一柳氏
二重釘貫/折敷に三文字
(伊予河野氏の一族) |
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伊予の河野氏の一族。河野氏は越智氏の後裔で、伊予国温泉郡河野に住して、その在名をもって氏としたことに始まる。通清のとき、源頼朝の挙兵に応じて討死したが、嫡子通信は良経に従って平家追討に戦功を挙げて、伊予国道後七郡の守護職に任じられた。
戦国時代、通直のとき、伊予国を長宗我部元親に侵され、その配下となった。秀吉の四国征伐では長宗我部勢の前衛を務めたが、小早川隆景の勧めにより降伏した。以来、河野氏の水軍は小早川氏に組み込まれた。通直は隆景の領国安芸に住し、同地で天正十五年(1587)に没した。嗣なく、河野氏の嫡流は断絶した。
通直には、弟の宣高がいた。宣高は伊予国を去り、美濃国に来て西野村を領している。守護土岐氏に仕えてよりのことと考えられる。そしてこの宣高のとき、河野を改め、一柳を称した。宣高のあとは直高が継いだが事跡は伝わっていない。
直高の嫡子直末は元亀元年(1570)より秀吉に仕え、浅井氏との合戦における勇戦を賞されて黄幌七人の列に加えられたが、天正十八年の小田原征伐のとき、伊豆山中城攻めで鉄砲に当たって討死した。
直末が討死すると、秀吉な弟の直盛にあとをがせ尾張国黒田城三万石の城主とした。天正二十年五千石を加えられ、文禄の役には渡海せず、造船に携わるなどした。慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦を前にして家康に通じ、石田三成の招きには応じなかった。合戦では、美濃国岐阜城攻めに加わり、同国長松に要害を構えて大垣城と三成の佐和山城間の連絡を絶った。戦後、一万五千石を加えられ、伊勢国神戸城を賜った。大坂の陣では両陣とも参加し、戦功を挙げた。
寛永十三年(1639)、伊予国西条城を賜り、一万八千六百石を加えられて、すべて六万八千石余を領した。直盛は河野氏発祥の地である伊予国に所領を得たわけだが、城地に赴く途中、大坂で没した。直盛の遺領は嫡子直家が継ぎ、自らは三万石を領し、残りは弟の直頼と直家に分かち与えた。直重のあとは直興が継いだが、罪を蒙って所領没収となった。直家のあとは播磨国小野に、直頼のあとは伊予国小松に住して存続した。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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