一宮氏
松皮菱
(清和源氏小笠原氏流) |
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鎌倉時代のはじめ、阿波の守護は佐々木氏であった。しかし、佐々木氏は「承久の変(1223)」で宮方に味方して没落し、幕府方で活躍した小笠原氏が阿波守護に任じられた。小笠原氏の嫡流は信濃にあったが、三代守護となった長房の子孫が阿波守護家を相続して鎌倉末期まで続き、阿波国内に小笠原一族が繁衍した。
一宮氏の出自
阿波一宮城主として戦国時代に至った一宮氏も小笠原氏の一族であった。『尊卑分脈』によれば、小笠原長清が初代阿波守護となり、長経・長房・長久と続き、長久の孫成宗が「号一宮、宮内大甫」とあり、一宮氏の祖になったことが知られる。ところで、小笠原氏は代々「長」を通字としており、成宗の父宮内大輔長宗も長を名乗りに持っている。それが、成宗以後、一宮氏の代々は名乗りに「成」を通字として用いているのである。これは、一宮氏の祖成宗が阿波一宮大宮司職を引き継いだことに拠るという。
久安二年(1146)当時の記録によれば、河人成高が「一宮司」であり、その舎弟は河人成俊であった。一宮司とは「一宮大宮司」のことと思われ、歴代一宮大宮司は、一宮神社の神官職を世襲しながら一宮の地頭職も相伝していたようだ。そして「成」の字を一族の通字として用いていたのである。
『一宮系図』によれば、長宗のところに「一宮宮内大輔へ宗成より祭官伝神相伝之」と注記され、長宗が一宮神社の神官として必要な「祭官伝神録」なる書物を宗成から譲り受けている。この宗成は『阿波志』に「一宮宗成、大宮司と称す、世々一宮祠を管す」とある人物と同一人とみられる。阿波守護として勢力を拡大した小笠原氏が、おそらく平穏のうちに阿波一宮神社の大宮司職と地頭職を譲り受けたのであろう。
延元三年(1338)、長宗は阿波一宮城を築き拠点とし、子の成宗が家督を継いで、以後代を重ねて戦国時代に至ったのである。
一宮氏の活動
長宗の時代は鎌倉幕府が滅亡し、建武の新政を経て南北朝の動乱期にあった。建武三年(1336)、官軍に敗れて九州に落ちた尊氏は、中四国に諸将を配した。このとき、阿波には細川和氏・頼春兄弟が派遣された。
細川兄弟は鎌倉時代以来の足利氏の所領であった秋月荘を拠点として、阿波の在地武士を掌握し、尊氏が再上洛したとき尊氏の軍に合流して奮戦した。そのなかには、漆原・小笠原らの阿波武士が加わっていた。かくして、阿波の南北朝の動乱が始まったのである。とはいえ、初期のころは南朝方の目立った動きはみられない。これは武家方細川氏の活動に比して、南朝方が阿波武士を結集出来なかったことが要因であった。
ところが、足利尊氏の弟直義と尊氏の執事高師直の対立から「観応の擾乱」が勃発すると、阿波も擾乱に巻き込まれて争乱が続いた。そして、この擾乱を契機として小笠原一宮長宗は細川氏と対立するようになるのである。観応三年(1352)の「飯尾隼人佑吉連代光吉勝右衛門入道心蔵軍忠状」からも、小笠原氏が細川氏と合戦を繰り返していたことが知られる。しかし、正平十七年(1362)一宮氏は細川氏に降伏、阿波守護細川頼之が足利義満の後見として管領に就任したとき、頼之の被官のなかに一宮城主一宮氏がいた。また、南北朝の争乱が終わりを告げた明徳三年(1392)に行われた相国寺供養に際して、幕府管領細川頼元が従えた武士のなかに一宮氏がみえ、一宮氏が細川氏の有力被官となっていたことがうかがわれる。
そして、京都に住して細川氏に仕えた一宮氏は丹波守護代もつとめた。さらに、又守護代や郡代として登用された一宮一族もおり、一宮一族は丹波に一定の勢力を扶植したようだ。しかし、文明十一年(1479)一宮宮内大輔が細川政元を擁して守護代内藤氏に対して反乱を起し、敗れて勢力を失墜するに至った。とはいえ、その後も細川氏の被官のなかに一宮氏の名前が散見され、細川氏重臣として一定の地位にあったようだ。
戦国動乱と一宮氏
やがて、戦国時代になると阿波国も争乱が繰り返された。室町幕府の管領をつとめた細川氏に代わって、その被官であった三好氏が勢力を拡大し、ついには幕府の実力者にまで成長した。一宮氏は三好氏と姻戚関係を結び、一宮城主として三千貫を領する阿波の実力者であった。
