ヘッダイメージ



一条氏
●下り藤
●藤原北家道長流


 土佐一条氏は、飛騨の姉小路氏・伊勢の北畠氏とともに、公家の戦国大名化したものとして、「三国司」の一人に数えられる。
 応仁元年(1467)「応仁の乱」が起り、京都市中が戦場となると、公家や僧侶たちは安全な場所を求めて京から逃れていった。室町時代に「当代一の学才」といわれ、関白・太政大臣にまでなった一条兼良の一家も例外ではなかった。一条氏は藤原北家の流れで、近衛・鷹司・九条・二条氏と並んで五摂家の一つに数えられる名門であった。
 一条兼良はまず子の厳宝が院主である九条随心院へ逃れ、さらに厳宝の兄尋尊が院主の南都大乗院へと避難していった。そして、応仁二年、兼良の子教房は土佐の幡多庄へ、教房の嫡男政房は摂津の福原庄へ旅立っていった。これは、乱世のなかで苦しくなった一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっている荘園を回復して、その実績を挙げようとしたものであった。

一条氏と幡多庄

 ところで、土佐国幡多庄と一条氏との関係のはじめは、鎌倉幕府の草創期にさかのぼる。すなわち、幡多郡は一条氏の祖である九条兼実が、源頼朝から譲られたところであった。そのため、守護といえども簡単に介入できなかった。
 そもそも土佐国は、兼実の父藤原忠通や兄の基実(近衛・鷹司家の祖)が知行国にしていたところで、つとに兼実は土佐に執着していた。元久三年(1206)、息子の良経が死去したとき、後鳥羽上皇に良経の知行国であった越後・讃岐に代えて土佐を希望し、これを九条家の知行国とした。兼実は翌年に死去し、土佐は嫡孫の道家に伝領された。
 
●知行国

 摂関などの公卿(上級貴族=特定者)に対し、特定の国の受領を推挙する権限を与えてその国の統治の実権を掌握させ、その国からの収益を得させる制度。
 平安中期、律令制の崩壊で上皇・皇族らに国司任命権を分与し任料を収入とさせたが、後期には国司の徴収した租税も収入となった。荘園の場合、領主が固定していたが、知行国は原則として受領の任期間が限られていた。 
 

 知行国主となったものは、その任期のあいだ近臣を国司(受領)に任じて当該国からの租税などの大部分をみずからの収入とした。道家も九条家諸大夫の源有長を土佐守に推挙し、国務を遂行させた。そして、有長が土佐守の任にあった時代に、幡多庄を九条家の荘園化していったのである。
 建長二年(1250)、道家は家領を子女に分与したが、三男実経分とした荘園のなかに幡多庄が含まれていた。そして、実経は譲られた荘園を基盤として一条家を創設、幡多庄はその中かでももっとも重要な荘園の一つとして位置付けられたのである。実経も父道家と同様に土佐を知行国とし、一条家の支配の進展とともに郡全体の荘園化を実現していった。そのため、室町時代に土佐守護となった細川氏の支配も、幡多庄には及ばないという状況になった。
 しかし、そのような幡多庄も乱世とともに武士の侵略が進み、一条家の支配が有名無実化していったのも時代の趨勢であった。

一条教房、土佐に下向

 教房の幡多庄下向に尽力したのは、土佐国高岡郡蓮池城主の大平氏であったようだ。尋尊が残した『大乗院寺社雑事記』に、大平の女房が教房夫人と縁者であったことが記されており、それが大平をして一条氏の力にならせたものと思われる。大平氏は『碧山目録』にも細川方に加勢して、細川勝元と親密な関係にあったことが知られ、おそらく京都で公家や有力武将など、地位の高い人びとと交渉をもっていた。そのような関係から、教房夫人の縁者を身辺に侍らすようになったのであろう。
 いずれにしろ教房は妻の縁につらなる大平氏の尽力を得て、幡多庄に下向することができた。下向した教房はただちに幡多庄の回復に着手し、文明元年(1469)には下山を取り戻し、文明三年までに反抗していた入野氏を屈服させた。こうして、教房は着々と幡多庄を回復していったが、そもそも幡多庄は寄進系の荘園であり、一条氏の支配権は名義的なものに過ぎなかった。それだけに、一条氏が下向してきたとはいえ、実質的に土地を所有する武士たちが、無条件で土地を返却したとは思われない。おそらく、教房は武士たちの従来の所有権を認め、一条氏の生活に必要な分を貢物として納めさせることで妥協したものと思われる。
 一方、教房とは別に摂津福原庄に下向した嫡男の政房は、心ない暴兵のために殺害された。武士でない政房にすれば防ぐこともならず、端座したまま暴兵の刃に斃れたという。この知らせを聞いた兼良は「とても死ぬる命をいかにもののふの家に生まれぬことぞ悔しき」と、嫡孫の死をおおいに悲しみ嘆いた。父教房の悲嘆はそれ以上のものであったにちがいない。他方、この事件は都に近い摂津に比べて、土佐の人気の方が純朴であったことを示したものといえようか。
 政房が死去したことで、教房の末弟冬良が一条氏の家督を継ぐことになった。その後、夫人が死去したのち、加久見土佐守の娘(中納言の局)を迎え、文明九年、男児をもうけた。このとき、教房は五十五歳であり、思いがけないわが子の誕生に喜びも一入であったと思われる。しかし、それから三年後の文明十二年、教房は五十八年の生涯を閉じた。
 教房は明敏な叡知と卓抜した手腕をもって、土佐国内の治安を維持し、また有名無実であったその家領を回復した。さらに対明貿易の発展にも大いに寄与し、中村が対明貿易の中継基地として、大いに栄える基礎を築き上げた。教房の死後、その冥福を祈って国人ら十余人が仏門に入っており、教房が幡多庄の人びとに慕われていたことをうかがわせる。

