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伊東氏
庵に木瓜/十曜
(藤原南家為憲流)


 藤原南家武智麻呂の後裔に維幾が出、その子為憲は木工頭だったことから工藤を称した。その曽孫にあたる維職が 伊豆横領使に任ぜられて、宇佐美・伊東・河津の三荘を領した。そして、伊豆国伊東庄に住み伊東氏を名乗ったのがそもそもの始まりという。
 工藤を称した祐経は京に上って平重盛に仕えたが、伊豆では祐経の従兄弟にあたる祐親が所領を押領して祐経に返さなかった。 そのため、祐経と祐親との間に悶着が起き、祐経の家来は祐親を傷つけ、その子の祐泰を殺害した。その後、祐経をはじめ 弟の宇佐美祐茂らは源頼朝に仕え、奥州合戦にも出陣して鎌倉幕府御家人となった。祐経は才幹もあり事務能力にすぐれていたことから、 御家人のなかでも頼朝の信任が厚く、幕府内に重きをなした。
 建久元年(1190)、祐経は日向に地頭職を与えられた。所領には庶子を代官として派遣し、みずからは鎌倉にあって幕府に出仕した。 その後、祐経は曽我兄弟に討たれ、嫡男の祐時が家督を継ぎ、旧所領も頼朝から安堵された。祐時のあとは祐光が継ぎ、 祐光のあとは祐宗が継いだ。ところが、祐宗は幼少であったため、日向にあって所領を管理していた叔父祐頼との間で家督をめぐる 争論が起こり、祐宗は日向の領地を失った。
 南北朝の争乱が始まると、祐宗の孫にあたる祐持・祐藤ら伊東氏一族は足利尊氏に属して活躍、祐持は尊氏から日向国児湯内都於郡 三百町を与えられた。祐持は日向に下向し都於郡に城を築いて本拠にすると、畠山直顕にに属して日向の宮方と対峙した。 祐持が京で客死すると、一族の祐熙が家督を継いで日向に下った。ところが、その途中の周防で祐熙は遭難死したため、 祐持の嫡男祐重(氏祐)が家督を継いで日向に下っていった。その若年につけこんだ叔父祐藤は、 本領の伊東庄を横領してしまったのである。

伊東氏の有為転変

 祐藤は兄祐持とともに尊氏に属していたが、尊氏と弟直義との対立から観応の擾乱が起こると、祐藤は直義方に味方して伊東庄を 自分のものにしようとしたのであった。擾乱の結果は直義の敗北となり、伊東庄は尊氏配下の石堂頼房に与えられてしまった。 かくして、伊東氏は伊豆の本領を失うことになり、以後、日向を本拠としたのであった。
 一方、さきに横死した祐熙の子祐茂は、駿河の南朝方に属して今川氏らと対立したようだ。そして、正平十三年(延文三年=1358)左近将監に任じられ、翌年には駿河国浅服庄五十貫文を充行われた。さらに阿倍山のうち大鳥村と狩野庄のうち田中郷の政所職を充行われ、伊東氏は駿河に新たな根拠地をもつことができたのであった。  その後、伊東祐茂は北朝方に転じ、安部山一帯に着々と所領を拡大していった。祐茂の跡を継いだ家祐は甲斐国に所領を得て、伊東氏は駿河・甲斐に所領を保つまで復活を遂げたのであった。
 足利幕府は関東の支配を鎌倉府に任せていたが、やがて、鎌倉府の主鎌倉公方は京都の将軍家と対立するようになった。そして、足利持氏は将軍足利義教と対立して永享の乱を起こしたが、その征伐に功のあったのは駿河守護今川氏であった。その後、持氏の子成氏が鎌倉公方に任じられたものの、成氏も将軍と対立、享徳の乱を引き起こした。伊東家祐は今川氏に従って幕府軍として活躍、管領細川氏から感状を受けている。さらに家祐は今川氏の奉行人格として西伊豆に影響を及ぼすまでになったのである。幕府軍に敗れた成氏は古河に走り、以後、古河公方として関東の戦乱の目となった。
 伊東氏は今川氏に属して一定の勢力を有したようだ。京で応仁の乱が起こると、将軍義政は今川義忠に帰し、西軍山名方の斯波氏にあたらせた。応仁二年(1468)、今川・斯波氏が手越河原で合戦、祐遠は一族郎党を率いて今川方として出陣、嫡男祐範、弟の時氏らを失った。 手越河原は伊東氏の根拠地である安倍山に近いこともあって、伊東氏としても一族をあげて奮戦したものであろう。

