英賀三木氏
角折敷に三文字
(越智氏族河野氏流)
|
|
中世、播磨国飾磨郡の西部を領し、英賀城に拠って戦国時代を生きた武家に三木氏がいる。英賀城主の三木氏は、播磨国の西部において播磨守護赤松氏と並ぶ二大名門とされ、いまも子孫を名乗って系図や古文書を伝える家が多い。三木氏は伊予の名族河野氏の一族といい、伝えられる系図などによれば河野通堯(通直)の子浮穴五郎四郎通近を祖としている。
河野氏はニギハヤヒ命の後裔越智氏から出たと伝える伊予屈指の豪族で、源頼朝の旗上げに呼応した河野通清・通信父子、蒙古襲来に際して水軍を率いて活躍した通久らの活躍が知られる。興亡はあったものの伊予守護職に任じられるなど、中世を通じて伊予の最大勢力であった。
播磨への土着
南北朝時代、嫡家の河野通盛は足利尊氏に属して終始武家方として活躍、貞和六年(1350)に伊予守護職に任じられた。通盛から家督を譲られた通朝は伊予への進出を狙う細川頼之の攻撃を受け、通朝は防戦につとめたが敗れて討死、さらに通盛も逝去してしまった。残された通堯は劣勢挽回に努めたが、ついに進退窮して南朝方に転じ九州征西府の懐良親王に帰順した。以後、通堯は南朝方として活動、武家方と戦いながら積極的に伊予の失地回復を目指した。そして、応安二年(1369)、細川氏勢力を撃退したのであった。
かくして、伊予を回復した通堯は良成親王を迎えて、四国の武家方征討戦に明け暮れた。ところが、康暦元年(1379)、幕府管領職にあった不倶戴天の敵細川頼之が失脚、讃岐国に引き籠った。この政変に際した通堯は宮方と袂を分かち幕府に降伏、反細川派に属して将軍義満から伊予守護職に任じられたのである。やがて、頼之追討の御教書が発せられ、通堯のもとにも頼之討伐の御教書が届いた。これに対する頼之はただちに伊予に侵攻、通堯も諸将を配して細川勢を迎え撃った。しかし、たくみな頼之の作戦に河野方は劣勢となり、ついに敗れた通堯は居城高外木城で一族ともに討死をしてしまった。通堯はいまだ三十二歳、これからというときの無念の死であった。生き残った一族は、周防の大内氏を頼るなどして諸方に逃散してしまった。
通堯には長男通昌、次男亀王丸、三男鬼王丸、四男村上通康、そして五男に通近の五人の男子があったという。将軍義満は河野氏に同情的で、翌年、亀王丸を取り立てて伊予守護職に任じて旧領を安堵した。さらに、長男通昌には播磨国の揖東郡と中条郡の地頭職を与え、通近は讃岐の三木郡の地頭職を与えられたのであった。
ここで疑問が生じるのは、貞治元年(1362)生まれという通近はときに十七歳であり通堯の子とするにはいささか無理があること、加えて兄通昌の存在も考え合わせればちょっと納得がいかない。なによりも長男通昌をさしおいて次男で十歳の亀王丸が家督を継承したことは、亀王丸こそが通堯の実子であったことを物語っている。ちなみに河野氏の系図には通堯の子として亀王丸・鬼王丸の名は見えるが、通昌・通近らの名は記されていない。おそらく、通昌・通近らは通堯の近い一族で、猶子となっていたものと思われる。
勢力の拡大
播磨に地頭職を与えられた通昌は播磨へ、讃岐の三木郡に地頭職をえた通近は讃岐に移り藤巻城を築いて名字を三木と改めたのであった。ほどなく、兄の通昌が落城のときに負った傷がもとで死去したため、揖東郡と中条郡の地頭職は通近に与えられた。かくして、讃岐三木の経営は家臣に任せて播磨に移住した通近は飾東郡の恋の浜城に入り、播磨三木氏の初代となったのである。
当時、のちに三木氏の居城となる英賀城には、赤松一族の赤松祐尚がいたこともあって恋の浜城に本拠を置いたのであった。播磨に根を下した通近は将軍足利氏に仕え、将軍義満から桐紋を賜り、さらに一字をもらって満則と名乗るなど三木氏の基礎を築いたのである。通近の孫通重は赤松一族の別所氏から養子に入り赤松満祐の娘を妻に迎え、三木氏は守護赤松氏との結びつきを強めていった。