土佐一条氏の誕生

 教房の死によって中納言の局が生んだ男子が残されたが、すでに一条氏の家督は叔父冬良が継いでいたため、仏門に入ることに決定していた。それが、明応三年(1494)十八歳のとき突然に元服して房家を名乗り、左近衛少将に叙任された。これは、国人衆が教房の忘れ形見を尊敬し、その在国を要望する運動を起した結果であるとされる。
 房家は叔父の尋尊のもとで出家することになっていたが、延徳四年(1492)、大平氏が国人衆を代表して尋尊に面会し(大乗院寺社雑事記)、房家土着のことを懇請した。そして、その二年後の明応三年、房家は元服したのである。房家の元服は一条氏にとっても重大な問題であったが、幡多庄確保のためには、家族のものが現地にいることの必要性を感じ、房家の元服に踏み切ったものと思われる。そして、この房家が土佐一条氏の初代となったのである。
 房家が土佐一条氏として土着したころ、時代は戦国乱世のまっただ中にあり、永正五年(1508)には、長岡郡岡豊城主の長宗我部兼序が、吾川郡の本山氏、吉良氏、香美郡の山田氏、高岡郡の大平氏らの連合軍に攻められた。兼序は武勇にすぐれていたが、土佐守護細川氏を後楯として、日頃の振る舞いに慢心が目立ち、周辺豪族達の誹謗を招くようになっていった。連合軍の攻撃にさすがの兼序も敗れて自殺し、一子千雄丸を家臣に託して一条房家に庇護を求めた。房家は千雄丸を憐れんで庇護し、養育、長宗我部氏の再興に尽力した。
 永正十四年(1518)、高岡郡において津野元実が一条氏に属する福井玄蕃を攻撃した。元実は姫野々城を拠点として勢力を拡大しつつあり、劣勢の玄蕃は久礼城主の佐竹氏を介して一条氏に援兵を求めた。一条氏は公家とはいえ、戦国武将の一面ももたねば生きて行けない時世であった。一方、土佐一条氏としての基礎も固まり、経済的にも豊かになっていた。鎧兜に身を固めて房家は玄蕃を支援して出陣、津野勢は恵良沼の戦いで散々な敗北を喫し、元実は戦死を遂げた。強勢を誇った津野元実の敗死をみた近隣の諸将は、つぎつぎと一条氏に帰服し、高岡郡はすべて一条氏の支配するところとなった。

満ちれば欠ける

 ところで、永正十三年、二男の房通が京の一条家を継ぎ、みずからは権大納言に進んだ。同年十一月、房家は房通を伴って入京し、翌十四年には後柏原天皇に拝謁するなど、房家にとって得意な時期が続いた。
 上洛した房家は一年近く在京したが、この折りに宮中や公家にばらまいた品々は遣明貿易で築いた財によるものであったという。喰うや喰わずの公家が 多かった時代にあって、房家の富裕ぶりは評判になったという。そのころ将軍義稙を奉じて在京していた大内義興は、房家に好を通じたようで、のちに義興の女が房家の嫡子房冬のもとにはるばる嫁いでいる。明確な史料はないが、大内義興は細川氏の遣明貿易の一翼を担う一条氏に接近を図ったものであろう。いいかえれば、義興をして一条氏に通じさせるほどに、当時の一条氏は貿易による莫大な利益をあげていたと推測される。
 永正十五年(1518)、房家は成長した長宗我部千雄丸を十年ぶりに岡豊城へ復帰させている。岡豊城に入った千雄丸は元服して国親と改め、以後、長宗我部氏の家勢回復に努めるのである。
 土佐一条氏の基礎を築き、栄耀栄華を誇った房家は天文八年(1539)、六十三歳で死去した。そのあとは長男の房冬がついだが、わずか二年後に死去してしまい、房冬の嫡男房基が相続した。しかし、あいつぐ当主の死により、国人らはにわかに一条氏を軽視するようになってきた。まず、先に房家によって手痛い敗戦を被った津野氏が反抗した。房基は津野氏を討つため兵を発したが、戦いは思うように展開せず、天文十五年にいたってやっと津野基高を降伏させた。
 やがて天文十六年になると、一条氏の支援で岡豊城に復帰した長宗我部国親が、一条氏の属城である大津城を攻略した。房基は激怒したものの、その後も国親は勢力を着々と拡大していった。そうした国内の不穏な情勢に加えて、隣国伊予との間も風雲急を告げてきた。房基の妻は豊後の大名大友義鑑の女で、岳父義鑑は再三にわたって伊予に襲来していた。房基も大友氏を応援して出兵を繰り返したため、伊予の諸将は一条氏に反目するようになったのである。
 そのような情勢のなかの天文十八年(1549)、房基は二十八歳の若さで自殺してしまった。その死は、狂気のためと伝えられているが、心の休まらない乱世に房基の心はぼろぼろになってしまったのだろう。そういう意味では、房基は武将に徹しきれない人物であったといえよう。