乱世を生きる

 文明十一年(1479)、斯波氏に内通した横地・勝間田氏らを討った今川義忠が帰路、残党らによって不意打ちを受け流れ矢にあたって横死してしまった。義忠の嫡男竜王丸は幼子であったため、一族の今川範満が名代として今川氏の実権を掌握すると祐遠は範満に従った。以後、今川氏は範満派と竜王丸派とに分かれて家中は二分されたのである。
 竜王丸の母北川殿は京都伊勢氏の出身で、おりから駿河に滞在していたその兄という伊勢新九郎長氏が両者の調停に乗り出してきた。長氏はよく両者の間をまとめ、範満は引退、竜王丸が氏親と名乗って今川氏の家督を継いだのである。新九郎長氏こそのちの北条早雲であり、伊豆を舞台にして範満派の伊東氏は長氏と対立関係になった。
 文明十四年(1483)、関東を戦乱の巷と化した享徳の乱が終焉を迎えた。ところが、今度は山内上杉氏と扇谷上杉氏との間に対立が生じ、長享元年(1487)、両上杉氏の武力衝突が起こった。伊東祐遠と祐実は山内方に味方して、扇谷方に味方した伊勢長氏(宗端)と対峙した。その間、堀越公方政知がその子茶々丸に殺されるという事件が起こると、長氏は扇谷上杉氏と結んで茶々丸を討ち、伊豆を支配下におさめた。この乱に際して山内方の伊東氏や狩野氏らの一族は、長氏によってその多くが討ち取られ、祐遠と祐実らは宗端に従うようになったのである。
 宗端に属した祐遠らはなおも抵抗を続ける狩野道一を討った功で、伊豆の伊東七郷のうち本郷村を恩賞として与えられた。ここに、伊東氏は紆余曲折を経てかつての本貫地に戻ることができたのであった。永正九年(1512)、祐実は北条早雲の三浦攻めに従軍して活躍、大永四年(1524)には早雲から下平川の代官職を申し付けられている。かくして、伊東氏は後北条氏の被官となり、祐貞は早雲の跡を継いだ氏綱から縫殿助に任じられている。以後、伊東氏は後北条氏に仕え、九郎三郎祐尚は国府台の合戦に出陣して戦功を挙げ、 北条氏の勢力伸張とともに青山郷を宛行われるなど相模にも所領をもち、奉行人としても活躍した。
 祐尚の子九郎三郎は氏政に仕えて政の一字を賜って政世と名乗り、小田原衆の一員として重きをなし、 『小田原衆所領役高帳』には合せて二百三十貫とある。一方、かつての駿河の領地は今川氏の支配下にあって 伊東氏の手を離れたが、先祖の地である伊東郷をはじめ相模などに新たな領地を得たのである。

戦国時代の終焉

 天正十年(1582)、甲斐の武田勝頼が東海地方に侵攻してくると、政世は氏政の命を受けて松田氏らとともに伊豆の三島天神山に籠城した。ほどなく、武田氏は織田信長の甲斐侵攻によって滅亡、その信長も部将明智光秀の謀反によって京本能寺で横死した。信長後の天下取り競争を勝ち抜いた羽柴秀吉は、西国を平定すると、その矛先を小田原北条氏に向けてきた。
 北条氏政は秀吉からの上洛命令に応じなったため、天正十八年、秀吉は小田原征伐の陣を発した。その数、四十万という大軍で、小田原氏の支城群は次々と攻略されていった。このとき、伊東政世は小田原に籠城した西北の曲輪を守って豊臣軍と戦ったという。しかし、多勢に無勢、七月、北条氏政は降伏して自害、小田原北条氏は没落した。
 北条氏滅亡後、その旧領は徳川家康に与えられ、伊東周辺も徳川氏の支配が及んだ。北条氏を浪人したのち、経過は不明ながら政世は一族とともに豊臣氏に召しだされたようだ。しかし、関が原の合戦が起こると、政世は徳川秀忠の軍に属している。そして、徳川家の覇権が確立したのちは徳川氏の奉行人として活躍、慶長十九年の大坂の陣には鑓奉行として出陣、戦後は『惣頭改帳』の奉行をつとめた。 かくして、伊東氏は乱世を生き抜き、徳川旗本として近世へと生き残ったのである。

【主な参考文献:伊東市史・寛政重修諸家譜 など】

●伊東氏の家紋─考察



■参考略系図


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