嘉吉元年(1441)、赤松満祐は将軍足利義教を京都の自邸に招いて謀殺するという一大事件を起こした。いわゆる嘉吉の乱で、京から播磨に逃げ帰った満祐は居城城山城に立て籠もると幕府軍を迎え撃った。三木通重も子の通武とともに赤松方の部将として参戦、城山城の戦いで赤松一族とともに討死した。落ち延びた通武は恋の浜城に立て籠もり、赤松氏に代わって播磨守護職に任じられた山名宗全と対峙した。しかし、山名氏の強勢に対して三木氏はあまりに寡勢、ついに帰順して本領の安堵をえた。そして、山名氏の命によって赤松氏の去った英賀城を本拠とすることになり、祖父通近ら一族・家臣らとともに英賀城に入部したのである。通武は英賀城を修築するとともに、領内の経営に尽力して、飾磨郡・揖保郡・印南郡三十七ヶ所におよぶ所領を支配する西播磨の有力領主に成長した。
嘉吉の乱で滅んだ赤松氏の一族や遺臣らは再興運動を起こし、ついに、赤松政則が取り立てられた加賀半国守護に任じられた。政則をバックアップしたのは幕府管領細川勝元で、それを苦々しくみていたのは播磨守護職山名宗全であった。やがて、幕府将軍職の継嗣問題、有力守護家の家督相続争いに、勝元と宗全の権力争いがあいまって応仁の乱が勃発した。
播磨の動乱
赤松政則は勝元方の勇将として目覚しい活躍をみせ、失っていた播磨・美作・備前の守護職に返り咲き置塩に新たな本拠を築いたのである。応仁の乱において、英賀城主三木通安は赤松政則の幕下として各地を転戦、文明五年(1473)、上洛して将軍足利義尚に拝謁して従四位下宮内少輔に叙任される栄誉に浴した。
通安の跡を継いだ通規は印南の雁南氏から養子に入った人物で、新たに市庭に館を築いて移り住んだことから英賀氏の本家は市庭館と呼ばれるようになった。また、一族の通躬は土居に館を造って土井氏、成道は堀内にいたため堀内氏、安時は井上に居たので井上氏と呼ばれ、これが三木氏の四本家の源流となったのだという。
通規の代で特記されるのは、永正九年(1512)、本願寺九世実如上人の子実円を迎えて一庵を立て、英賀御堂本徳寺を建立したことであろう。そして、三木氏一族は挙って本願寺門徒となり、大坂に建立された石山本願寺とも深い関係を有するようになるのであった。
通規の時代、世の中はすでに戦国乱世であり、播磨は守護赤松義村と重臣の浦上村宗が対立、合戦に及ぶこともあった。通規は義村に仕えて一字を賜って村通を称したが、村宗に敗れた義村は幽閉されたうえに謀殺されてしまった。以後、播磨一国は合戦沙汰が打ち続き、下剋上が横行する播磨擾乱と呼ばれる時代が続いた。
通規の孫にあたる通明は赤松晴政(政村・政祐)の娘を妻に迎えて、衰運の赤松氏を支えた。一方、守護赤松義村を亡き者にした村宗の強勢は続き、播磨西部から備前を支配下に治める戦国大名となった。さらに、政権抗争に敗れた細川高国を庇護したのちは、置塩の赤松氏、三木城の別所氏らを圧倒、享禄四年(1531)高国を擁して上洛の軍を起こした。そして、摂津中島において細川晴元を擁する三好元長軍と対戦した。このとき、細川・浦上方の後詰にあった赤松晴政が背後より細川・浦上勢を攻撃したため、乱戦のなかで浦上村宗は討死、細川高国は捕らわれて自害した。
浦上村宗は滅んだが、その後も浦上氏は一定の勢力を維持し、赤松氏の守護権力は衰える一方であった。天文七年(1538)、出雲富田城を本拠に山陰から山陽に睨みをきかせる尼子晴久が播磨に侵攻してきた。播磨の国人領主たちは尼子氏になびく者、抗戦するものに二分されたが、尼子氏は城山城に拠って播磨西部を支配下においた。晴政は置塩を三木の別所氏をたよって逃亡、英賀城の三木氏も庇護を与えている。
