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赤松氏
●二つ引に三つ巴
●村上源氏季房流
・二つ引両/左三つ巴
 


 播磨国の戦国史は、南北朝時代に活躍した功により播磨守護職に補任された赤松氏の歴史とオーバラップしているといっても過言ではない。赤松氏は室町幕府の三管四職の一として幕閣に重きをなしたが、嘉吉元年(1441)、ときの赤松氏惣領満祐が将軍足利義教を殺害したことで嫡流は一旦断絶となった。いわゆる嘉吉の乱であり、赤松宗家断絶後、播磨守護職は乱鎮圧に活躍した山名持豊(宗全)が任じられた。
 嘉吉三年、後南朝勢が内裏を襲い、三種の神器の一つである神璽を持ち去るという事件が起った。世にいう禁闕の変で、赤松宗家再興を目指していた小寺藤兵衛・間島彦太郎ら赤松遺臣は、神璽を奪い返すことを条件に赤松宗家再興の一件を幕府に願った。そして、長禄元年(1457)、遺臣らは神璽の奪還に成功、翌年には満祐の弟義雅の孫政則が加賀半国の守護に任じられて赤松氏の再興がなった。

赤松宗家の再興

 政則と赤松家臣団は、山名氏が守護職にある播磨国の回復をめざした。政則は管領細川勝元の後楯を得たが、それは山名持豊を刺激する結果となり、応仁の乱が起る一因ともなった。応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発すると政則は勝元を領袖とする東軍に与して大活躍、ついに播磨をはじめ美作・備前などの旧領を回復した。さらに、侍所頭人にも任じられるなど赤松氏にかつての栄光をもたらしたのである。この政則の躍進を支えたのは、長禄の変に活躍した家臣たちであったが、とくに浦上則宗と赤松政秀が双璧であった。
 浦上則宗は侍所所司代として活躍、やがて主家赤松氏を凌ぐ勢いを見せるようになる。一方の赤松政秀は下野守を称し塩屋城主であったが、赤松氏系図における位置付けをふくめ経歴など不明な点が多い。この下野守政秀が龍野城を築き、子孫は西播の戦国大名龍野赤松氏へと発展していくことになる。
 ところで龍野城のはじめについては諸説があり、龍野の鶏籠山に着目した赤松政則が文明年間の末期に築城、のちに実子村秀に譲ったという説。また、晩年に細川政元の妹を室に迎えた政則が、側室に生ませた村秀を正室に遠慮して、一族の老将下野守政秀に託した。政秀は政則から託された村秀のために龍野城を築き、村秀が龍野赤松氏の祖になったとする説などが流布されている。
 確実な同時代の史料である『鵤荘引付』などによれば、下野守政秀には中務少輔則貞という子があり、則貞は龍野の西方相生の那波城に拠っていたことが知られる。そして、則貞は孫の村秀と対立、ついには合戦に及ぶようになり、最後は村秀にによって自害させられた。この村秀と政則の子という村秀とが混同されて、龍野赤松氏の系譜を分かりにくいものにしているようだ。


写真:鶏籠山を遠望 /鶏籠山上にある龍野古城址の石垣

→ 古龍野城址に登る


龍野城を築く

 さて、村秀は下野守を称して曾祖父政秀が拠った塩屋を継いでいたが、永正年間のはじめに龍野に城を築き、そちらに移り住んだ。そして、置塩の赤松義村に仕え、永正十八年(1521)、義村と浦上村宗が対立すると義村方として出陣している。村秀の弟で広岡氏を継いだ某は、浦上氏に通じて村宗の勝利に貢献している。敗れた義村は幽閉され、ついには村宗の手によって殺害された。文字通り下剋上であり、播磨の諸将は赤松氏と浦上氏とに二分されて錯乱状態となり、龍野赤松氏も親子・兄弟が両派に分かれて対立していたのであろう。その結果、村秀は祖父則貞を自害させるに至ったものと思われる。
 村秀が天文九年(1540)に死去すると、嫡男の政秀があとを継いで龍野城主となった。政秀は下野守を称したため、先の赤松下野守政秀とまったく同姓同名となり、さらに龍野赤松氏の歴史を混乱させることになったのである。
 播磨が錯乱に揺れいている頃、中央政界では両細川氏の乱が展開されていた。一時、細川高国が幕政を牛耳ったが、大永七年(1527)、細川晴元の反撃によって没落、高国は諸国を流浪した。この高国を迎え入れた浦上村宗は、享禄三年(1530)、上洛の軍を起し、翌年摂津天王寺で晴元=三好軍と戦った。この戦いに際して置塩の赤松政村(晴政)は高国方に属したが、戦なかばで晴元に通じて高国=浦上軍を背後から攻撃、晴元方の勝利に貢献した。
 その後、晴元と家臣の三好長慶が争うようになると、赤松家臣団のなかで晴元党の晴政を排斥しようとする動きがあらわれ、永禄元年(1558)、身の危険を感じた晴政は龍野城の下野守政秀を頼った。晴政を迎え入れた政秀は、室津城で勢力を保つ浦上政宗を攻撃して殺害、西播における勢力の維持につとめた。永禄十一年、織田信長が上洛してくると、置塩の赤松義祐・御着の小寺政職らとともに信長に謁したが、元亀元年(1570)に急死した。『書写山十地坊過去帳』によれば「毒によって死去した」とあり、当時の播磨の錯乱状態がうかがわれる。

赤松氏の終焉

 政秀の死後、弥三郎広貞が龍野城主になったが、一説には弥三郎広英が龍野城主になったともいわれる。広貞と広英とは花押から別人物とされ、おそらく兄弟であったとみられている。しかし、広英は広秀、あるいは広通とも名乗るなどしており、広貞と広英は同一人物であった可能性も残されているようだ。
 天正五年(1577)、織田信長の中国大入りが開始され、部将羽柴秀吉が播磨に入ってきた。弥三郎広英は戦うことなく龍野城を出て、近在の平位荘佐江村に退去、齋村左兵衛と名乗り蟄居した。その後、播磨を平定した秀吉が備中に兵を進めると、広英は蜂須賀軍に加わって備中高松城攻めに参加し、本能寺の変後、秀吉に仕えて竹田城主となった。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起ると西軍に味方して田辺城攻めに加わったが、のちに徳川家康方に転じて鳥取城攻めに参加した。ところが、城下を焼いた失策の責任を問われて切腹、龍野赤松氏は断絶した。実は城下を焼いたのは亀井茲矩であったが、広英の夫人が宇喜多氏であったことが家康から嫌われた結果ともいわれている。広英は好学の将で、日本朱子学派の開祖として知られる藤原惺窩との交流はよく知られるところである。・2007年12月19日
写真:竹田城下寺町に残る赤松広英の墓碑

●お薦め_Web: 赤松家残照/ 播備作戦国史落穂ひろいさんが運営されています)

参考資料:龍野市史/兵庫県史  ほか】

●赤松氏の家紋─考察

●赤松氏の情報決定版ならこちら 播磨赤松氏 ●播磨国龍野の情報



■参考略系図
・『龍野市史』に紹介された系図によって作成。  


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