政元の部将赤沢宗益(朝経)が河内へ出陣するため大和を通過する旨の通知がもたらされると、大和国人衆は連判してこれに反対した。連判衆は布施・箸尾・越智・万歳・吐田・楢原・片岡・筒井・十市の十氏で、万歳氏は大和国衆の有力者に返り咲いていた。つづいて、永正三年の安位寺炎上後の同寺再建の勧進奉加帳に、万歳右京進則定が署名している。この則定の代に、万歳氏は全盛期を現出したのであるが、万歳氏系図に則定の名は見出せない。
 その後、赤沢宗益は没落したが、赤沢長経ら他国勢の大和侵攻がつづき、万歳氏は大和武士のひとりとしてこれに抵抗した。永正四年、長経に対して一斉蜂起した大和国衆であったが敗退、筒井・十市氏らは万歳城に奔り再起を図ったがならず宇智郡に逃れた。ついで、天文元年(1532)には一向一揆が蜂起、越智・筒井氏らが協力してこれを鎮圧した。ところが、天文五年には木沢長政が大和に侵入、信貴山城・二上山城を築いて大和の経略に乗り出した。

筒井氏の台頭

 打ち続く他国衆の侵攻のなかで筒井順昭が次第に頭角をあらわし、万歳氏は越智党から筒井党に転じていったようだ。天文十二年、万歳則定は越智家頼に攻められているが、それは筒井方に変心した万歳氏への意趣返しであったとみられる。翌々年に家頼が死去すると順昭は越智氏の居城貝吹山城を攻略、『多聞院日記』に「一国悉以帰伏了、筒井ノ家始テヨリ如此例ナシ」と記されているように、筒井順昭は大和一国を統一する存在になった。
 他方、幕府管領で大和にも影響を及ぼした細川氏も内訌で揺れ、両細川氏の乱と呼ばれる内部抗争が続いた。畠山氏、ついで細川氏が権勢を後退させていくなかでにわかに台頭してきたのが、細川氏の被官であった三好長慶であった。長慶は下剋上で細川氏を圧倒すると畿内を征圧、永禄二年(1559)、重臣松永久秀を大和に侵攻させた。
 大和に乱入した久秀は筒井順政、十市遠勝らを攻撃、信貴山城を拠点にすると、翌年には辰市城を攻撃、救援に出陣してきた順政を破った。万歳氏ははじめ久秀に抵抗をしたが、順政が敗れると万歳城を開いて久秀に降った。着々と大和の支配体制を確立する久秀は、永禄八年、筒井城を攻撃すると筒井順慶を布施城に奔らせた。すでに岡・箸尾・十市・高田氏らが久秀の配下に入り、大和一国は久秀の勢力が席巻するところとなった。
 やがて長慶が死去すると三好氏は久秀と三人衆とに分裂、三人衆は筒井順慶と結び、久秀は河内の畠山高政と結んで抗争が展開された。永禄十年には大仏殿に立て籠った三人衆を久秀が攻撃、大仏殿を焼き払うという暴挙を行った。抗争が筒井・三人衆の優勢に傾くと、万歳氏は久秀から離反して順慶に同調した。ところが、翌十一年、織田信長が上洛、劣勢の久秀はただちに信長に通じ、大和の仕置きを認められた。そして、細川・和田・佐久間氏らの援軍を得て筒井方を攻撃、万歳氏ら筒井方の諸将はよく久秀方の攻撃をしのいだ。
 筒井順慶は信長に好を通じようとしたが拒否され、劣勢に追い込まれていった。ところが元亀二年(1571)、久秀は武田信玄に通じ、さらに三人衆と結んで信長から離反した。しかし、信玄死後の天正元年(1573)、ふたたび信長の支配下にもどるという離れ業を演じた。この間、順慶は久秀と戦いつつ信長への接近を図り、天正二年には箸尾氏らとともに上洛している。翌三年、原田直政が大和守護に任じられたが、ほどなく本願寺との戦いで討死、翌四年、順慶は信長から大和守護に任じられた。ここに、大和の戦国史は大きな転機を迎えたのである。

戦国時代の終焉

 天正四年、ふたたび信長に謀叛を起した久秀は、信貴山城を信長軍に攻撃され爆死して滅亡した。以後、大和は筒井順慶が支配するところとなり、万歳氏は筒井順慶の麾下となって織田信長に仕えた。天正十年(1582)、信長の武田氏攻めの陣に加わって甲斐に出征している。同年六月、本能寺の変が勃発、織田信長が明智光秀に殺害された。
 かくして、時代はまたも大きく動き、山崎の合戦において光秀を討ち取った羽柴(豊臣)秀吉が天下人に出世した。本能寺の変後、筒井順慶は進退に明朗さを欠き、「順慶の洞が峠」という嬉しくない異名を送られたが、秀吉から従前の通り大和の支配を任された。しかし、順慶が死去すると養子の定次が伊賀に転封となり、秀吉の弟秀長が大和・紀伊百万石の太守として郡山城に入ってきた。ここに、大和の中世は完全に終焉を迎えたのである。
 信長から秀吉にいたる時代の激変のなかで、大和武士の多くが滅亡、あるいは没落していった。そして、万歳氏も大坂の陣において大坂方に参加、滅亡への道をたどったのである。・2007年05月30日→11月09日

参考資料:奈良県史・11巻/大和高田市史/当麻町史/広陵町史 ほか】

■参考略系図


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