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姉小路氏
●藤の丸/日光月光*
●藤原北家忠平流
『羽継原合戦記』に飛騨国司の幕紋として「日光月光」と記されている。
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藤原氏北家の支流。摂政左大臣忠平の子師尹のとき姉小路を称したのに始まる。
鎌倉時代、姉小路家は鎌倉幕府と関係をもち、摂家将軍頼嗣のころから宮将軍宗尊親王に至るまで、鎌倉に在住して幕府へ参勤していた。忠時は讃岐守を受領し師平と改名、のちに正四位下宮内卿に昇った。子の頼基は従三位に昇り、その子の高基は従五位に昇り、のちに侍従に任ぜられた。いずれも鎌倉に住し、幕府に仕えていた。そして、元弘三年(1332)鎌倉幕府が滅亡したことで京都に還住したようだが、鎌倉幕府=北条氏に近かったことで、逼塞を余儀なくされた。当然、建武政権から登庸の沙汰もなかったようだ。
このように、姉小路氏は南朝方といわれるが必ずしもそうではなく、高基の叙位叙官は北朝方によってなされた。すなわち、後醍醐天皇が吉野遷幸後、足利尊氏が豊仁親王(光明天皇)を奉じて北朝をひらいたのち、左近衛少将に任ぜられ、さらに従四位に進み、興国五年(1344)には正四位下宮内卿に昇った。鎌倉幕府滅亡から建武政権発足、南北朝分裂という動乱の時代を生きた高基は正平十三年(1358)に死去した。
南北朝の争乱
高基の嫡子が、はじめて飛騨国司に任ぜられた家綱である。『南山史』によれば、「家綱は従三位に叙せられ、参議に任ぜられる。建武の初め諸国司が置かれ、家綱は飛騨国司に任ぜられ、信包城に住す」とみえる。
建武元年(1334)、後醍醐天皇は親政にもとづく政治体制として地方政治は国ごとに国司と、公卿方の武家から守護を補任した。飛騨は姉小路家綱を国司に、守護には鎌倉攻めに功のあった新田義貞の一族岩松経家を任じた。その後、経家は「中先代の乱」に武蔵国女形原で北条時行軍と戦い討死した。
建武新政権の功労者である足利尊氏は、後醍醐天皇と公卿による時代錯誤な政治に不平をもつ諸国の武士を糾合して新政権に反旗を翻した。そのきっかけとなったのが「中先代の乱」で、尊氏は天皇の許しを得ないまま北条時行討伐の軍を率いて関東に下り、時行軍を蹴散らすと鎌倉に居座った。これに対して後醍醐天皇は討伐軍を発し、それを尊氏は箱根に迎え撃った。合戦に勝利した尊氏は逃げる新政権軍をおって上京し、京都を制圧した。しかし、その後北畠顕家軍に敗れて九州に敗走したが、ふたたび勢力を回復して東上し湊川に楠木正成を打ち取り、新田義貞を走らせ再び京都を制圧するに至った。
かくして後醍醐天皇は吉野に移られ、尊氏は光明天皇をたてて吉野朝に対抗する朝廷をひらき幕府を草創したのである。以後、日本国内は南北に分かれて、政権争奪戦が繰り返された。それに加えて、足利尊氏と弟直義の対立から「観応の擾乱」が起り、情勢はさらに混迷を深めた。
この時代、飛騨国は益田郡を中心に大野郡を含む南部に守護の佐々木京極氏、吉城郡を中心とした北部には姉小路氏が勢力を有し、その間に高原の江馬氏や武安郡の広瀬氏などが力をもっていた。
ところで、南山史には姉小路家綱は建武の初めに飛騨国司に補せられたと記している。しかし、周辺の状況から考えて、家綱が飛騨国司に任じられたのは、父高基の死後のことと思われ、おそらく応安(1370年頃)の初めであろうと思われる。
応安四年(1371)、観応の擾乱で直義党の中心として活躍した越中国前守護桃井直常が兵を挙げた。姉小路家綱は直常を支援するために越中に出兵したが、越中守護斯波義将軍と五井荘で戦い大敗し、国司舎弟らが降参あるいは生け捕られた。その後の家綱の動向は詳らかではない。ただ、永和四年(1378)、光明院法主の推挙により、飛騨国司の上階が宣下されたことが『愚管記』にみえている。
南北朝期、姉小路氏は南朝方に尽くしたとされる。それは、おそらく南部の足利党の佐々木京極氏と対抗するため、さらに、高原郷および小八賀郷南部には南朝方の武士が多かったこと。加えて、越中の桃井氏との関係などから、南朝方として進退するようになったものと考えられる。
