赤松氏



家紋アイコン 上月城戦記
播磨武士の意地を貫き玉砕する



 天正五年(1577)十月、織田信長の代官として、羽柴秀吉が播磨に入ると、三木城の別所氏をはじめ、赤松一族の多くは秀吉にすみやかに帰順した。これには、姫路城主小寺官兵衛(のち黒田孝高)の活躍が大きく働いたことはよく知られている。そして、十月二十八日には、ほぼ播磨国内の平定を終わり、十一月三日秀吉はこのことを安土城の信長に報告している。
 こうして播磨を手に入れた秀吉は、十一月上旬姫路城を発し、生野から但馬に入り、朝来郡の岩州城・竹田城を、ついで養父郡の八木城を攻略、弟秀長を竹田城に留めて、姫路城に帰還した。
 播磨では、毛利の勢力あなどりがたく、秀吉も容易ならぬ事態であることを自覚していた。とくに出雲・美作・備前への要衝である西播上月城の態度いかんが、大きな鍵を握ると考えていた。そこで、秀吉は、播磨国中に触れを出すとともに、上月城主赤松蔵人大輔政範(佐用・赤穂・揖東・揖西・宍粟の五郡を領して、禄高十六万石、俗に西播磨殿と呼ばれていたという)には、木村源蔵・山中鹿介に、儒者一名を添えて、信長の教書に自分の添書を携行させ、礼を尽くして恭順を勧告したのである。

上月城の評定

 上月城主赤松政範は、思慮分別もある名将格の城主ではあったが、自然の静かな環境のなかに育った性格は、進んで嵐を求めたり、怒涛のなかにはいることを望まなかったようである。しかし、天下を分ける山津波のような時代の波が自己の足元に押し寄せていて、この運命の戦に有無をいわず取り組まねばならなかった。政範は秀吉から最後通牒を受け取っていて、予期はしていたものの、一族郎従七千の運命を賭けるだけに、いまさらながら当惑していた。
 毛利氏との談判にはさほど悩まなかった政範ではあたが、信長や秀吉の野心や力量が分かるだけに、その悩みは深かった。家老の高島右馬介をはじめ、重臣ともたびたび評定を繰り返したが、甲論乙駁で決着がつくまでにはいたっていなかった。政範が評定における最初の論告は
「羽柴筑前姫路に来たり、強引にも味方せよとのこと、当地は代々赤松の領地、一門近年荒涼なり。祖父の代にいたって上月を去らず、是、天の助けなり。その後北国の尼子あるいは山名と戦えど、一度も敗けず。父がとき、陶・大内・毛利ら交々兵を遣わせど、その間不覚をとらず。毛利氏は益々猛威を振るいし折、赤松義村の臣浦上備前守逆心して義村を殺して、国乱るるが当家は残って、浦上を討たんと策を図るうち、また浦上の臣宇喜多直家が浦上を殺害せり。
 かくて当国に敵が来たりて、父ら戦うこと十二度、疲れて郎謹かとなりて山中に身を隠すとき、宇喜多直家の使者尋ね来たり、和を請うて申す。毛利輝元を初め、吉川・小早川わ近く上方に討って出るにつき、貴殿を初め、小寺・別所ら一族加勢して、先導を頼むに外ならず。決して領地を奪うにあらずと、言を尽くして申す程に、楯づいて断絶するよりと考えて、和睦するに一決して、それより毛利の幕下となり、以来当国はもとの如く一族配分して安堵なり。
 然るにまた、近年一家のうち意見まちまちにして、吾今思案もつかず、事ここに至って、毛利に背き信長に下るは本意なく、皆はいざ知らんが、政範はこの城を枕にしても、信長にしたがえず」(佐用軍記)と、述べた。
 すなわち、重臣や家臣のなかには信長に魅力をもつもの、また、秀吉の通牒は単なる甘言に過ぎないとするものも多かった。このような状況からも、政範は毛利との関係を断ち切ることもできずして、いたずらに日を過ごして秀吉の軍を迎えるに至った。

■上月城の陣容
城主赤松蔵人大輔政範
家老高嶋右馬介正澄(高野須城) 太田新兵衛則近 小林宇右衛門満末(大日山城)
城代川島杢太夫頼村 高島七郎兵衛正建 川島三郎四郎義行
侍大将国府寺左近太郎良義 真嶋新左衛門
国府寺勝兵衛尉 鵜野弥太郎