戦国時代を生きる
十五世紀のなかばになると、播磨は置塩の赤松氏をはじめとして、宍粟郡長水城に宇野氏、揖保郡龍野城、佐用郡上月城に赤松庶子家、御着城に小寺氏、東播の三木城に別所氏、そして英賀城の三木氏らの小豪族の割拠状態となっていた。幕府は両細川氏の権力闘争の結果、すでに有名無実化していた。永禄十一年(1568)、尾張の織田信長が足利義昭を奉じて上洛してきた。信長は天下統一を目指して甲斐の武田氏、越前朝倉氏、安芸毛利氏、さらに石山の本願寺らと対立、戦国史は大きな変換点を迎えたのである。
元亀元年(1570)、信長は石山本願寺攻めを行った。英賀の三木氏は一向宗門徒として、家臣ら四百三十人を加勢として派遣、さらに兵糧三千俵を石山に送って本願寺を応援した。三木氏は否応なく織田信長と対立関係となり、城主の通秋は英賀城の修築、武器の整備をすすめ、領内の引き締めに努めた。そのころ、御着城主小寺氏の家老小寺官兵衛は織田氏に通じて、播磨の豪族たちを織田方に引き入れる工作に東奔西走していた。その工作は成功したかにみえたが、名門意識の高い播磨の豪族たちは新興織田氏を嫌い安芸毛利氏に通じて織田氏から離反していった。
天正六年(1578)、三木城の別所氏が織田軍の中国方面司令官羽柴秀吉に反旗を翻した。三木氏は三木城に援軍と
兵糧米を送って別所勢に加勢する一方で、さらに城の整備、武器の調達、士気の高揚に躍起となった。三木城の攻防は
二年にわたって続き、世に「三木の干殺し」と称される凄惨な籠城戦のすえに別所氏は滅亡した。
三木城の落城後、秀吉は英賀攻めに取りかかった。天正八年二月十日、秀吉軍の攻撃が開始され、城兵は大軍を相手に
奮戦したが、四日後の十三日に城は落城した。城主三木通秋とその子安明は、一方を切り抜けて城を脱出、遠く九州へと
落ちのびた。二年後の天正十年、通秋らは秀吉に赦されて英賀に帰り、郷士として居住することを許された。同年六月、
織田信長が京都の本能寺で明智光秀によって討ち取られ、羽柴秀吉が天下人へと駆け上がっていくことになる。
秀吉にしてみれば、旧勢力の小城主に過ぎない三木氏の存在は眼中になかったのかも知れない。いずれにしろ、
三木氏は中世を生き抜き、家系を後世に伝えることができたのであった。
【参考資料:赤松氏・三木氏の文献と研究/日本の名族 ほか】
■参考略系図
|
■歴代の生没年表
|
名前
|
生年元号
|
西暦
|
|
|
没年元号
|
通近
|
貞治元年
|
1363
|
|
|
嘉吉二年
|
近重
|
康暦二年
|
1380
|
|
母は宇都宮氏綱の娘
|
嘉吉三年?
|
通重
|
応永四年
|
1397
|
別所則重の子15歳で養子
|
養母は朝倉氏景の娘
|
文安三年
|
通武
|
応永二十一年
|
1414
|
|
母は赤松満祐の娘
|
寛正五年
|
通安
|
永享四年
|
1432
|
三木実基の子10歳で養子
|
|
明応九年
|
通規
|
宝徳三年
|
1451
|
雁南長の子20歳で養子
|
養母は六角久頼の娘
|
享禄三年
|
通秀
|
延徳三年
|
1491
|
|
|
天文十三年
|
通明
|
永正五年
|
1508
|
|
|
天正六年
|
通秋
|
天文三年
|
1534
|
|
母は赤松晴政の娘
|
天正十一年
|
安明
|
永禄六年
|
1563
|
英賀城落城
|
|
…
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
|
丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
|
|
|