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佐用氏
●三つ巴
●村上源氏赤松氏流
 


 佐用氏は播磨の中世豪族赤松氏の一族と伝えている。赤松氏は村上天皇の第七皇子具平親王の子源師房の孫季房を遠祖とする、いわゆる村上源氏である。天永年間(1110〜13)、ゆえあって播磨に配流された丹波前司季房は、播磨国赤穂郡赤松村に居館した。季房の曾孫則景のとき源平争乱が起り、則景は源頼朝に従って平家討伐に功があり一族繁栄の基盤を築いた。そして、則景の末子家範が赤松村の地頭代官となり、始めて赤松氏を称した。
 赤松氏一族は播磨西部におおいに広まったが、最も有力であったのが別所、佐用、宇野、小寺の四家であった。この四家をとくに「赤松四天王」といい、赤松氏が家名をあらわした南北朝期にそれぞれ勇名をあげている。

南北朝争乱

 佐用氏の祖は則景の弟頼景で、佐用郡佐用村西山城を築き、そこに拠ったことから作用を称するようになったと伝える。
 元弘三年(1333)二月、大塔宮護良親王の令旨によって、赤松円心は鎌倉幕府打倒の兵を挙げた。六波羅探題は備前守護加地貞季に鎮圧を命じ、貞季は伊藤大和九郎をして円心を討たせた。円心はこれを船坂峠に破ると一転して摂津に進み、閏二月中旬には、北条時知・佐々木時信を将とした六波羅の討伐軍五千を摩耶山に破って敗走させた。そして、同月下旬には尼崎の久々知・酒部の線に陣を進めた。この間わずかに一ヵ月という迅速な行動であった。
 この戦に従軍した佐用範家は、京都に進入して猛勇を振るった。範家は大力無双で射騎に長じ、赤松氏則・妻鹿孫三郎長宗・粟生右馬守師時・田中藤九郎盛兼・同弟弥九郎盛泰・頓宮又次郎入道・同子息弥三郎員利らとともに「赤松八大力」と呼ばれた。同年四月、久我畷合戦において鎌倉軍の大将名越高家を射落し、鎌倉軍壊滅の原動力となった。
 鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇親政の建武政府が発足したが武士の支持をえられず、建武二年(1335)足利尊氏の謀叛で新政は崩壊、時代は南北朝の動乱へと推移した。赤松円心は尊氏に味方して活躍、赤松一族は播磨をはじめ摂津・美作の守護職に任じられた。この間、作用一族は範家、子息則貞、兄為信らが奮戦、一連の軍功によって、のちに江川庄、広岡庄、西庄ならびに美作国吉野郡、同国英田郡などに所領を与えられてという。
 延文四年(1359)、足利尊氏が死んで義詮が二代将軍となったが、南北両朝の抗争はなお激しく続いていた。播磨と国境を接する但馬の山名時氏は南朝の有力な勢力で、播磨守護赤松則祐は、山名の侵攻に備えて揖西郡越部村の城山に築城を急いだ。やがて、山名時氏は美作へ侵攻してきた。当時、美作守護は赤松貞範であったが、守護在任の日も浅く、美作の土豪・国人との結び付きも強固ではなかった。それもあって、美作は作用貞久の拠る倉懸城を残して、時氏に征圧されてしまった。貞久は有元和泉守佐久とともに山名の大軍と戦ったが、ついに城中食つき、矢つきた貞久は城を捨てた。