 いよいよ最後の評定のとき、政範は思い切って、毛利との盟を尊重し、秀吉と一戦を交えるとも辞せずとの腹を決めて慇懃に申し述べて衆にはかった。しばらくするうち舎弟赤松次郎政直が膝を正して、
 「宇喜多直家殿のお心が常ならずして、我らはこころもとなく、籠城は勝利があるとも損害も多くして、もし不利なる場合は子孫の滅亡は明かである。この際毛利殿や宇喜多広維殿の援軍を得て、運を天にまかせ、進んで姫路に押しだし、決戦に及ぶべきと思う。さすれば東播の諸友も加勢して、新局面も可能であろう」と勇敢な議論をもって一座を見渡した。この言葉によって、ようやく議論が高潮してきたが、評議は夜にはいっても尽きなかった。
 ここにおいて、政範の叔父早瀬正義は「すでに議論もつきたと思う。このうえは殿の勇断をまって、我らはその指示に従うがよかろう」と、声を発しその声は満座にしみわたった。
 政範は一同を見渡して「宇喜多殿の心は常ならねども、義弟広維殿は実気にして、また、毛利殿御一族も名門なれば言葉もたがわず、ことにわが父以来の信義もあり、信長に上手あるとも我はなびけない。我に天下を視る目が無いと人が笑うとも、我らはこの地を守って、毛利殿の東上策に協力して、わが身のわが家も、これをたてるが至当だと思う。たとえ、秀吉が破竹に攻めたてるとも、我にもまた策もある。そちたちにも思案があろうけれども、この地の利は上方勢に対して守りよく、もしも、わが命運開けずとも、毛利殿に頼ることがわが行く道なりと思慮する」と、心に決めた籠城を宣言したのであった。ここに、満座の議論もおさまり籠城と決し、秀吉軍を迎えることとなった。

■天正五年当時の上月城関係の主な諸城主
早瀬城赤松次郎政直高野須城高嶋右馬介正澄
柏原城早瀬帯刀正義室山城横山藤左衛門義祐
福原城福原藤馬允則尚高倉山城赤松美作守義則
櫛田城櫛田左馬介景則佐用城佐用三郎政茂
利神城別所太郎左衛門定道曽我井城赤松伊豆守祐高
飯山城真島新左衛門尉元治浅瀬山城上月権正恒織
丸山城大谷新左衛門尉義房大日山城小林宇右衛門満末


秀吉軍との遭遇戦

 但馬から帰った秀吉は、佐用郡上月城主赤松蔵人大輔政範が、毛利方の備前宇喜多家に属して従わず、また上月城が播磨から美作に通ずる要地で、さきに山中鹿介が、この地を本拠にして、美作から尼子氏の本拠出雲を回復しようとして、秀吉に上月城攻めを願ったことから、秀吉の佐用攻めが開始された。
 秀吉はまず、竹中重治、黒田孝高の三千余騎の軍勢を先鋒として佐用軍に攻め入った。このころ、佐用郡には、赤松政範の上月城を中心として、佐用に福原藤馬允則尚の福原城、平福に別所太郎左衛門定道の利神城などがあり、その他にも赤松一族の小城や砦が方々にあった。『佐用郡誌』に、上津の古戦場がのせられていて、「林崎と下徳久の中間、天正年代柏原城(徳久城)を攻撃の際、林崎と下徳久の大田井の中間、千種川ゐおはさみ戦えるものなり」と記されている。
 『赤松戦記』の記載として、「櫛田砦の櫛田左馬介景則が、徳久城主真島右衛門尉景綱危うしとの注進に、上月城の赤松政範の命で、櫛田砦は家臣に守らせ、徳久城救援に向かい、途中徳久城攻略の寄手と遭遇決戦し、そのうち、櫛田砦落ち、米田城に入城しようとしたが果たさず、石井堤で討死、米田城主の和田兵助義昭も同じく落城自刃した」とある。
 こうして、竹中・黒田の先陣は、佐用の福原城をめざして高倉山に押し寄せた。福原城主福原則尚の室は上月城主赤松政範の妹であった。「福原家記」によると則尚はかつて京に上り秀吉とは知友の間柄であり、秀吉から加勢助力の通知を受けていたが、父左京進則高が血判までして宇喜多、毛利と誓約していとことで、父の意に背き難くついに秀吉と戦うに至ったといわれている。
 『黒田家譜』『隠徳太平記』を基礎とされた橋本政次氏の『姫路城史』や、小原啓志氏の『福原城戦記』や『佐用軍記』をよりどころとする『佐用郡誌』などを総合すると、このとき、高倉山を守備していたのは、則尚の妹婿で、執事職にあった福原助就で、竹中・黒田の軍勢は、高倉山頂に迫り、助就らは敗れて福原城へ退こうと脱出をはかったが、黒田家臣の竹森新次郎次貞と、もと秀吉の家人であった平塚為広のために討ち散られた。
 秀吉は、竹中重治の献策で、城正面よりの攻撃をさけ、蜂須賀正勝の三百騎で釜須坂方面の増強に向け、福原則尚も、弟の範仲を将として釜須坂の救援に向けた。しかし、釜須坂を守っていた別所定道は秀吉に降伏し、範仲は退却して大撫山麓に移ったが、秀吉軍に取り囲まれて討死した。その間城主則尚は、城を出て秀吉の本陣高倉山乗っ取りを策し、鉄砲隊と戦ったが、範仲の敗死によってそれを断念、城に火をかけ、福原家の菩提寺である高雄山福円寺に入り、一族従士五十余人とともに切腹した。十二月一日のことであったという。

