戦国山城を歩く
龍野古城に登る


龍野古城は籠鶏山と呼ばれる山頂にあり、戦国時代はじめの明応八年(1499)、赤松氏の一族赤松村秀によって 築かれた。以後、四代八十年にわたって赤松氏が城主であったが、豊臣秀吉の播州征伐後、赤松氏は但馬竹田城へと 移り住んだ。その後、龍野城主は豊臣恩顧の武将が代わる代わるつとめたが、 慶長のはじめ(1598ごろ)山頂の古城は取り壊され、麓に新たに城が築かれたという。
江戸時代になると、龍野は脇坂氏が治めるところとなり、山麓に新たに居館が営まれたため山上の古城はその役目を まったく終えた。 現在、山麓に脇坂氏時代の城が復元され、瓦などに 脇坂氏の家紋「輪違い」「桔梗」が刻まれている。城址一帯は三木露風にちなんだ公園としても整備され、 小京都とよばれる龍野の町の中核となり懐かしい風景をいまに伝えている。

・城址の東方を流れる揖保川越しに鶏籠山を遠望





大手道から本丸をめざすと、見事な土塁や掘切があらわれ、山上の本丸を中核として腰曲輪群が 階段状に設けられている。曲輪の一角には、往時植えたものであろう矢竹がいまも繁っている。



主郭(本丸)近くになると崩れた石垣が目立ってくる。主郭は御殿が建っていたというだけになかなかの広さだ。 主郭の地面には往時のものと思われる瓦片が散在し、周囲の切岸は崩れいてるものの石垣が取り巻いていることが 確認できる。本丸下に残る八幡宮址は社殿こそ朽ち果てて残ってないが、当時のままであろう見事な石畳が続いている。 南の曲輪の土塁、主郭の石垣、八幡宮の石畳など保存状態は悪くなく、本城の大きな見どころである。 本丸からは樹木の間を通して龍野の町が見え隠れし、 樹木がなければ遠くまで望める、なかなかの要害の地であったことが実感できる。



本丸をあとに北西尾根に続く城址をたどりながら下山する。北西の尾根のさきにある城山には、 かつて赤松氏宗家が本城とした城山城があった。戦国時代には播磨に侵攻した尼子氏が拠点としたこともあり、 北西尾根のところどころに残る石垣、尾根を切る堀切が龍野城の弱点を 十分に意識して設けたものであることが理解できる。尾根から谷へとたどっていくと、かつての屋敷址、蔵址などの 日常施設があったと思われる平地が続き、尾根から落とされた見事な竪堀に驚かされる。 龍野赤松氏は秀吉に降伏したのち、但馬竹田に移され播磨における赤松氏の歴史は幕を閉じた。
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登城:2007年5月5日

[ 龍野赤松氏 ]



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