一宮氏の戦国後期の当主は成祐で、妻は三好長慶の妹であった。永禄五年(1562)三月、兄三好長慶を支援して泉州久米田の戦いに臨んだ三好長賢に従って成祐も出陣した。しかし、結果は総大将の三好長賢が戦死するという三好方の敗戦となった。その混乱のなかで、成祐は重臣の森備前守に指揮をとらせ、一糸乱れず堺まで見事な退陣ぶりを示した。
その後、三好氏は衰退の一途をたどるようになり、とくに三好長治の失政もあって、阿波国内の武将たちは長治を見限るようになった。そのような状勢をとらえたのが、三好氏に父細川持隆を討たれた細川真之で、天正五年(1577)三月、真之は長治討伐の兵を挙げた。このとき、成祐は伊沢越前守らとともに真之に味方して長治と戦い、ついに長治を別宮浦で自殺させたのである。
ところが、同年、伊沢越前守が三好方の矢野駿河守に討たれ、成祐は孤立化した。成祐は土佐の長曽我部元親と同盟を結び、九月、壇の原の戦いで淡路勢を破った。しかし、三好方の篠原自遁に攻められ、大栗山に逃れ焼山寺に引きこもった。
天正七年、一宮城に復帰した成祐は、翌八年庄野氏らとともに三好(十河)存保を襲い勝端城を奪ったが、翌年には存保に奪還され、さらに三好笑岩に攻められ一宮城を失った。十河氏らは織田信長を後楯として次第に勢力を盛り返しつつあった。ところが、天正十年六月「本能寺の変」が起り、信長が死去した。これで事態は大きく動き、長曽我部元親が二万三千の兵を率いて阿波に進攻してきたのである。一宮成祐は新開氏らとともに長曽我部軍に加わり、中富川の戦いではその先陣をつとめて奮戦、長曽我部軍の勝利に貢献した。
一宮氏の没落とその後
かくして長曽我部元親は、四国統一を成し遂げた。同年十一月、元親は成祐を夷山城に恩賞のことを話し合いたいと招いた。成祐は疑うことなく夷山城に赴いたところを、弟主計頭、星合六之進らとともに元親の家臣畑弥助らによって殺害された。そして、一宮城には元親の武将が城番として入り、一宮氏は没落した。
成祐が殺害されたのち、成祐の弟のひとりである光孝(一説に成孝)は讃岐国水主に居住していた。その子光信のとき、蜂須賀氏が阿波に入部し、蜂須賀氏は光信を一宮神社の神職に招き、以後、光信の子孫が一宮神社の神職を世襲した。そして、勝定のとき、蜂須賀氏の縁戚である小倉小笠原氏と同姓であることを憚って、小笠原から笠原に改姓したと伝えられている。・2005年03月12日
●一宮氏の滅亡
一宮氏は代々細川・三好氏に仕えた阿波の国人であり、小笠原氏の一族であった。元亀〜天正年間(1570〜82)の城主長門守成祐は、長宗我部元親が阿波を侵略し始めたとき、国内では主従間の離反者入り乱れるなかで、国主三好長治の政治に不満を抱いて背を向けた。
天正五年(1577)三月、長治は今切城に陣を張って一宮城攻めにかかったが、三好家から離反していた細川真之、伊沢越前頼俊、土佐の援軍約二千騎が逆襲して今切城主篠原玄蕃亮が討ち取られ、さらに同年三月二十八日、板野郡別宮浦の長原、月見ケ丘で長治を追い攻めて自殺させた。
玄蕃亮と主君長治の敗死に憤激した木津城主篠原入道自遁は、弔い合戦として一宮城を攻め一時は一宮勢に撃退されたが、紀州の援軍七千騎を得て再び一宮城を猛攻撃した。大軍の来攻で苦戦した成祐は、守兵に本城を固めさせて危いところ、藪茂みの道を潜り抜けて焼山寺に逃げ込んだ。後日、土佐勢の救援で帰城して元親の阿波攻めに加勢し、天正十年(1582)八月中富川合戦に土佐勢の先鋒となって奮戦、勝瑞城の攻囲戦に攻をたてた。
戦乱が鎮まってのち、元親は土佐方に加勢した阿波の武将に賞をとらすことをほのめかした。細川、三好の両氏に仕え、かって清和源氏の裔孫なるが故に、将軍候補の噂にまでのぼった名将の成祐であったが、謀殺という悲運の罠が待ち受けていようとは知る由もなかった。
中富川の終戦から二ヶ月経って、同年十月元親の使者が成祐に夷山城で会合したいと申し入れがあった。同年、十一月成祐は数名の家臣を伴って夷山城外まで来た際、元親の家臣畑弥助が率いた一軍が待ち伏せて成祐を襲った。追い攻められた成祐は、夷山の西方樵谷に逃れて家臣とともに自刃した。
【http://kawasaki-koutaro.hp.infoseek.co.jp/newpage8.html】
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【参考資料:阿波一宮城/徳島県史/徳島大辞典 ほか 】
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