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青地氏
隅立て四つ目結
(佐々木氏流馬淵氏族)


 青地氏は佐々木氏の支流馬淵広定を祖とする。馬淵広定は佐々木定綱の五男で、蒲生郡馬淵庄を領して馬淵を称したのに始まる。この広定の四男基綱が青地右馬助の養子となり、青地氏を継いだという。その時期は鎌倉時代の中ごろと考えられている。青地庄は経済的にも交通的にも重要な位置を占めており、江南地方に勢力の拡張を目指す馬淵氏や、その背後にある佐々木氏にとって青地庄に一族の者を配置することは有効であったために、基綱を青地氏の養子として青地氏を佐々木氏の一族化したものだろう。
 青地という地名が示しているように、青地は生産力の豊かな土地であり、東海道・東山通、さらに琵琶湖岸を結ぶ重要な位置であった。はじめは志津庄と呼ばれていたが、青地氏がこの地を領して、永禄年間以降(1558〜70)、在地領主として勢力を振るうようになってから青地庄と呼ばれるようになったと伝える。
 ところで、基綱が継いだ青地氏とはどのような氏族であったのだろうか。志津庄と呼ばれていた頃の荘園領主は、古代豪族である小槻氏であったようで、青地氏は小槻氏の荘園を預かる荘官をその祖としているようだが、その実態は不明である。

青地氏の台頭

 佐々木氏流青地としては、基綱の子忠綱がはじめて青地城を築き、近江源氏七頭の一人として湖南を支配するようになったと伝えられる。
 基綱が青地氏を相続してのちの弘安四年(1281)、その子基氏は一族とともに小槻大社に神櫃を寄進している。この櫃の銘文から青地一族が惣領基氏を中心とする武士団を結合していたことが知られる。その後、惣領は基氏から弟忠綱の子である冬綱に継承されたようだ。冬綱は近江守護代を務め、その権勢は同地の豪族田上・沢氏らを押えて、ひときわぬきんでていた。
 建武三年(1336)八月の能登野の合戦に、青地源五入道の名が見えている。このころ惣領は氏重であったが、氏重は建武二年に死亡しており、子の重頼は成人していなかった。さきの源五入道は、おそらく氏重の弟で、重頼の叔父にあたる人物であったものと考えられている。幼い重頼の後見役を勤めていたものだろう。
 重頼は一族の長老や累代の重臣の補佐を得て、建武以来の動乱期を過ごしていたが、正平二年(1347)、佐々木六角氏より動員令が下った。この年、楠木正行が南河内に兵を挙げ、足利尊氏は細川顕氏を将として諸国に兵を募った。近江では六角氏頼が、弟山内五郎右衛門を将として、伊庭・目賀田・青地・平井氏らに出陣を命じた。しかし、藤井寺の戦いと称されるこの合戦は、足利方の惨敗となり初陣の青地重頼にとっては惨めな戦いであったようだ。
 その後、重頼は甲賀郡へ出陣し高山氏らと戦った。観応三年(1352)、足利義詮は京都の男山八幡山城にこもる南朝方と対陣していたが、高山氏らによって瀬田橋が焼かれたために、重頼をして瀬田の地を確保するべく命じた。この戦いにおいて重頼は高山氏らに勝利をおさめ、重頼の武名は高まり、のちに「郡奉行」の要職を務めるようになった。
 正平十五年(1360)、仁木義長が南朝に降伏し、伊勢・伊賀から甲賀に入り、大原・上野氏を加えてあなどりがたい勢力となった。このため六角氏に将軍義詮から討伐命令が下り、氏頼は弟山内定詮を将として国内の武士を指揮して仁木軍に対した。青地氏は馬淵・伊庭・三井・三上らの諸氏とともに陣を張り、定詮の隊を中軍として敵を迎え撃った。戦いは定詮の絶妙の指揮と将士の奮戦により、仁木軍は名ある武士多数を失って敗走した。しかし、この合戦で青地重頼は、三十八歳を一期として戦死した。


. 青地城界隈を歩く  


青地城は、鎌倉時代初期に青地忠綱が築いたと伝えられるが、『近江栗太郡志』んは応仁の乱以後に築かれたとある。いずれにしろ、近江守護佐々木氏の「佐々木七騎」の一人に数えられ青地氏代々の居城であった。市街地にある平城としては比較的遺構が良く残されており、小学校前の城池、小学校と主郭の間にある空堀、裏門付近にある土塁など見応えがあるものばかりだ。

城址の一角には、青地氏のご子孫が建立されたという「青地城主の碑」があり、青地氏の「隅立四つ目結」紋が見られる。また、城址の一角を占める小槻神社は、青地氏の崇拝が篤く、貞治三年(1364)、青地頼定が神輿を奉献したことが記録に残されている。

 


青地氏と戦国時代

 戦国時代、細川澄元が京都の兵乱を避けて青地城に逃れ、佐々木氏の命を受けてた青地伊予守が洛北勝軍山合戦に参加して功を立てたことが知られる。また、伊予守は永禄七年(1564)、平井定武とともに織田信長の岐阜城攻略の援軍として美濃に出陣したことが当時の記録にあり、戦国後期における青地氏の南近江における勢力のほどをうかがわせる。
 戦国時代末期、蒲生氏から入って青地氏を継いだ茂綱は、織田信長に従い伊勢・北畠氏攻略等に参戦した。元亀元年(1570)九月、信長と対立する浅井・朝倉勢が近江を南下し、坂本口へ押し寄せてきた。青地茂綱は森可成・織田信治らとともに宇佐山城において、これを迎え撃った。しかし浅井・朝倉勢は大軍で、ついに織田勢は崩れ立ち、森可 成・織田信治らとともに茂綱は戦死した。
 この茂綱の功により、嫡男元珍(もとよし)は青年武士の一人として親戚にあたる蒲生氏郷らとともに信長に仕え、信長の催した馬競べの勇士にも抜擢されている。そして青地城主に封じられ、佐久間信盛の与力となり石山本願寺攻めなどに従軍、信盛の追放後は信長直属武将として活躍した。
 ところが、天正十年(1572)六月、信長が本能寺において明智光秀に討たれると、元珍は織田信孝に仕えた。これが、結果として青地元珍の不運となったのである。すなわち、明智光秀を討った羽柴秀吉がにわかに織田氏家中で台頭し、織田氏の重臣筆頭である柴田勝家と対立するようになり、織田信孝は柴田勝家に加担したのである。
 このため、信孝の重臣の位置にある元珍も羽柴秀吉にうとんぜられ、信孝が滅亡したあとは浪々の身となり、蒲生氏郷のもとに寄食するにいたった。しかし、蒲生家もその後断絶となり、結局加賀前田氏に身を寄せて二千石を給され、子孫は代々加賀藩士として続き明治維新に至った。
 もし、元珍が羽柴秀吉に属していたら、小さいながらも大名にはなれていたのではないだろうか。しかし、当時の状況からみて織田信孝に従うんは自然ななりゆきであり、青地氏にとってはまことに不運なことであったというしかない。

参考資料:草津市史/田中政三氏=近江源氏 ほか】   →六角氏の情報へ



■参考略系図


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