下秋里の戦い

 一方、秀吉軍は、高倉山攻撃と同時に、十一月二十七日の夜、黒田孝高を先陣に、山中鹿介、立原久綱を案内として、赤松政範の拠る上月城にも攻め寄せた。
 秀吉軍は、その夜、太平山の麓を流れる熊見川、現在の佐用川を超えると、火を山下に放ち、支城の幕山平尾の福岡城、本郷の広岡城、皆田の榎城などを攻略、二十八日上月の本城を包囲、水の手を占領してしまった。
 この情勢の急迫に、政範はただちに備前岡山の宇喜多直家に救援を求め、直家は弟で、政範の妹婿にあたる掃部介広維を大将に、家老の長船久右衛門、岡剛介らに兵三千をつけて救援に向かわせた。この宇喜多の援軍が、三石を通って上月に到着したのは、三十日の正午ごろで、下秋里に陣をとった。秀吉は兵の一部で上月城を警戒し、主力で宇喜多勢を攻撃、黒田孝高を一陣として前面より当たらせ、堀尾吉晴、宮田喜八郎を二陣として側面よりつかせたが、宇喜多勢も兵を二陣に分けて奮戦、そのため喜八郎は討死、吉晴も深手を負う乱戦となった。
 そこで、秀吉は旗本を進めて猛攻撃、両軍激戦八度、戦いは日没にいたって漸く終わり、 宇喜多勢は夜蔭に紛れて上月城に入ることができたが、宇喜多方は西国で名の知れた明石三郎右衛門、 まなこ甚左衛門らが討死、秀吉方にあげられた首級は六百十九であったといわれている。

上月城落城

 秀吉は宇喜多の援軍を撃退した後、さらに城を攻略、水の手を占領された城中では、戦うすべもなく、降伏を申し出たが許されず、秀吉軍は総攻撃を開始した。
 城兵は各戦場において必死の防戦のつとめたが、名のある将兵が続々と討死した。もちろん秀吉方の損害も城兵に劣るものではなかった。毛利・宇喜多からの援軍はなく、落城の期は刻々と迫ってきた。ついに十二月二日の夜、残った総力を挙げて秀吉の山脇本陣へ夜襲を敢行したが力およばず、山脇の山河を血で染めて城兵は全滅した。城兵の討ち込んだ火矢によって敵本陣の炎上するさまを眺め、上月城では首尾や如何と固唾をのんで見守ったが三日早朝敗報がもたらされると、城主政範はかねての定めに従って、謹かに残る一族宗徒を大広間に集め最期の宴をはったあと、妻を刺し殺し、一族家臣とともに自刃してはてた。
 このとき政範に殉じた将士は高島右馬介正澄、早瀬帯刀正義、宇喜多掃部介広維、国府寺入道、中村伊勢入道らであった。城は落ち、百千の生命は潰えた。
 秀吉軍は城内に突入するや、ことごとく残兵の首をはねたという。さらに見せしめとして、城中の女子供を捕え、播備作三国の国境で、子供はくしざしにし、女ははりつけにした。ここに、佐用氏は滅亡した。
・上月城祉本丸に残る正範らの供養碑

落城後日談

 上月城を落した秀吉は、山中鹿介に兵五百を授けて守備に残し引き上げて行った。やがて鹿介は京都に居る主君尼子勝久を迎えるべく上京した。その留守中に宇喜多直家は家臣真壁彦九郎に命じて上月城を奪回した。鹿介が勝久とともに急ぎ帰ってくると彦九郎は戦わずして逃げ落ちた。その後、直家は再び大軍をもって上月城を攻め、鹿介ら尼子勢は城を脱出した。直家は上月十郎景貞に死守を命じた。
 秀吉が再度、高倉山城に入ったのは、天正六年三月上旬で、ここに二度目の上月合戦が起こった。城は落ち、景貞は討死した。秀吉は上月城を放棄しようとしたが、鹿介の強い願いをいれてまたも彼をのこして引き上げた。秀吉にしてみれば、上月城に固執することは戦略的にそれほど重要ではなかったよと思えるし、毛利にしても同様であった。大局は大きく転換しつつあったのである。
 しかし、尼子氏再興に執念を燃やす鹿介らにとってはかけがえのない足場であった。
 上月城に拠った鹿介らであったが、結局毛利方に攻められ、落城。尼子氏の再興は夢と消え、 その身は毛利氏の手で斬られた。以後、上月城が歴史の表舞台に登場することはなかった。



戻る 上へ  [播磨戦国史]   
    

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ
家紋イメージ

どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
家紋の由来にリンク 家紋の由来にリンク

2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
幕末志士の家紋
龍馬の紋
これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!


応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
見聞諸家紋
そのすべての家紋画像をご覧ください!

地域ごとの戦国大名家の家紋・系図・家臣団・合戦などを徹底追求。
戦国大名探究
………
奥州葛西氏
奥州伊達氏
後北条氏
甲斐武田氏
越後上杉氏
徳川家康
播磨赤松氏
出雲尼子氏
戦国毛利氏
肥前龍造寺氏
杏葉大友氏
薩摩島津氏
を探究しませんか?

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

約12万あるといわれる日本の名字、 その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
ベスト10
家紋イメージ

www.harimaya.com