飛騨の動乱
明徳三年(1392)、将軍義満の提唱により南北朝の合一がなった。とはいえ、実質的には足利氏が政権を握り北朝が皇統を継ぐことになったもので、南朝方にとっては屈辱的和解であった。そのため、表面上は合一となったもののその余塵はくすぶりつづけた。
応永十二年(1405)ごろ、姉小路氏は小島・古川・向の三氏に分かれていた。嫡流は小島姉小路氏で家綱の子師言が当主の座にあり、京都に住んでいた。飛騨国司は古川姉小路尹綱(以下古川氏)が補せられ、小島姉小路氏(以下小島氏)と対立していた。そして、小島氏に有利なはからいをする幕府の措置に怒った古川氏は、小島氏および小島氏と幕府との仲をとりもっていた向小島城の向氏を討つべく、応永十八年(1411)小島・向小島両城を襲撃した。その結果、尹綱は幕府の討伐を受ける身となったのである。
この飛騨争乱に際して将軍義持は佐々木六角満高に討伐を命じたが、満高は命令に従わなかったため、飛騨守護の佐々木京極高光に命じた。しかし、高光は病臥中であったため弟の高数が出兵した。高数は京極氏領国の近江・出雲・隠岐の兵に加えて、越前斯波氏の被官朝倉・甲斐氏、信濃の小笠原持長らの兵五千余を指揮し、南は高山方面から、北は越中から古川盆地へ攻め入った。
迎え撃つ尹綱軍は、武安郷の広瀬常登の参陣をえたものの総勢五百という人数で、攻撃軍の十分の一にも足りなかった。尹綱は小島城を最後の拠点として戦ったが、ついに出雲の赤穴弘之(異説あり)に討たれ、広瀬常登も捕らえられて斬首され、戦いは国司方の完敗に終わった。
尹綱の滅亡後、小島師言は尹綱の子昌家を引き取って子の持言と兄弟同様にして養育し、昌家が成長すると古川家を再興させた。師言と昌家は京都に住んでおり、飛騨にはもう一つの庶流向姉小路氏が土着していたようだ。師言の死後、持言が継ぎ従四位下左中将に任ぜられた。一方、昌家は享徳四年(1455)正三位参議に任ぜられ、以後、基綱・済継と参議に任ぜられ、姉小路氏は嫡流小島氏より古川氏の方が上位になった。
戦国乱世と姉小路氏
やがて、幕府管領畠山氏の家督争い、将軍家の内訌などが相まって「応仁の乱」が勃発すると、姉小路氏は西軍に属した。しかし、応仁二年(1468)小島勝言と古川基綱との間で所領争いが起り、姉小路氏一族も分裂を生じた。さらに、文明三年(1471)には飛騨国支配を進める守護代多賀氏の先鋒三木勢が古川に侵攻したが、姉小路氏は三木氏を討ち取った。姉小路氏の威勢はおおいにあがったが、美濃の斎藤妙椿が姉小路軍を牽制したことで戦は和睦に終わり、姉小路氏は京都に上ったようだ。
ところで、国司という称号は姉小路三家それぞれについており、同時代の小島勝言・古川基綱・向之綱いずれも国司であった。そのため、国司は官職ではなく通称に過ぎなかったともいわれる。おそらく、嫡流小島姉小路氏のみが正式な国司で、庶流姉小路氏は国司を僭称していたものと考えられる。
文明五年(1473)、古川と向の両国司が飛騨から追放され、守護京極氏が権力を掌握した。同十年、興福寺大乗院門跡に宛てられた国司中将小島勝言の書状には、「文明八年より飛騨国を知行し、同九年からすべて知行した。国に姉小路は一人もいない」とある。ここに出た姉小路とは古川・向両氏であろう。また、文明四・五年ごろ、基綱の古川家、小島・野口両城の小島氏、向小島・黒内両城の小鷹利家がともに主流と称して相争った。この戦いで勝言の嫡子が討死したが、同八・九年には小島氏が勝ってその後和睦したことが『大乗院寺社雑事記』にみえる。これらのことから、小島勝言が守護京極氏と結んで勢力拡大に努めていたことが推測される。
間もなく勝言は没したようで、あとには四歳の子が残された。勝言の死によって古川・向両氏が復活し、古川基綱が小島郷をも知行した。その後、基綱は京に上り勝言の子時秀が成長すると娘を嫁がせた。こうして、基綱は姉小路一族を統制し、比較的安定した時代をもたらしたのである。一方、守護の京極氏は大乱のなかで分裂し、守護代多賀氏も衰退し、代わって国人の三木氏が台頭してくるのである。