乱世に翻弄される

 自殺した房基の子兼定はわずか七歳の少年ながら、戦国大名土佐一条氏の家督となった。兼定は大友義鎮の娘を妻に迎え、父房基と同様に大友氏の伊予侵攻を応援した。弘治三年(1557)、一条氏が伊予に出兵している隙をねらって、吾川の本山茂辰が一条氏の支城である森山・秋山の両城を攻略し、つづいて仁淀川を越えて高岡郡の蓮池城を攻略した。
 そのようななか、一条氏は大友氏の伊予侵攻に協力し永禄元年(1558)法華津など西南伊予に攻め入り、同三年には宇和郡の西園寺氏を降し、その麾下の勇将土居氏の立間郷石城を落している。そして、本山氏に奪われていた蓮池城の奪回にも成功した。しかし、長岡郡の長宗我部元親が本山氏を攻めて降伏させ、永禄六年には吉良氏を屈服させた。かくして、土佐の中央部を収めた元親は、安芸氏、そして一条氏に鉾先を向けてきたのである。
 永禄十二年、元親は安芸城を攻撃し安芸国虎を自殺させ、ついで一条方の蓮池城を攻略し、一条氏麾下に属す津野定勝を調略した。定勝はこれを拒絶したが、家臣らは定勝を追放して、その子勝興を立てて元親に降伏した。さらに、久礼城主佐竹氏も元親に通じ、仁井田郷の諸将も元親に降った。かくして、元親は高岡郡一円を掌握、ついに一条氏と長宗我部氏とは境を接するにいたった。
 元亀三年(1572)、伊予の西園寺氏が幡多に侵入してきたが、兼定は大友氏の応援を得て、これを撃退した。しかし、次第に情勢は予断を許さぬものとなり、元亀四年、兼定は三十一歳の若さで出家しなければならなくなった。
 『土佐物語』によれば、「忠臣・土居宗珊の諌言にも耳を貸さず、さらには宗珊を殺してしまった。こうなると人望もなにもなくなり、家臣よりも忌み嫌われて、重臣合議の上兼定は追放されてしまった」とあるが、これは、元親の攻勢に対して老臣らが幼い兼定の子内政を一条氏の家督とし、元親を後見役にして一条氏の安泰を図ろうとした結果であったようだ。ところが、その後老臣と国衆との間で内訌が起り、老臣らは斬られてしまった。
 この事態をみた元親は、内政を岡豊城に引き取り、実弟吉良親貞を中村城主とした。ここに一条氏の実権は、まったく長宗我部元親に掌握されたが、それでも内政は一条氏の家督を相続することをえたのである。

一条氏の終焉

 一条氏の家督とはいえ、内政の実態は長宗我部元親のロボットに過ぎなかった。その後、内政は大津城に移され「大津御所」と尊称されたものの、次第に元親への敵愾心を燃やすようになった。そのようなおりの天正八年(1580)、高岡郡波川の波川玄蕃の謀叛が発覚し、内政はこれに加担したとして伊予に追放されほどなく病死したという。
 内政のあとは政親が継いだが、すでに何の権限もなく命脈を保つばかりの存在であった。やがて、慶長四年(1599)に元親が死去し、翌年の「関ヶ原の合戦」で長宗我部氏が没落したことで、自由の身となった政親は、土佐を去って京に上ったと伝えられるが明確なことは分からない。いずれにしろ、政親が土佐を去ったことで、土佐一条氏は終焉を迎えたといえよう。
 ところで、土佐を追放された兼定は、妻の実家九州の大友家に身を寄せた。そこで、キリシタンの洗礼をうけ、「ドン・パウロ」という名前をもらった。その後、幡多郡を回復して愛と平和の理想郷を建設しようと燃えたドン・パウロ兼定は、天正三年、大友宗麟の好意による軍船で伊予に上陸し、法華津氏らの応援を得て幡多郡回復を企図した。これを察知した長宗我部元親は、大軍を率いて中村に駆け付け、一戦のすえに兼定を粉砕した。
 幡多郡回復も理想郷建設の夢も潰えたドン・パウロ兼定は、伊予宇和島港外の「戸島」に身を隠したが、元親の謀略で信頼する小姓に裏切られ、片腕を失うという非運にあった。一命をとりとめた兼定は、残された人生をキリシタンとしての信仰に生き、天正十三年(1585)に病死した。享年四十二歳であった。まことに不運な一生であったが、晩年を信仰に生きることができた兼定の心は平穏だったのではないだろうか。・2005年3月26日

参考資料:中村市史/戦国大名系譜人名事典/室町時代守護職事典 など】

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