赤松宗家の興亡

 赤松氏の宿敵となった山名氏は、幕府に帰服してのち勢力を拡大、ついには十一ヶ国の守護職を占め「六分の一殿」と称される一大勢力となった。山名氏の権勢を危惧した将軍足利義満は、謀略をもって山名一族の分裂を画策した。明徳二年(1391)、義満の挑発にのせられた山名氏清が一族を語らって兵を挙げた。この明徳の乱において赤松義則は幕府方として活躍、義則に従った佐用則景は二条猪熊で山名中務大輔率いる五百余騎と戦った。この戦いは激戦として知られ、赤松氏は義則の弟右馬助をはじめとして佐用、柏原、宇野、櫛橋ら五十七人が討たれた。戦後、則景は東美作の所領に加えて印南郡望理郷を与えられ、長男教政が印南郡に派遣され宗佐に城を築いて望理郷を経営した。
   赤松義則のあとを継いだ満祐は、四職家の一として幕政に重きをなしたが、将軍義教の有力守護大名抑制策に苦悩した。義教は一色義貫・土岐持頼らを粛正、つぎは赤松満祐であろうと噂されるようになった。精神的に追い詰められた赤松満祐は、嘉吉元年(1441)、京都の邸に足利義教を招待すると宴席において殺害するという暴挙を行った。満祐は播磨に帰ると城山城に拠って幕府軍を迎え撃った。
 この「嘉吉の乱」に際して、佐用祐景は諸将とともに但馬口を守った。但馬方面からの山名持豊軍を迎え撃つためであったが、赤松勢は大山口、田原口の戦に敗れて書写坂本城に退いた。しかし、そこも支えきれず赤松勢は本城城山城に拠って最後の決戦をした。かくして、同年九月城山城は陥落、満祐は自刃し祐景もこれに殉じた。ここに赤松宗家は滅亡し、播磨は山名氏が守護に任じられて赤松一党は雌伏を余儀なくされた。
 佐用氏も赤松宗家とともに没落の身となり、ときに五歳の祐景の子則純は備前曽谷城に逃れて同城で成人した。長禄二年(1458)、赤松氏遺臣の活躍で、政則が加賀半国の守護に任じられ赤松家の再興がなった。それから九年後の応仁元年(1467)、細川勝元と山名持豊との対立から「応仁の乱」が勃発した。播磨回復を狙う赤松政則は、細川勝元を領袖とする東軍に属して大活躍を示した。すでに成人していた佐用則純は、上月村にある古城太平寺山を再建し、政則のもとに馳せ参じ戦功を挙げた。政則が播磨・備前・美作三州の守護に返り咲くと、則純も所領を得て佐用家は復活したのである。

戦国時代の終焉

 戦国時代、赤松宗家より政元を養子に迎え、政元は上月城主となった。その子蔵人大輔政範の代に織田信長の播磨侵攻が始まり、天正五年(1577)十月、織田信長の代官として、羽柴秀吉が播磨に入った。
 『佐用軍記』によれば、政範は佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領して、禄高十六万石、俗に西播磨殿と呼ばれる一大勢力であった。秀吉は木村源蔵・山中鹿介らをして信長の教書を持たせ、さらに自分の添書を携行させて政範に恭順を勧告した。しかし、政範は父の代より毛利氏と結んでいることもあって、一族・諸将と評定を行った。評定は甲論乙駁して紛糾したが、政範は毛利との盟を尊重し、秀吉と一戦を交えるとも辞せずと慇懃に申し述べて衆にはかった。それに諸将が同意したことで籠城と決し、佐用勢は秀吉軍を迎え撃つこととなった。



上月城址点描
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上月城址を遠望 ・城址主郭に祀られた供養碑(2001/08)



 十一月二十七日、秀吉軍は黒田孝高を先陣に上月城に押し寄せた。政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家はこれに応えで兵三千を送り、宇喜多軍は下秋里に陣をとった。秀吉は兵の一部で上月城を警戒し、主力で宇喜多勢を攻撃、両軍激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わった。宇喜多勢は夜蔭に紛れて上月城に入ることができたが、秀吉方にあげられた宇喜多勢の首級は六百十九といわれている。
 宇喜多の援軍を撃退した秀吉は、さらに城を攻略、城中では降伏を申し出たが許されず、十二月三日、城主政範は妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。秀吉軍は城内に突入すると、ことごとく残兵の首をはねたという。さらに、見せしめとして城中の女子供を捕え、播備作三国の国境で、子供は串刺しにし、女は磔にした。かくして、秀吉軍の蹂躙の前に佐用氏は滅亡した。・2007年11月13日

●赤松氏の家紋─考察

■上月城戦記

参考資料:赤松氏佐用家実記/佐用町史/三日月町史 ほか】



■参考略系図  
  


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