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孝橋氏
●三つ巴
●村上源氏赤松氏流
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元弘三年(1333)二月、播磨の豪族赤松円心は、大塔宮護良親王の令旨に応じて鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。五月、幕府が滅亡、翌建武元年(1334)、建武の中興がなり、天皇親政の建武政権が開始されたが、討幕に活躍した円心は報われることが少なかった。
新政は長い間政治の実務から離れていた公家が中心となって運営され、恩賞の沙汰や訴訟において不公平なことが多かった。新政に不満を抱いた多くの武士たちは、次第に足利尊氏に心を寄せるようになった。建武二年(1335)、尊氏が新政に叛旗を翻すと、円心は尊氏に味方してその有力武将となった。このとき、嫡子の範資・次男貞範・三男則祐らも父円心と行動をともにした。しかし、一人四男の氏範(氏則)だけは宮方に属して、父・兄らと袂を分かった。
以後、氏範は南朝方として活躍したが、永徳三年(1383)、播磨国清水寺で挙兵して敗れ一族ともに自刃した。氏範一族が亡んだあと、播磨国志方地域を支配したのは、赤松義則の子で印南郡笠原の善坊城主であった孝橋左馬助則繁であった。
赤松宗家の没落
赤松氏の歴史において特筆される事件として、赤松満祐が将軍足利義教を殺害した「嘉吉の乱」がある。この乱の首謀者とされているのが、赤松満祐の嫡子教康と弟で善坊城主の則繁であった。赤松氏は将軍義教を弑したのち、播磨に下国して幕府軍を迎かえ撃ったが、結局、居城城山城で一族は自刃して赤松家は没落した。
このとき、教康は伊勢に落ち、則繁も城山城を脱出して行方知れずとなった。のちに則繁は朝鮮に渡り、その一州で猛威を振るっていた。則繁は室津から逃れ、筑前の守護少弐氏を頼り、朝鮮に渡ったのだという。則繁は少弐氏を援けて大内氏と戦ったが敗れ、則繁は播磨に逃れた。しかし、どうすることもできず、やがて幕府に知られるところとなり、ついに自害してしまった。
則繁の後は大河内流の満直が継ぎ、善坊城に拠って孝橋新五郎と称し名も繁広と改めた。新五郎は中道子城を築き志方顕茂を城主としたが、のちに自らが中道子城に拠ったようである。
『志方町誌』によれば、中道子城は赤松氏則がはじめて築いたとしているが、氏則はおそらく中道寺を拠点としたようで、城郭といえる普請はしなかったようだ。中道子城は『播州古城軍録』に「城主は赤松新五郎繁広築き給ふ」とあり、『播磨鑑』にも同様の記述があることから、赤松新五郎繁広が築いたものとみて間違いないだろう。
●写真:中道子城址
→ 中道子城址に登る
戦国時代に身を処す
繁広の子繁景は赤松氏を再興した赤松政則に属して活躍し、明応五年(1496)に死去した。そのあとは政頼が継いだが、時代は下剋上の横行する戦国時代になっていた。赤松氏家中では重臣の浦上氏が急速に勢力を拡大し、主家赤松氏と対立するようになっていた。
この情勢に際して孝橋氏は赤松氏に従って、浦上氏と度々戦ったようである。政頼の子秀光の代になると、幕府管領家の細川氏に内訌が起った。この両細川氏の乱に赤松氏と浦上氏は、それぞれ両派に分かれて戦った。
享禄四年(1531)、細川高国を支援する浦上村宗と、細川晴元を擁する三好元長との間で「天王寺合戦」が起ると、孝橋氏ら播磨国人は赤松政村(のち晴政)に属して浦上勢を背後から突いた。村宗は討死、尼崎に退却した高国は大物において自害した。ここに浦上氏は一頓挫をきたしたが、その勢力はゆらぐことなく、その後も赤松氏と浦上氏の対立、抗争が続いた。
やがて天文七年(1538)、因幡を勢力下においた出雲の戦国大名尼子氏が播磨に侵攻し、秀光は尼子軍と戦った。尼子氏は二年ばかりで出雲に帰っていったが、今度は幕府の実力者に成り上がった三好長慶が摂津方面から播磨へ勢力を伸ばしてきた。天文十八年(1549)六月、三好長慶が細川晴元を摂津三宅城に攻めたとき、秀光は晴元に属して戦死した。
その子新五郎秀時は、弘治二年(1555)の春、三好勢の攻撃を受けて利あらず、佐用郡上月西ノ庄の浅瀬山城に退いた。このとき、山麓の中道寺も兵火に消失し、孝橋氏の退去とともに中道子山城の歴史も終わった。 ・2007年11月13日
【参考資料:志方町誌/兵庫県史 ほか】
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