基綱は和歌をよくし、またたびたびの叙位で従三位下権中納言に昇り参議に列した。明応八年(1499)、基綱は飛騨の知行地の不安定な状況をもって、帰国せんことを後柏原天皇に奏上し、十二月下旬、老母や妻子を伴って大雪の中を旅して古川に到着した。
姉小路氏の衰退と没落
飛騨に帰国した基綱は、永正五年(1504)六十四歳を一期として古川の館で病没した。基綱の死後は済継が継いだが、基綱・済継父子は京都に長くいたため、国司家の家政は年とともに弛緩をみせつつあった。そして、在京の国司家に代わって領国の家政を預かっていたのは、古川家の被官古川次郎富氏であった。
他方、新興の三木重頼は益田郡を中心に支配体制を固め、大野郡への進出を狙っていた。しかし、永正十三年(1516)に重頼が没すると、高原郷を地盤としていた江馬氏が三木氏にとって代わろうとして兵を挙げた。姉小路済継は飛騨国に下向し、三木氏と連合して江馬氏を討った。
このころになると世の中jは下剋上の嵐が吹き荒れる戦国時代であり、国司家の家政を預かっていた富氏が次第に不逞の思いを抱くようになったようだ。永正十五年(1518)五月に飛騨帰任中の済継が急死、ついで大永七年(1527)十月には済俊が急死、さらに享禄三年(1530)以後の済俊の弟高綱の史上からの抹殺など、飛騨国司家は三代にわたって不可解な死を遂げている。この裏には、主家乗っ取りを画策する古川富氏の暗躍があったとする史家もいる。
飛騨国司家の実権を掌握した古川富氏は、古川家被官のうちの反対派を弾圧して古川殿と称されるようになり、忍城の牛丸氏とともに勢力を維持しようとしていた。これに対して、益田郡の三木直頼は小島・向小島両家の協力を得て兵を動かし、享禄四年、古川城を攻撃した。敗れた古川富氏は討死し、古川城の敗残兵は小島方面に逃れようとしたが、三木方の大野勢の追撃によって捕捉殲滅された。
古川家の勢力衰退によって、小島時秀が次第に力をもってくるようになった。時秀は三木氏と結び、これに古川氏が対抗したが、姉小路氏は同族相撃って勢力をいよいよ弱体化させていくことになる。
やがて、戦国時代は地方勢力同士の小競り合いから、さらに大きな勢力による争いへと様相を変えていった。そして、信濃を攻略した甲斐の武田信玄が飛騨に目を向けるようになり、武田方に属した江馬時盛は三木氏に加担する姉小路氏を攻め古川盆地を掌中におさめようとした。一方、天文の末年(1554)ごろには、三木氏の勢力が古川盆地を席巻し、古川家の所領は三木良頼の領有に帰した。
良頼は永禄元年(1558)飛騨守に叙任され、翌年には良頼の嫡子光頼(のちの自綱)が姉小路古川家の国司号を継承し、姉小路家は三木氏に乗っ取られたのである。
■姉小路氏の残照
・小島城址を見る ・復元された城門? ・城址に残る曲輪址
ところで、小島姉小路時秀のあとは、時親─雅秀─時光と続き、時光の時代が、戦国末期の天正期(1573〜92)で、飛騨にはすでに国司姉小路氏や守護京極氏の勢力はなく、かつて京極氏の被官であった三木氏が国司姉小路氏の名跡を継いで勢力を振るっていた。
天正期の三木氏は自綱の時代で、天正十年(1582)十月、高原郷を根拠地とした北飛騨の雄江馬輝盛と八日町で戦い、江馬氏を倒して飛騨を平定した。この戦いに、小島時光は自綱と同盟して出陣し輝盛軍を撃退した。しかし、同十三年、羽柴秀吉の命を受けた越前大野城主金森長近が自綱討伐のために飛騨に来攻し、旧姉小路氏関係の諸城を攻め落とした。小島城もこのとき落城したが、小島時光とその養子元頼(三木自綱の子という)が、どこで討死したのかは不明である。
ここに至って、飛騨国司家姉小路氏は、まったく滅亡したといえよう。・2004年11月22日
【参考資料:古川町史/飛騨史の研究/飛騨の城/図説飛騨の歴史/日本城郭体系 など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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