一色氏
木瓜に一文字/二つ引両
(清和源氏足利氏流) |
|
一色氏は清和源氏、足利氏の一族である。足利頼氏の兄弟に公深がおり、これが一色氏の祖となった。同じ兄弟から家氏が斯波氏を、義顕が渋川氏を、頼茂が石塔氏を名乗っている。すべて同族である。
公深の子の範氏があり、足利高氏が建武三年、九州に下ったときそれに従い、尊氏の上洛後も九州の地にあって九州探題として、少弐氏・大友氏・島津氏らに号令して南朝方勢力と戦っている。範氏には直氏・範光・範房の三人の男子があった。
範氏のあとは範光が継ぎ、その跡を詮範が継いだ。詮範は将軍足利義満に従って山名氏清を討ち、その功によって若狭国今富庄を与えられた。次いで詮範の子満範の代になって丹後国守護となり、明徳三年(1392)から応永十六年までその職にあった。一方、若狭国の方は範光・詮範と相伝し、満範が応永十三年(1406)からその任にあり、若狭・丹後両国の守護大名として君臨することになったのである。
こうして一色氏は侍所の所司となり、有力守護大名、赤松・山名・京極の諸氏とならんで四職家のひとつに数えられるようになったのである。
北近畿に勢力を築く
その後、満範の子持範と義貫の時、丹後・若狭をおのおの分領したが、義貫は幕府に背くことがあって、攻められて自殺してしまった。なお、系図によっては持範と義貫を同一人とするものもあるが、明かに別人である。持範と義貫が丹後・若狭を二分することになった経過については、満範の遺領を二人が争い、結局、講和し、その結果、守護領国の二分割がなされ、ここに一色氏の勢力は弱体化したのである。
義貫のあとを継いだ甥の教親はわずか四年で死去。その跡は実子の義直が継ぎ、丹後・伊勢守護として命脈を保った。応仁の乱には西軍の山名方として戦った。これは、若狭の守護武田氏が東軍に属しており、武田氏との若狭・丹後をめぐる勢力争いでもあった。乱後、幕府の権力は失墜し、一色氏の勢力も衰退の一途をたどった。
義直は若狭の武田氏とたびたび戦い、明応七年(1498)に普甲山で戦死した。あとを継いだ義春も戦死したため、義直の弟義遠の子義有が迎えられて家督を継いだ。同十年、若狭の武田元信が丹後守護となり、これに対して義遠・義有の一色氏は武田軍と戦いこれを破った。大永元年元信の死後、元光が丹後守護職を継ぎ、天文十六年(1547)丹後に入国し一色義幸と戦った。この後、しばらく武田氏が丹後守護を歴任し、丹後を支配した。
永禄元年(1558)、義幸の子義道が丹後の国主となった。守護職は武田氏が有したが、実質的な丹後支配は一色氏の手によっていた。義道は織田信長と争い逃げてきた将軍義昭を庇護し、信長と対決していくことになる。天正六年、信長の命を受け細川藤孝が丹後に侵攻し、宮津八幡山に陣どった。義道の防戦は激しく、藤孝は丹波へ退き、明智光秀に援軍を求めた。それとともに、義道の被官を懐柔し義道の孤立化をはかった。同七年、藤孝は光秀軍とともに義道の居城八田城を攻め、義道は破れ、中山城の沼田氏のもとに退いたが、沼田氏の裏切りにより、結局自害した。
一色氏の没落
義道の敗死後、子の義定は残党を集めて丹後国与謝郡弓木に逃れた。天正八年、藤孝が攻め入ったが、攻めきれず、明智光秀の斡旋で藤孝の娘を義定に嫁し、和睦した。こうして丹後は細川氏の支配下に入った。同九年、義定は謀叛のことありとして、細川氏の館で謀殺された。義定のあとは、叔父義清が当主となって、細川氏と戦った。しかし天正十年、細川氏に攻められ、激戦の結果、義清は下宮津の海岸で戦死し、ここに一色氏は滅亡した。
一方、義貫を祖とする一色氏は、義貫の弟持範が、若狭守護職を嘉吉元年から武田信賢に奪われ、代を経て藤長におよび、足利義昭に仕え、さらに織田信長・豊臣秀吉に仕えて丹後宮津城主となった。
ところが、関ヶ原の戦いで、石田三成に与したため、細川忠興に攻められて殺されてしまったのである。藤長の子範勝とその子範規が家康に従って家名を存続することができたが、範規の孫の代に断絶、所領は没収された。
■参考略系図
・峰山町郷土史/宮津市などから作成。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
|
|
人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
|
|
|